びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

「ハイデガー入門」竹田青嗣

ハイデガー入門」竹田青嗣

最近時間ができたので、
気になっていたハイデガーアーレントの解説本を借りていました。
(どうでもいいのですが、このお二人、恋人だった期間があったんですね…
 知らずにお二人の本を読んでいたんですが、下世話的にびっくりでした)

なかでも、ハイデガーは敬遠してました。
言葉が難解そうだし、
(ドイツの哲学者って全般的に言葉がやたら難しい、
 ていうか、訳す日本人哲学者も難しい言葉を使いたがる)
ナチスに加担していた問題があったんで…

とはいえ、戦中戦後に多大な影響を与えた、
特に戦後の相対主義(真実なんてない、というなんでもありの世界)の始まりになった人、
みたいなことを聞いていたので、
良くも悪くも今の世界、そしてポストコロナの世界の問題を考えるには
読んでおいた方がいいかも、と思って読んでみました。

この本は、前期ハイデガーの代表作「存在と時間」の解説が前半のほとんどを占めている。
後半では、後期ハイデガーの思想の変化、
それらとナチスへの傾倒との関係、
ハイデガーの功績や影響はなんだったのか、
などを論じています。

ハイデガーは独特の用語を多用しているが、
筆者はそれをかみ砕いて書いてくださっていたので分かりやすかったです。

読んでみると、彼の問い(「存在する」とはそもそもどういうことか)の着眼点と、
それに対する直観的な答えは、たしかに引き込まれる部分もあった。
しかし、もっとシンプルに考えればいいのになあ、とも思う…
哲学者全般に言えることだが、
難解な造語で分かりにくくしているなー、という感じが…

それから、「存在と時間」では、人間の存在の起点を「死」とか「不安」というネガティブなものにしているところが
なんか賛同しかねた。
(まあ、ハイデガー自身、第一次大戦と第二次大戦の間の人なんで、
 死とか不安を抱えていたのかもしれないのですが…)

とはいえ、なぜ彼が当時の青年にあそこまで「受けた」のか…
なぜ、戦後思想にあんなに影響を与えたのか…
を考えていくと、なかなか興味深い。

ハイデガーが影響力があったのは、
第一次大戦後の不安定な時代において、若者がなんとなく感じていた不安を、
生きる意味に結び付け、若者を勇気づけたからだが、
彼の功績はそれだけではない。

特に後期の彼の思想には、根本的に、プラトンへの批判があるのだそうだ。
プラトンなどが始めた形而上学(神と人間を区別する考え方)が、
近代ヨーロッパの問題…帝国主義植民地主義、資本主義→究極的には第一次大戦…、をもたらした、
ハイデガーは指摘した。

だから彼は近代ヨーロッパの問題(なぜ第一次大戦が起きてしまったのか)を解決する契機にもなったはずなのだが、
ナチスやスターリズムのような全体主義に結びつき、逆に二度目の大戦を起こしてしまったし、
その戦後でも、ポストモダン相対主義、真実なんてないというニヒリズムに結びついてしまった。

ちょっと前に読んだ哲学者シェリング
人間が善に向かおうとする動きが悪につながる、ということを論じていたが、
まさにそれを体現してしまった感じだなあと私は思う。
つまり、ハイデガーの思想は素晴らしかったはずなのに、
一方で誤解というか、悪に向かってもいいんだと思わせるものも持っている。

だから、ハイデガーの思想のどこが啓蒙されるべきところか、
一方でどこが悪に向かわせるものか、
を検証することが大事ではないか、と思う。
今もある意味不安定な時代であり、
そういうときに、知識人たちの言葉を間違って受け取らないようにするためにも。

というわけで印象に残ったところを書いておきたいと思います。
筆者も哲学者さんで言葉が難しいので、
私なりの解釈で書いてみたいと思います。

ハイデガーの問いかけ、その意義
 ハイデガーの問いとは「存在する、とはそもそもどういうことか」だったそうです。

 それまでの学問は、物事や人間の存在のしかたを説明するだけで、
 そもそも存在するとはどういうことなのか、を説明してこなかった、と。
 また、みんな存在とはどんなものか、なんとなく分かっているけど
 ちゃんと論理だって説明できる人はいない、ともいう。
 それを改めて考えましょう、というのが、
 「存在と時間」の序章に書かれていることなのだそうです。
 
 そんなことを考えて何の意味があるんだ、と思う人も多いかもしれないが、
 この問いは
  「自分は何で生きてるんだ?」
  「自分の生まれた意味は何なんだ?」
  「この世界はなぜ無ではなく、存在しているのか」
 つまり、世界とか自分の存在している理由とか、
 自分の生きている意味を問う問いにつながっている。

  「自分はなぜ無ではなく、今存在しているのか?
   いや、そもそも存在する(無ではない)ってどういうことだ?」
 となるわけです。
 
 つまり、哲学者が、というか人間がずっと問うてきた、
 生きている意味、世界とはなんなのか、を問うことにつながっている。
 でも誰もまともに答えてない、ということでハイデガーが話題にしている。

 筆者は、この問いに対するありそうな答えを3種類挙げている。
 1形而上学的な答え…神がこの世の存在を作った、大いなるものが作った、という説明。
 2論理的な説明…進化の過程で生まれた、のような、原因の説明。
 3意味論的な説明…こういう状態が「存在」ということだよ、という定義の説明。

 それまでの形而上学(宗教的な考え方)では1が主流だし、
 人間の主観中心に世界をとらえる「実在哲学」は後者2つに近い。
 そして、筆者によると、前期ハイデガーは後者2つ寄りの考え方、
 後期ハイデガーは(本人は否定するが)1寄りになっている、と指摘する。
 
 つまり、前期ハイデガーは、どちらかというと、人間の主観から「存在」を説明している。
 人間の主観がとらえる論理的、意味的なものとして存在を考えている。
 しかし、後期ハイデガーは、「存在」なるもの(人間を超越したもの?)が人間の主観を作っているんだ、
 みたいな考え方に「転回」(ケーレ)している、
 それに合わせて言葉もどんどん難解に、謎めいたものになっているらしい。

 (私の感覚で言うと、2,3は人間の主観、現世的な感覚を重視する人たち(実存哲学とか現象学など)に近い。
  1はシェリングとかカントみたいな、永遠の魂、大いなる存在など、目に見えない世界も見ている人たち(ドイツ神秘主義)に近い感じがする。
  だから、実存哲学の人たち(英米に多い)には、
  後期はハイデガーはちょっとおかしな方に行っちゃった、みたいな扱いになっている感じですかね…
  ちなみにこの本の筆者も、現象学から出発している方なので、
  前期ハイデガーの思想の方を評価している感じがする)

 もともとハイデガーは、フッサールという、「現象学」の始祖みたいな方の弟子で、
 だから「存在と時間」でも現象学的な分析をしている。
 
 現象学とは、私の理解で言うと、主観的な哲学の在り方。
 筆者の言葉で言えば、真理について、
 「真理の成立の根拠を求める」のではなくて、
 「(人が)これが真理だ、と確信する根拠を求める」学問なのだそうです。
 つまり、客観的な真理を探すのではなくて、人間の主観から真理を探るやり方。
 フッサールとかニーチェはこの立場らしい。

 この立場だと、
 客観的な真理なんてものは、本当にあるかないかは分からない(というか検証できない)、と考える。
 しかし、○○は正しい、真理だ、と信じるような人間の主観は確かにある、それは検証できる。
 だから、その人がなぜそう信じるのかというところから、真実(と人が信じるもの)の拠り所を探そう、というやり方を取る。

 この立場がハイデガー前期(代表作は「存在と時間」)なので、
 「存在」についても、あくまでも人間の主観から考える。
 人間の主観(「存在了解」)が事物の「存在」を作る、と考える。
 
 後期ではこの立場を否定する(「存在」が人間の「存在了解」を作る)ようなことを書いているんだそうですが、
 その話は後回しにするとして、
 最初にこの主観の立場から「存在」を分析した「存在と時間」という本について
 筆者の解説がされている。
 
○「存在と時間」前半:「現存在(自分)」と、事物、他人との関係について
 前半は、「現存在(生きている人間)」のことについて分析している。
 ハイデガーの世界観を、箇条書きで書くと、
 ・人間(「現存在」)は、自分の主観の世界を生きている存在である
   ハイデガーによると、事物や自分や他人の「存在」は
   人間がその対象に欲望や関心(ハイデガーは「配慮」とか「気遣い」と呼ぶ)
   を向けることで生まれる。
   
   ふつう、我々の感覚で言うと、事物や人間が元から客観的に存在していて、人間はそれを認識するんだ、
   と思うが、
   ハイデガー(というか現象学的な立場)は、客観的な存在なんてものは無く、
   人間の主観で認識することで初めて存在が生まれるんだ、と考えている。

   ハイデガーの言葉で言うと、事物に対しては「道具」とみなす、と書いている
    (例えば、岩は、客観的な性質の記述(白い、岩石成分は何だ、など)として表されるのではなくて、
     その人にとって座る対象になれば「椅子」として「存在」する 
     鑑賞する対象になれば「芸術品」として「存在」する、という感じでしょうか)
   人間に対しては「存在了解」している、と書いている

 ・世界は、各人の主観の世界が相関しあってできている
   世界の成り立ちに対する考え方も同じ。
   ハイデガーは、客観的な世界がもともとあり、各人の主観がそれを認識する、というわけではなく、
   各人の主観が重なり合って世界ができている、と考える

 ・人間は、自分と他人の主観で共に共存しあっている存在(「共存在」)である
   ハイデガーの用語でいうと
   「共現存在」=他者、「相互共存在」=社会
   人間は、互いの存在を了解、配慮、気遣いしつつともに生きる、社会的な生き物だ、と論じている

   「気遣い」の在り方も二種類ある
   ・他人から気遣いを「奪う」…相手を脅かす、恥ずかしがらせるなど
   ・他人に気遣いを「返す」…相手を思いやる、相手を受け入れる

   ハイデガーは人間は「本来的な(理想的な、というニュアンス)在り方」があるはずだが、
   我々は普段は「非本来の存在」を生きている、と考える。
   そして、他人への「気遣い」に対しても、普段は我々は非本来的な(理想的でない)な在り方だ、として、
   それを「世人」と呼んでいる

   世人には3つの特徴があって  
   ・懸隔性…他人と自分を比べて、他人に追いつこうとしたり、他人に優越しようとする
   ・平均性…世の中の常識とか基準を気にする
   ・均等化…突出した人を排除しようとする
   彼はこれら3つを「公共性」と呼び、
   世人とは、「本来の自分に向き合う責任を回避している」「現存在に迎合している」と書いている
  
  これはつまり他人と比べたり、足の引っ張りあいをしたりする感じ。
  俗っぽくて分かりやすいですね。
  
 ・我々の存在の根拠は、対象のない漠然とした「不安」である
  ハイデガーは、我々の存在の本質は
  「情状性」「了解」「語り」だと書いている
  「情状性」(気分)
   気分の中でも、「不安」を指しているらしい。
   ハイデガーは「恐れ」は対象が分かるが、「不安」は対象が無い得体のしれないもの、と区別している
   不安とは、自分の存在を脅かすもの、意思に関係なく襲ってくるもの、とも書いていて、
   そのために、不安とは自分の存在の重さを知らしめるのだ、
   だから、不安は存在の根拠だ、と考える
  
  「了解」
   不安の気分を受け取ること。
   それだけではなく、不安を受け取ることで、本来の存在の在り方を意識すること、
   それによって、本来の在り方に向かっていくんだ、と意思することも含まれる
 
  「語り」
   了解(存在の本質に対する認識)を言葉にすることだが、
   同時に、言葉自体が了解のあり方(本来の在り方)を決める面もある。
   また、言葉にすることで、他人と通じるものになる面もある。
  不安を感じるからこそ、よりいい生き方をしようと考える、という感じか。
   
 ・普段我々が大概過ごしているのは、本来あるべきでない(非本来の…理想的でない、というニュアンス)存在の仕方である
  (これをハイデガーは「頽落(たいらく)」と呼んでいる)
  ハイデガーは、存在には「本来的な在り方」があるはずだが、
  日常的な人間はそれを忘れてしまって「非本来な在り方」になっている、と考えている

  そして、「非本来な在り方」を3種類挙げている
  ・空談…くだらないおしゃべり。「存在の本質」での「語り」に対応している
  ・好奇心…なんとなく面白い話はないかな、という気持ち。「了解」(本来の在り方を目指す認識の在り方)に対応している
  ・曖昧性…ある出来事について、一般的な意見を交わしあうだけの状態、互いの本来の存在を了解しあっていない状態
   
  これも、本当に自分のやりたいことをやらずに、
  なんとなく流行を追ったり、くだらないテレビを見たり、適当な意見を言い合ったりして過ごしている状態…
  …と、日常感覚としてとらえられて分かりやすい。
  
○「存在と時間」後半:「現存在(自分)」と、時間性、死、歴史との関係
 前半でハイデガーは、人間の存在の本質は「不安」だと言ったが、
 後半ではその不安は究極的には「死への不安」だとしている
 ここでの考え方を箇条書きでだいたいまとめると
 ・人間は死を意識して生きるはずの存在で、それが本来の在り方だが、
  普段の我々(非本来的な存在)は死を避けて生きている
 ・我々は、死を意識して生きることで、人間存在の本質に直面して生きることができる
  ここではまず、ハイデガーは「死」とは何かを分析している
  死の性質として
   ・交換不可能性…死ぬのは自分だけ
   ・没交渉性…死ぬときは一人
   ・確実性…人は必ず死ぬ
   ・無規定性…いつ死ぬか、どんな死に方をするかは分からない
   ・追い越し不可能性…死を越えることはできない

  死はこのように、逃れられず孤独で、予測もできない恐ろしいものなので、
  人はこれを直視しようとしない。
  そしてこのように死を直視しないことが、
  本来の生き方を生きようとしない「頽落」につながる、とハイデガーは考える
  しかし、逆に死を意識すれば、自己存在の本質を自覚することができる、と考えている
  この死を意識することを「先駆」と呼んでいる 
  
  ここで出てくる単語が「先駆」「良心」「決意」で
  「先駆」…死を意識すること
  「良心」…本来の自己を生きろ、という自分の内面からの呼びかけのようなもの
  「決意」…本質を生きること。また、他人と本来的な相互共存在として生きることも指す
       これは、他人にも本来の自己として向かい合い、他人の本来の自己も尊重し、
       互いに思いやりなどをもって生きる、というようなニュアンス

  そして、死を意識することで、本質を生きることを「先駆的決意」と呼んでいる
  また、ハイデガーは、先駆的決意性(死への意識)を持つことで、
  「本来性」(本来の生)だけではなく、「全体性」(みんなのため)を持って生きることができる、ということも述べている

 ・死を意識して生きることで、人間は主観的な時間を生きることができる。この主観的な時間を生きることが、存在の本質である
  ハイデガーは「時間性とは、「先駆的決意性」という現象に即して経験されるものである」と書いている。
  「時間」と「存在」は関係がある、というのはハイデガー独特の考え方だが、
  彼は、死への意識を持つことで、主観的な時間を持つことができる、と考えている

  ふつう、時間は「過去」「現在」「未来」というが、
  ハイデガーはこれを「既在」「現存在」「到来」と呼んでいる

  「過去」「現在」「未来」は物理的な時間を指す。
  一方「既在」「現存在」「到来」は主観的な時間で、
  「到来」とは、本来の生をめがけて生きる、
  「既在」とは、過去の責めを引き受けて生きる、という意味合いをもつ。
  こういう時間意識を持つことで、本来の生を生きることができるのだ、と。

  これまでのハイデガーの考えをまとめると、
  事物の「存在」は人間の「存在了解」(人間の主観が認識すること)で作られる。
  人間の「存在」の根拠となるのは、「気遣い」(その人の主観)で
  そして、この「気遣い」を可能にするのは、時間性(死を意識して生きる主観的な時間)である、と。
 
 ・主観的な時間を生きることで、歴史に対する自覚を持ち、先祖や共同体と共通するような良心を生きることができる
  ハイデガーは、この主観的な時間での「本来的な生」は、
  歴史や共同体など、時間や空間を超えて共通するものだ、と考えている

  ハイデガーは、人間は客観的な物理的時間の中に生きるのではなくて、
  死を意識したうえで、自分の時間を生起しつつ、自分を伸び広げつつ生きる存在だ、と考えた。

  そして、「先駆的決意性」死を意識して良心を持ち、時間を広げながら生きていくと、
  自然と「歴史に対する自覚」を持つようになるはず、と述べている。

  つまり、人間には、どんな時代でも共通する良心とか倫理観があるはずだ、とハイデガーは考えていて、
  人が本来的な存在を生きることで、それを歴史の中で引き継ぐことができる、と。
  それを「宿命性」(「本来的な決意性の内に潜んでいる、現存在の根源的な生起」)と呼んでいる。

  また、こういう良心や倫理観は、共同体中のどの人にも共通して存在するはずだ、と考えていて
  それを「共生起」(「共同体や民族の生起」)とも呼んでいる。

  …良心や倫理観は、どの人も時間や空間を超えて同じはずだ、
  というのが前提の考えとしてあるんだろうと思うが、
  うーん、この辺の考え方はついていきにくい…
  倫理観とか真理を共有する基盤が「歴史」「民族」「共同体」としてしまっているところが
  のちにハイデガーが、民族主義ナチスと結びついてしまった原因なのかな、と思う。

  筆者によると、ハイデガーは元々ナショナリストの傾向があったらしいし、
  当時戦争でドイツが攻められていたので、
  そういう恨みというか、ほかの民族は信じられない、という感情も遠因としてあったのかな、と思う。

○「存在と時間」の意義
 さてここまでで、筆者は、ハイデガーの「存在と時間」の意義を以下のように述べている。
 ・当時、人々、特に若者たちが感じていた死や不安に対する拠り所を与えた
  ハイデガーがこの本を出したのは、第一次大戦直後。
  戦争は、多くの人を無機質に殺していく。命の尊厳など考えられることがない。
  こういう死をたくさん目の当たりにしてしまった人たちにとっては、
  宗教のような、「安易な死の物語」は受け入れられにくい。
  ハイデガーの哲学はこういう人たちに、死に対する不安、存在に対する不安への説明を与えた面がある

 ・「存在の本質」について、「現象学」の立場で分析している
  ハイデガーは、存在の本質とは、普通の人間の生の経験の中に必ず存在しているはずだ、と考え、
  それを取り出そうとしている
  筆者によると、これは「現象学的な立場」なのだそうです。

  つまり、それまでの宗教的な立場だと、人間の存在の拠り所とか、真実のよりどころは、
  「神が作ったんだよ」という現実味の無いストーリーで語られていた。
  そして、聖人が修行したり、知識人が哲学したりすることで、神の真実を取り出せるものだ、と考えていた。

  しかし、ハイデガーなど現象学、実存哲学の人たちはそうではない、と考える。
  そういう真理は、人間の主観からえられるはずだ、と。
  普通の人でも、生の経験をしていく中で得られるはずだ、と。
  
  ハイデガーはそういう視点から、人間の感覚で得られるものから
  事物の「存在」や人間の「存在」の本質を取り出そうとした

  筆者は、これがハイデガーの功績ではないか、と述べている。
  存在とは何か、について、
  道徳のような公共的な(自分ではなく誰かの)善とか、宗教的な「物語」として説明することは、
  指針や希望は与えてくれるかもしれないが、「自分の」哲学にはならない。
  「自分」の感覚から「善」や「真理」を導き出すことが必要で、
  それを行ったのがハイデガーではないか、と。

  …ただ、筆者はハイデガーの「頽落」の概念がよろしくない、と指摘している。
  それによって、今の生の在り方はダメだから、理想の世界を作ろうという話になってしまう。
  それは理想郷を夢見るナチススターリニズムにつながるのではないか、と…

○後期ハイデガーの思想
 ハイデガーの思想は、前期と後期で大きく変わっている。
 筆者の表現で言うと、 
 前期は「「存在」とは、人間の「存在了解」が規定している」
 後期は「「存在」が、人間の「存在了解」を規定している」

 後期の本では、「存在」とは「無」とか「超越」などの言葉でも表現されていて、
 それが「人間の本質」を指す言葉にもなっている

 これをちょっと見ると、
 前期は人間の主観が世界を作っていると考えていたが、
 後期になると、人間を超えた存在(神とか大いなるもの)が世界や人間の認識を作っている、という方向に考えを変えた、
 という風に読める。

 しかし、ハイデガー自身は現象学から出発しているのでこれを否定しているし、
 私自身もちょっと違うと感じた。
 (ここから先は、ちょっと難しかったんで、正しい理解かは分かりませんが
  私の解釈で書いてみたいと思います)

 なぜなら、ハイデガーは神という世界を考える、形而上学的な見方を批判している。
 ただしハイデガー神学者でもあったみたいなので、神という言葉は使わないが、
 自我を超える超越した存在に我々は生かされている、的な直観はあったと思う。
 
 というのは、後期の「無」と「現存在」について以下の記述がある。
 「現存在(人間)は無の中に保たれつつ、常に事前に全体としての存在事物を越え出でている」
 「もし現存在が無の中に前もって保たれているのでなければ、決して存在事物にも関係できないだろう」
 「無が存在事物の対立概念をもたらすのではなく、むしろ根源的に存在事物の本質に属しているのである」
 
 …筆者の解釈では、「無」とか「超越」は「人間」と同じものと見なせ、とある。
 しかし筆者の解説を詳しく読んでいると、完全にイコールではない気がする。
 私の解釈で書くと、
 「無」とは、人間や事物を生み出す前のものであり、
 「無」は、人間の本質や事物の本質を内包している、
 というか、根源的にどれも同じワンネスだった、という感じ。
 本来の自分と、物事の本質、世界の本質は深いところでつながっている、と。

 ただ、その中で人間の本質(人間の意識や主観…ハイデガー的に言うと「配慮」)だけは、
 「全体の存在事物を越え」た存在である、とハイデガーは書いている。
 つまり、人間は無から生まれるが、人間の「配慮」だけがほかの事物を「存在了解」する(=「人間の本質」の主観だけが、事物を認識して「存在」させる)
 そこからモノの「存在」、ひいては世界が生まれるんだ、と。
 
 ハイデガーは、この存在了解、事物の本質をあらわにさせることが、
 人間の持つ自由だ、ということを書いている。
 
 ただ、これは人間が対象を好き勝手に解釈する、という意味ではない。
 ハイデガーは、事物の本質を見出すことを人間の「自由」と呼ぶが、
 自由についても二種類考えていて、
  執自的(自己中心的な自由)…真理を「忘却する」性質がある
  脱自的(本来的な自由)…真理を「あらわにする」性質がある
 ということも書いている
 つまり、その事物を好き勝手に解釈することは、その事物の本質から遠ざかることと同じだ、と。
 本来の自分を生きて事物に触れることで、
 初めてその事物の本質をあらわにすることができる。

 …こう考えていくと、結構カントとかシェリングとか他の宗教などの言っていることと似ている感じがする、と私は思う。
 シェリングなどは、本当は「本来の自分」は神と重なっている、
 だけど日常的な自分(自我)は神から外れていってしまうので、
 それを思い出して本来の生を生きることが、本当の自由につながる、…という感じの考え方だが
 言い方が違うだけで、言わんとすることは似ているんじゃないか、と。
 
 ただ、ハイデガーがカントなどと違うのは、神という概念を持ち出していないということ。

 ハイデガーは、後期の作品の中で、形而上学(宗教学、神への概念)のもととなった、プラトン哲学を批判している。
 この際、プラトンよりも前のギリシャ人の考え方「アレーテイア」「ピュシス」に戻れ、
 ということを書いているらしい。

 「ピュシス」は、その存在が持つ本来の姿、という意味合い
 「アレーテイア」はピュシスをあらわにすることで、
 普段は見えない真実を、隠されたものからはぎ取ってあらわにするもの、という感じ。
 そして、ギリシャの考え方では、アレーテイアを行うのは人間だ、と考えていた

 一方プラトンイデア論では、
 イデアという超感性的な世界(神の世界、客観の世界)があって、
 人間の感覚には、そのイデアの記憶があるから神の声が聞こえるんだ、としたらしい。
 つまり、神の世界(超感覚、客観の世界)、人間の世界(感覚、主観の世界)、というものを考え、
 人間の感覚と神の客観世界とが一致したときを「真理」だとした

 ハイデガーによれば、 
 これがヒューマニズム(人間中心主義…人間の現世的な感性を中心に考える在り方)の始まり、
 形而上学(宗教)の始まりで、
 これこそが「存在の真理」を人間から忘却させてしまったのだ、と批判する。

 ハイデガーが何を批判しているのかを私の解釈で書くと、
  もともと人間の本質には「事物の本質」をあらわにする力がある。
  それが人間の「自由」である。
  事物の本質とは、別に神の世界のものではなくて、
  人間の日常生活でも、「本来の自分」を生きれば、事物の本質をあらわにできる。

  しかしプラトンイデア論とか、近代ヨーロッパの宗教観の説明では、
  事物の本質は神の世界だけにあり、
  人間は単に神の世界のものを読み取るだけだ、という風に解釈できる。
  だから、人間は本質を自分のものとしてとらえられず、本質を生きられなくなったのだ、
 …ということかなと。

 また、ハイデガーは別の本「技術論」でも
 もともと技術の本質とは、「ポイエシス」(テクネー(技術)の本質を明らかにする、という意味)だと書いているらしい。
 しかし、近代技術はポイエシスではなく
 「挑発」「立て組み」になってしまっている、という。(これはニーチェから借りた言葉らしいが)
 挑発とは、「自然に対してエネルギーを供給せよという要求を押し立てている」
 立て組みとは、「自然や人間を役立てるように仕立て上げる」という意味らしい。

 つまりハイデガーの批判するところを、私の解釈で書けば、
  人間は、物事や世界の本質をあらわにする力を本来持っていて、
  本来の生に向き合えばそれができるはずである。
  なのに、人々は形而上学(宗教学)のせいで、それは神の世界のものだと思ってしまっている。
  だからいかに生きるべきかなどの問題は、神や宗教者とか知識人に任せればいい、となり、
  非本来の生(くだらないおしゃべり、ゴシップ、金儲けなどに気を取られる生き方)になっている、と。
  
 ちなみに、ハイデガーは芸術論も書いている。
 これに関しては記述が少ないのですが、ハイデガーの見方はけっこう鋭いかなと個人的には思った。

 ハイデガーは、芸術の本質とは、対象をそのまま描くだけのものではなく、
 対象の本質をあらわにするもの、と考えていたそうです。
 これについては、ゴッホの絵についての細かい記述が素晴らしかったです。
 (農家の姿そのものだけではなく、
  彼らの生活の苦しさ、それを乗り越えた充実感なども描いている、と…)

 ほかの哲学者の芸術論と比較すると、
 カントは美を欲と善の間に置き、美は善を表現するべきもの、と考えていた(これはカントの願望が入っている気がするが…)
 一方プラトンニーチェは、人間の愛とかエロスの表現が美で、善よりは下に置いている。
 特にニーチェはエロスとか陶酔、力という言葉も使っている。
 私は美にはそういう重たい人間の欲情だけではなくて、
 もっと魂的なもの、その人の魂の表現がこもっている気がするのです。

 そう考えると、ハイデガーの見方はなるほど、と思う。
 たとえば、特に演技のような、表現者がはっきりしている芸術はそうなのですが、
 芸術の作品は、作品のテーマ自体の本質も現れるけど、
 演者(絵なら描き手とか)の生の魂もさらけ出す面があるのかな、と思う。 
 さらに言えば、こちら(見る側)の「自分」もつかみだされてくる気がするのですよね…
 それらが全部合わさってくる時、
 見る側の心が揺さぶられる、ということが起きるのかなあと。
 だから、「芸術は本質をさらけ出す」という表現はしっくりくる。

 ただ筆者によると、ハイデガーは「対象の本質」の起点を「死への恐怖」と考えてしまっていて、
 それが芸術の直観的理解をゆがめてしまっている、と指摘している。
 たしかに私もそうだと思う。生きる本質は、恐怖だけでなく喜びなどもあるはずなので…

ハイデガーナチス加担論に潜む根深い問題
 次は、ハイデガーナチスとの関係について。
 1988年、「ハイデガーナチス」(ビクトル・ファリアス)という本が出され、
 物議を醸したそうです。

 この本は、ハイデガーが、ナチスを思想的にも行動としても支持していた、 
 ということを検証した本だそうです。

 これに対する哲学界の反応は極端に二分され、論争にもなっている。
 (論争になった背景には、
  当時のデリダ対反デリダ、の代理論争的な面もあるらしい
  デリダは当時フランス哲学界のスターで(だから敵も多かっただろう)、ハイデガー派とされていた。
  実際、「ハイデガーナチス」を出版するのを後押しし、センセーショナルに取り上げたのは、反デリダ派の人だった、
  …という話もあるらしい)

 一つの反応は、ハイデガーが黒いんだから、ハイデガー思想も禍々しい、としてしまう反応。
 もう一つは、ハイデガー擁護の反応(デリダはこの立場)。

 筆者はこれらに対して、
 1ハイデガー本人がナチスに加担したこと、本人も反ナチスナショナリストな傾向があったことは認めるべき
 2しかし、ハイデガーの思想の意義は認めるべき 
 3かといって、ハイデガーは思想の上では偉大だが、行動が悪だった、
  分裂した人だった、という簡単な結論で済ませるべきではない
 という意見を述べている。
 
 1については、実際ハイデガーナチスを積極的に支持していたらしい。
 たとえば演説において、
 アメリカ参戦を、「アメリカの無歴史性と荒廃を示す行為」とし、
 それに対するナチスの戦いは、「現代社会の俗物的精神に抗して」「ドイツ人が存在の真理と協調できるかどうか」
 だというようなことを言っているらしい。

 つまり、明らかにハイデガーは、プラトンに向けた形而上学批判を近代アメリカにも向けていて、
 アメリカとかイギリスによって「頽落」してしまった「人間の本質」や「存在の真理」を取り戻させるのはナチスだ、
 と考えていたように読める。
 これは3にも関連するが、もともとハイデガーの思想自体が「民族」「歴史」「共同体」を拠り所としていて、
 ナチス思想につながる危うさがあった。

 とはいえ、これは2に関連する話だが、
 ハイデガーの思想の功績として、近代ヨーロッパ形而上学の問題点を指摘した面がある。

 ここらへん筆者は複雑に書いているので、私の解釈で書きますが、
 歴史の流れで見ると、ヨーロッパは二つの大戦を通じて二つの忌むべき記憶を抱えている。

 一つは、第一次大戦の原因となった、帝国主義、資本主義、技術中心主義、理性主義、ヨーロッパ中心主義。
 そして、これらは、ハイデガーが特に後期で、プラトン形而上学から発する思想だとして批判していた。
 結果的に、これらのアンチテーゼとして、ハイデガーナチスを支持した。

 しかし、そのナチスは、今度は極端な民族差別、全体主義を作ってしまった。
 同じ時期に生まれたスターリン社会主義も、帝国主義へのアンチテーゼだが、これも全体主義となった。
 これがヨーロッパの抱える二つ目の忌まわしい記憶で、これが第二次大戦の原因となった。

 そして筆者の指摘では、
 反ハイデガーの人たちは、
 ハイデガーナチスだとして批判し葬り去ることで、
 ナチス(反ユダヤ)という、ヨーロッパのまがまがしい記憶(第二の記憶)を消し去ろうとしているのではないか、と。
 しかし、それにより、ハイデガーの指摘した、
 帝国主義などの問題(第一の記憶)までも消し去ろうとしている面がある、と。

 そして、デリダなどのハイデガー擁護派は、反ハイデガー派のその点を批判している。
 ハイデガーは、確かにナチスに加担したが、理性主義、技術主義、ヨーロッパ中心主義を指摘したのではないか、と。
 
 私の記憶だと、ハイデガーは、戦後のポストモダン思想(これ自体は構築主義とか脱構築主義とかいろいろあって、まとまりはない)
 の始まりとなった…と言われていたような気がするが、
 それはハイデガーが、戦争の原因となった、近代ヨーロッパの問題点を指摘していて、
 それが、戦前の思想の乗り越えを必要としていた戦後の思想家たちに
 フィットしたからだろう、と思われる。

 ちなみに同じくヨーロッパ形而上学の問題点を指摘した人として、
 比較のためにニーチェのことも書かれていました。
 
 ニーチェもヨーロッパ形而上学を批判しているのだが、
 彼はハイデガー以上に主観の哲学の人だったようです。

 ニーチェは人間の「快」「力」「官能性」「恍惚」「陶酔」(生々しい人間の感覚…)
 が人間の本質として、キリスト教価値観がそれをゆがめた、と考えた。
 キリスト教にはユダヤ人の虐げられた記憶があり、それがルサンチマン(恨み)の感情となり、
 本来の人間の感覚から発するべき本質をゆがめてしまっている、と
 (例えば、聖書でいう「弱き者は善人」という価値観は、
  虐げられた弱きユダヤ人が、自分たちは善人だと思いこむために生まれたものだ、という感じの考え方)
 彼は、キリスト教を経由したヨーロッパ形而上学が本来の人間の価値をゆがめたと考えたので、
 神は死んだ、宗教を捨てろ、みたいな呼びかけかなと感じる。

 これに対しハイデガーは、特に後期では
 人間の本質、事物の本質、神の本質みたいなものは、元々同じワンネスで
 人間は本質を元々分かっているはずだ、
 それなのに形而上学が、神の世界と人間の世界は分かれていると解釈できるような表現をしたから、
 人間は本質を生きるのを放棄してしまい、精神の荒廃が始まったんだ、…という考え方だと思われる。
 だから、こちらはどちらかというと、神の世界に戻れ、という呼びかけかなと感じる。

 しかし、筆者はハイデガーも、ハイデガー擁護派も、反ハイデガー派も、
 前の思想を全否定しただけ、という意味では態度は同じだと指摘する。
 ハイデガーハイデガー擁護派はプラトンから始まる近代ヨーロッパ主義を全否定しただけで、
 結果的に全体主義を生み出している。
 反ハイデガーも、全体主義を否定するだけで基本的な態度は同じである、と。
 
 たしかに、ニーチェハイデガー後の思想は
 結局相対主義(真実は解釈する人次第、という感じの考え方)を生んだだけで、
 近代ヨーロッパの虚しさはあんまり解決されていないかも…
 
○筆者の考える、ハイデガーの問題点
 そこで、ハイデガーの功績を今一度考えると、
 ハイデガーの功績は、そもそも存在って何だ、という問いかけを提示し、
 それを神の物語としてではなく、人間の主観から説明しようとした点にある。

 彼の探り方、答えとしては、
 真理や本質は、遠いところにあるのではなく、私たち自身の中にある。
 本来の自分に戻りさえすれば、物事の本質を知る力が我々にはあるのだ、と。
 
 しかし、筆者はハイデガーの問題点として「頽落」を挙げている。
 我々は本来の生き方ができているはずなのに、
 日常は非本来を生きてしまっている、とハイデガーは考える。

 この考え方によって、「存在の本質」を、
 日常とは別の、現実味の無い「本来的存在」という理想郷に投げ込んでしまっている。
 それは、神という現実味の無い物語を考える、従来の形而上学の態度とほとんど同じではないのか、
 と筆者は指摘する。

 しかし私は、ハイデガーの「頽落」の考え方自体は別に悪くはないんじゃないか、と思った。
 というのは、実際人間の頽落は確かに起きているからです。
 何のために生きているかなんて、普段あんまり考えないし、
 くだらないおしゃべりやネットニュースを見て過ごす、という日常を我々は過ごしている。

 ただ、私がハイデガーの問題だと思うのは、
 「人間は頽落してしまった」と言い切ってる所じゃないか、ともう。
 どうせみんな頽落してる、という現状に対する絶望、あきらめに見えるし、
 見ようによっては人間というものを本当は信じていないのでは、と感じる。

 私自身は、人間はたしかに「頽落」しているが、「頽落」していない面もある、
 善も悪も同時に存在している、と思うのです。
 今のコロナの状態においてさえ、
 経営が苦しい飲食店の方が、医療関係者や貧困家庭のためにお弁当を作ってあげたり、
 医療従事者にお花を届けようという方など、
 とても「頽落」とは思えないような素晴らしい行いも、我々は目にすることができるからです。

 ちなみに後世のレヴィナスという方は、ハイデガーの哲学に垣間見える自己中心性を批判しているそうです。
 彼は頽落ではなく、ハイデガーの「自己了解」という概念を批判している。
 「自己了解」というと、他者や事物を自分の中に取り込んで世界にしていく感じがあるが、
 他者の了解を「存在の本質」の拠り所にすべきではないか、
 という筋の批判をしているそうです。

 筆者はこれに対しても、レヴィナスは、他者の了解「のみ」に本質が存在する、
 と考えている点で問題だ、としている。
 そして、外部からではなく「自分」の内部から本質を取り出すことが重要ではないか、
 それがハイデガーから突き付けられた問いではないか、という感じでこの本は終わっていました、
 
 が、私は、レヴィナスの批判も、筆者の言わんとすることも分かる。
 神とか「本来の存在」とかいう遠い話ではなく、
 日常から、「自分」の感覚として「人間の本質」を取り出すこと、
 それは「自分」だけの独りよがりの感覚ではなく、他人に強制するものでもなく、
 他人と分かり合える価値観を、話し合いとか互いに学びあうことで
 引き出していくことが大事なのかな…、と。。

…さて、この本を読んで全体的に感じたことを書くと、
 (とはいえ原文も読んでないし、
  ほかの解説者の本も読んでいないので、片手落ちな感想になりそうですが、
  そこはご容赦ください)
 私の中では、ハイデガーは「存在と時間」が代表作かと思っていました。
 筆者も現象学の方として、前期ハイデガーの方を評価していて、
 後期の「頽落」の概念が彼の思想をゆがめてしまった、みたいなことを書いています。

 たしかに「存在と時間」に書いていることは、
 現実に不安や恐怖を持ったり、生活に悩む人にとって分かりやすいと思う。
 不安を感じるからこそ我々は存在しているんだとか、
 死ぬことを考えれば全力で生きられるんだ、という力強いメッセージを感じる。
 現象学という考え方も、生の実感から真実を取り出すべき、という考え方は今の人にフィットしていると思う。
 
 しかし私個人としては、後期ハイデガーの方が今見直されるべきと感じました。
 一つは、これは私の直観的な感覚としてなんですが、
 人間は主観とか、この世とかの世界だけではなくて、
 目に見えない世界も含めた存在であるような気がするからです。
 少なくともニーチェみたいに、人間の感覚がすべて、として見えない世界を切り捨てるのではなくて、
 超越とか無の概念は今後必要である気がする。

 もう一つは、彼が特に後期思想で示した、近代ヨーロッパの課題はまだ解決されていない、
 というかむしろ強まっているように思うからです。
 彼の思想は、たぶんポストモダンの人たちには、近代ヨーロッパの否定という意味合いが強くて、
 「本質をあらわにする、人間本来の生き方に戻れ」
 「儲け主義、自然の単なる利用だけではなく、技術の本質、芸術の本質とは、本当は何かを考えよ」
 というメッセージはあんまり生かされていないように感じる。
 だから、本当なんてない、という相対主義が広まってしまったし
 (今のフェイクニュースの広まりとか、中国での言論の抑え込みとかはそれにつながっていると思う)
 科学至上主義、理性主義のままだし、
 人工知能に評価をゆだねる、ということも起きているのかなと思う…

 ただ、「本来の生」とか「本質」てのは何なのか、わかりにくい。
 というか、ある意味個人的なもので、たしかなものはないのだろう。
 個人個人が本来の自分とは何か、
 本当に自分が欲しているものは何か、本当に心地よいものは何か、
 を感じて探って見つけていくものなのかな、と思う。
 
 存在の本質は分かりにくいものだから、分かりやすいものに我々は飛びつきやすい。
 だからこそ、第二次大戦のナチスや、社会主義のような、分かりやすいスローガンに流れやすくなるのかもしれない。
 今後も、分かりやすいことを言う政治家や知識人たちに流れてしまう、
 …というのはあり得ることだと思う。

 だから我々一人一人が、自分で感じること、自分は本来の生とか本質を分かっているはずだ、と信じること、
 むしろ分かりやすいものを疑うこと。
 そして、本当にいいと思うものだけを受け取ること、発信していくことが大事かな、と。

 …それからもう一つこの本を読んでいて感じたのは、
 ハイデガーみたいな知識人が発するものに対して、
 読み手の方も、本質を読み取る能力も試されている、ということ。

 ハイデガーは「存在と時間」が、自分の書いた意図通りに受け止められていない、
 と嘆いていたそうなのだが、
 書かれたものの分かりやすさ、表面的な意味合いだけではなくて、
 何を警告しているのか、何を批判しているのかを見極める力、 
 それを自分の人生と結びつけて考えていくことが、読み手には必要かなと感じました。
 
 たとえば私は今哲学者のマルクス・ガブリエルさんが好きなのだが、
 彼も「そもそも存在とは何か」という問いと格闘しているように見える。
 彼なりの答えはけっこうハイデガーと近くて、
 現実は、主観によって作る「意味の場」の折り重なりにより成り立つ、というあたりは似ている。
 (とはいえ、彼自身はハイデガーについて、ナチスとの関係を知ってからボロクソに言ってましたが(笑))
 しかし単なる主観の哲学ではなく、
 いろいろもがいてらっしゃるなあというのがよくわかる。
 
 ところが彼はアメリカ、特にトランプさんを痛烈に批判するし、
 科学や安易な人工知能化を批判している。
 その意図するところは、
 「啓蒙なき科学は、一人一人が考える力を失ってしまう」
 「一人一人が哲学し、倫理観、善、真理、自由などを自分の頭で考えよう」
 「それを対話しあい、お互い確認していこう」
 ということだと思うのだけど(少なくとも私はそう受け取っているが)
 単なる分かりやすい、強い言葉を取り上げるだけではなく、
 その奥で本当に意図するところを読み取らないといけないな、と自戒を込めて思います。
 
…ほかの方の解説文も時間があれば読んでみたいと思います。
(原文は読む気力がわきませんが…(笑))

というわけで、長くなりましたが今回はこの辺で。