びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

「新記号論 脳とメディアが出会うとき」石田英敬、東浩紀

「新記号論 脳とメディアが出会うとき」石田英敬東浩紀

題名にひかれて読んでみた本です。

先日、大澤真幸さんの「社会学史」という本を読んでいて
古代から現代までの思想の流れがざっと紹介されていました。

しかしそのなかで記号論はあまり扱いが大きくなかったような…
なので逆に興味が湧いていました

今回、この本ではその記号論を新しくとらえ直し
哲学や自然科学ともつなげる試みがなされています

扱われているのも
フロイトスピノザフッサール等々、
なんか聞いたことがある哲学者がズラズラ並んでいる…

特にフロイトは、今まで性的な妄想が強い人?っていうイメージだったんですが
(スミマセン)
いやいやちゃんと神経科学者だったと解説されていて
後世の人文学者たちに影響を与えているだけあるんだなと勉強になりました。

と思ったらトランプさんやガーファ、人工知能の話なんかも出てきて
話がとても現代にフィットしているというか、
読んでいて面白かったです。

共著の形になっているんですが
石田さんは、東さんの大学時代の先生で
20年ぶりにある学会で再会したのだそうです。
(なので20歳ほどの年齢差があります)
そこで人文科学の未来についての話で意気投合し、
東さんの主催する「ゲンロンカフェ」というイベントスペースに
石田さんを招いて公開講義を開いた、
その様子を収録したのがこの本だそうです。
(動画でも配信されているそうです)

東さんは一般の人にも分かりやすくすることを心がけておられて、
石田さんのお話に途中で質問を挟んだり
解釈を入れてくださったりしていて
それで話が広がったり、
理解しやすくなったりしていました。
そういうライブ感もあったのも良いです。
たぶん一方通行で聞いてたら寝そうな内容なんで(笑)

最初は1回4時間の予定が収まりきらなくなり
3回に分けての講義になったそうです
それでもまだまだ話し足りない様子、
てのが頷けるほどボリュームたっぷりです。

内容を私なりに咀嚼していきたいと思います
(色んな学者さんのオマージュ的な表現もあるが、
 私は元ネタがわからんので、
 知ってる人はもっと楽しめるかもしれません)

<第1講義 記号論脳科学
ここでは主に石田さんの問題意識が語られていました

記号論、メディア論と文明との関わり
 最初に石田さんは、
 ご自身の目指すメディア学についてのお話をされていました
 彼はメディア論をテレビとか映画の話だけではなく、
 もっと大きなスパンで、
 文明との関わりから論じる、
 のが狙いなのだそうです

 例えば彼の目から見ると
 メディアはテレビなどが生まれた20世紀以降の話ではなく
 大昔の洞窟の壁画から始まっているのだそうだ。

 というのは、3万年前のショーヴェ洞窟(クロマニョン人の時代)の壁画を見ると
 動物の絵が、パラパラ漫画みたいなコマ絵の描き方なんだそうです
 これを躍りながら見たら、
 たぶん映画のように動いて見えただろう、と。
 この時代からシネマは始まっているんだ、と。

 そしてこのクロマニョン人の手描き動画が
 アナログメディアにより描かれるようになったのが
 19世紀に出てきたシネマなのだそう

 また、壁画を描き始めたということは、
 手で描く→メディアの始まり
 絵を認識する脳→記号の始まり
 でもあり、
 つまり壁画はメディア論、記号論の始まりと考えることができるそうです

 (…いきなり原始時代の壁画から始まっているのに度肝を抜かれました。
  メディアってそんな大昔から始まっているのね…
  たぶん人が他人と協力して社会を作った時から
  意思を伝えあう手段としてのメディアは始まっているのだろう。)

記号論とは
 そもそも記号論とは何か?
 一般に記号論とは、19世紀後半~20世紀にフッサールが始めたもの、
 とされているようです

 フッサールの時代は、
 映画や蓄音機、テレビ、ラジオなどのアナログメディアが誕生した
 それまでは、メディアというと本だった

 そこでフッサールは、これらの媒体に記録されるものである「記号」の分析を始めた
 そして、今までのメディアの中心だった言語は
 記号の一部とみなした(言語は、「観念を記録する記号」とした)
 そして、言語学はいずれ記号学の一部になる、と予言した

 彼の考え方は
 のちの構造主義ポスト構造主義、消費社会分析などにも影響を与えたようなのですが
 当時のアナログメディアに合わせた記号論である、
 というところに限界があるようです

 アナログメディアでは、機械が音声や映像を保存するが
 分析するのは人間。
 本を読むように、人間の目で見てその在り方を分析する。
 だからソシュールは、記号学と言いつつ、手法としては言語学的手法を取った。

 しかし今の時代は機械が保存した音声や映像は
 デジタルデータに変換され、
 人間が分析しなくとも機械がアルゴリズムで分析してくれる。
 だから言語学的手法では機械が分析するものはつかみきれない。
 だからそれに合わせた今の時代の記号学が必要になる、ということらしい。

 石田さんの視点からすると
 記号学はこの時代だけではなく
 ・バロック記号論(17世紀後半)
 ・現代記号論(19世紀後半~20世紀前半)
 ・情報記号論(20世紀後半~)→まだ確立していない
 に分けられるらしい
 
○石田さんの年表
 ここで年表が示されていました
 記号論の歴史、
 社会文化の歴史、
 メディアの進化の歴史、
 の三段仕立てになっていて、相互の関わりが分かるようになっている

 <17世紀末>
 ・バロック記号論ライプニッツ、ルソー→コンピューターのアイデア
  実は記号論はこの時代にさかのぼるらしい。
  というのは、ライプニッツは、思考を合理的に扱う人工言語を作り、
  それを計算機に扱わせる構想を持っていたんだそうです
  つまり今のコンピューター構想はこの時代から出来てたんですね。
  ライプニッツは、そのための記号論「普遍記号論
  学問を統合する「普遍数学」を考えていたそうです

 <19世紀末~20世紀前半>
 ・現代記号論(パース、ソシュール
 ・大衆社会、大衆文化
 (ラジオ、テレビなどみんなが同じメディアを見聞きできるようになった)
 ・映画、写真、電話、テレビ、ラジオの発明「アナログ革命」

 <1950年~20世紀後半>
 ・構造主義ポスト構造主義
 ・文化産業、消費社会、ポピュラー文化
 ・コンピューターの黎明期
 二進法を利用したデジタル回路の考案「デジタル革命」

 <20世紀最後~現在>
 ・情報記号論、情報産業
 ・知識社会、WWW文化
 ・コンピューターの普及、第三次人工知能ブーム

 この年表を見つつ石田さんと東さんはディスカッションしていましたが
 私なりの理解で書きますと
  
 19世紀後半~20世紀の「アナログメディア革命」により
 テレビやラジオによる大衆文化が起こり、
 それらを分析する現代記号論が生まれた、
 第一次大戦前~戦後の復興時代、という感じでしょうか。

 ここは、ラジオやテレビが生まれ始めた時代、
 それにより大衆が生まれた時代
 (→マス化した大衆がテレビや新聞などにより操作され、戦争にも突入していく)、
 …て感じで分かりやすいが

 そのあとの「消費社会」(1950~20世紀後半)と「知識社会」(20世紀後半~今)
 は何なのかが分かりにくい。

 石田さんによると「消費社会」は
 「大衆社会」がメタ化したもの、なんだそう
 つまり、テレビやラジオなどのメディアを使えば消費欲も動かせる、
 と気づいた生産者側が
 マーケティングにメディアを利用するようになり、大量消費社会になった

 さらにそのあとの情報社会は
 インターネットやコンピューターが一般に普及し
 それらがデフォルトの生活基盤となった。
 だから消費者も生産者も、常にメディアにつながっているのが当たり前の社会、
 これが情報社会。

 1980年代の消費社会では、アナログメディアの技法を使って生産者が大衆を操作する、
 という感じなので、その手法分析としてまだ現代記号論が使えた。
 実際、1980年代に現代記号論はもてはやされている。

 しかしそれ以降の情報社会、
 常時みんながメディアに接続している社会を
 説明できる記号論はまだできていない、
 そこに問題の深刻さがある、
 と二人は見ているようでした

〇文字学の必要性
 石田さんは、言語学ベースのソシュールの現代記号論が時代遅れだとするが
 では何が必要かというと、文字学だという。
 (実はこれはデリダのアイデアだそうですが)

 言語は人間が決めた法則に従った文字の羅列、という感じだが
 文字は人間が読めるとは限らない書いた痕跡、という感じかなと思います

 そして、文字に注目して20世紀のアナログメディア革命を見ると
 20世紀に入ってからのアナログメディア革命は
 人間が文字を書く代わりに
 機械が文字を書くようになった変化だ、とみなせるそうです

 そして、その文字は人間には読めない、というのがミソ
 たとえばカメラがシャッターを切る瞬間、
 切り取った映像は、その瞬間は人間の目では見えない。
 カメラが写した映像ができてから改めてその瞬間を意識する。

 つまり、メディアは我々の無意識の領域(見えない瞬間)を記録し
 それを人間が見て改めて現象を意識する、となってくる。

 だから我々の無意識に働きかける、
 見えないメディアの「文字」が問題となってくるのだ、と。

〇自然科学が分析する文字
 石田さんは、この文字の認識について、
 自然科学である神経科学の研究を紹介している

 視覚認知科学者のマーク・チャンギジーさんと下條信輔さんの共同研究
 ざざっと紹介すると
 
 彼らは
 色んな言語に使われる文字(漢字やアルファベットなど)について、
 文字を構成する線の交わり、方向などに注目して、要素ごとに分解して分類した

 その要素は36パターンに分類できるそうなんですが、
 色んな文字システムの中で
 それぞれの要素の頻度分布を調べてグラフ化すると
 なんとどの文字もほぼ同じ形の分布になるんだそうです

 漢字のような、意味を持つ文字でも
 アルファベットのように、その文字自体は意味を持たない表音文字でも
 文字自体の線の構成要素の分布は同じなのだそう

 さらに、彼らは文字だけでなく、映像についても分布を調べた
 つまり、
 ・祖先の人類が見ていたような部族写真の写真集、
 ・現代の自然界の写真集
 ・コンピューターに描かせた都市空間の画像
 の三種類についても、物の輪郭を同じように要素分解して
 それらの頻度分布を調べると
 さきほどの文字分布とほぼ一致したんだそうです

 認知科学の研究によれば
 人間は自然界の事物を全てベタに見て情報処理しているわけではなく
 輪郭や境界だけ注目し、見分けるシステムがあるそうなんですが
 それと下条さんたちの研究を合わせると、

 人間は、自分の目に映る自然界の事物の輪郭の構成要素と
 同じパターンで、文字を作ってきたんだ、
 それはどの文明でも共通している、と。

 東さんはこの話を聞いて
 「火星人が地球人の文字を見たら、みんな同じタイプに見えるかもしれない、
  逆に彼らの文字は彼らの風景を真似るように作られているのかも」
 と話しています…うまいたとえですね。。

 それから、脳科学者スタニスラス・ドゥアンヌの研究によると
 文字を見分ける時に活発になる脳の領域と
 自然界の特徴を見分ける時使われる脳の領域は同じなのだそうです。
 ここから、人間の識字能力というのは、
 自然界のものを見分ける脳を転用しているのでは、と仮説を立てている。
 つまり本能的な能力を、文化的能力に転用している、と。

 で、ここからが、先ほどの文字学とのかかわりになってくるのですが

 チャンギジーさんは先の研究から
 人が本を読むとき、森を見ているのと同じ空間的広がりを見ているのでは、と言っている。
 デジタル書籍ではこのような空間的広がりはない、と。

 また、別の脳科学者のメアリアン・ウルフさんはドゥアンヌらの研究を踏まえ
 オンラインの読書では浅い読みしかできず
 深い思考ができなくなるんじゃないか、
 という問題提起もしているのだそう

 つまり、本ベースのメディアからアナログメディアへ、
 そしてデジタルベースのメディアへ、
 の変化は、我々の脳、思考に影響を与えるのではないか、
 という提言が自然科学からなされている、と。

 石田さんは、アナログメディアは
 人間に見えない機械の文字が人間の無意識に影響を与えている
 現代記号論はそこを明らかにしたが、
 
 さらにデジタルメディアは我々の思考にどのような影響を与えているか
 を新たに人文科学の立場からも考えねばならない、
 自然科学だけに任せてはいけない、
 というようなことを語ってこの講義を終わっていました

 (…うーん、記号学って、人間が事物を認識する方法を細かく分析する学問、
  と思っていたのですが
  映像とか、音声なども記号なのですね。
  記号学とは、それら見えない記号が、
  無意識にどうやって働きかけていくのか、を知ること。

  これは、無意識はどうやって形作られていくのかを分析することでもあり
  人間を知る学問にも見えて興味深いと感じました。

  また、自然科学の発見もとても興味深いと感じました。
  文字認識のシステムは、本能のシステムの借用だった、と。
  改めて、人間の知性とは
  進化の過程で培われてきたもの、 
  本能と結びついているものを示唆しているように思う)

<第2講義 フロイトへの回帰>
ここまでで
・現代のデジタルメディアに対応した記号論が生まれていない
・急速に発達した自然科学と対応する記号論、メディア論が生まれていない
という問題意識が明らかになっていて

第2回目の講義はそれを受けてフロイトの話になっています。

 なぜフロイトか?
 私なりの解釈で書くと、
 ・夢分析など、どっちかいうとえせ科学?で有名な人だが、
  もとは神経科学者で、当時の自然科学の理論に精通していた

 ・当時の科学にはない、
  無意識の領域で何が起きているかを
  自然科学から借りた言葉で理論化しようとした

 ・その結果、「見えない機械の文字で音声や映像を記録した」当時のアナログメディアが、
  人間の無意識にどう働きかけているか
  を明らかにした

 …ということかなと。

フロイトの理論
 さて、そのフロイトの理論ですが
 石田さんは初期と中期以降とに分けている

 (どれも細かく話していて、
  細かすぎるんで私のざっくり理解で書いてみます。
  石田さんの世紀の発見?の話もあるんで、興味のある方は本書を読んでください…)

 ●初期のフロイト
 当時は神経科学者の立場
 この時のフロイトの考え方は3つほど書かれていて
 ・言語認識をする脳はネットワーク
  当時、言語は脳の特定の領域(言語野)により認識される、と考えられていた
  しかしフロイトは脳の特定部位ではなく
  幾つかの脳の部位が活性化して
  それらが連携し、仮想的な大きな装置を作って言語認識をしている、と考えた

  (…これって結構現代的なので、びっくりしました。
   一般的には神経科学では、言語野、視覚野など領域ごとの研究が主流で、
   最近認知症の研究が進んで、ようやくネットワーク説の方が有力になっている)

 ・言語認識について
  「対象表象」…事象のイメージ
  「語表象」…事象を示す言葉
  の2つが結び付いて言葉が認識される、と考えた

 ・意識はエネルギーの流れ、と考えていた 
  フロイトは、感覚器官の刺激がエネルギーを生み、
  それが神経を通って無意識、意識に流れていく、という図を考えた 
  (今で言えば情報伝達となるが、当時は情報という概念が無かった)

 ●中期のフロイト
 このころ、神経科学を捨て、夢分析、無意識の領域(心の装置)の理論を考える

 ・第一局所論
  最初考えた仮説。無意識、前意識、意識という概念を考えている

  感覚器官→無意識→前意識→意識→運動器官、という直線的なエネルギーの流れを考えている
  言語認識でいうと、
  感覚器官からの刺激が無意識で記憶痕跡となり、
  無意識で記憶痕跡が溜まり、対象表象ができる。
  これが前意識で語表象と結びつき、言葉になり、意識に上り、思考活動をする、という流れ

  このモデルから言えることは 
  言葉は、刺激→記憶痕跡→対象表象→対象表象+語表象→言葉(記号)
  という変化を遂げていくが
  無意識では、イメージは語表象とまだ結び付いておらず、映像的なもの
  だから「無意識の世界は映像」、シネマの世界らしい。

  フロイトはさらに、この直線図にはないんですが、
  「意識」には、感覚器官からのエネルギーの流れだけではなく、
  「心の内部」からの「欲動(欲望など)エネルギー」の流れもある、と書いている
  欲動エネルギーは、快、不快として認知されるんだそうです

  つまり「意識」というものは
  感覚器官からのエネルギーの流れ、
  欲望からのエネルギーの流れ、
  を俯瞰的に捉え、記号化する働きを持っている。

  夜中の夢の状態は、この記号化の働きがストップし
  両方からのエネルギーが無意識で映像化されているだけの状態なので、
  夢は映像状態なのだそうだ

 ・第二局所論
  次に第二局所論を考える
  石田さんによればこれは第一局所論からの延長の理論で、

  全体の構造としては
  「感覚器官」は、「知覚」となり、意識と結びついて一番上に載っている
  ただし聴覚だけ、「聴覚帽」として独立して斜め上にある
  その奥に「前意識」、
  その奥に「自我」(第一局所論の前意識に相当)
  その奥に「エス」(欲動エネルギーの根源)
  横の方に「抑圧された内容Vdgt」というのもあります

  このときはエネルギーの流れは直線的なものではなく
  感覚器官から刺激が前意識を通って自我に流れ込み、対象表象を作ったり
  対象表象と語事象が結び付いて言葉が生まれたり、 
  エスから欲動エネルギーが流れ込んだり
  など
  色んな方向に流れが起きていると考えているそうです

  ところで、なぜ聴覚だけ左上なのか?
  というと、
  これは脳の聴覚野の位置を意識しているらしい…これが神経学者っぽい。

  しかし後に、この聴覚帽は「超自我」となって心の装置に内在化されている
  これは何を意味するかというと、
  周りから聞こえる慣習とか社会のモラルなどが耳から心に入り、
  それが溜まって、エスと結び付き
  内部の声のように心に働きかけるようになる、
  ということらしい

  つまりこれは文化的に遺伝されてきた
  無意識的な社会の縛りみたいなものを示すらしい。
  土着宗教とか地域文化などのことでしょうか。

 こうしてフロイト
 人間の無意識について
 単に感覚器官から入った刺激を認識する脳みたいな装置、としてだけではなく

 欲望とか、感情、社会的慣習、
 それらから抑圧されたもの、
 なども全て含めた、複合的な心の装置のモデルを提唱している

ソシュールの装置
 で、これがメディアとどんな関係があるか、というと、

 石田さんはこの心の装置と
 ソシュールの対話装置を組み合わせている

 ソシュールは一対一コミュニケーションについて
 糸電話のようなモデルを考えていて
 Aさんが話した内容について
 Bさんは聞こえたことしか認識しない、と考える
 Bさんが聞こえた言葉がBさんの脳に書き込まれ
 Aさんが聞こえた言葉がAさんの脳に書き込まれ
 お互いに脳への書き込みが進む、というシステムなんだそう

 これがたくさんの対話になっていくと
 脳の書き込みがたくさんになり
 そのうち集団のなかで共通する集団脳のようなものができる、
 とソシュールは考える

 そんなのあたり前じゃん、と思うのだが
 石田さんはここで
 「人は聞こえたことしか聞こえない」ということを強調する

 実はこれが明らかになったのはアナログメディアの出現ゆえらしい
 というのは、それまでは人間が書き取る本がメディアなので
 人間が聞こえることしか書き留められず、
 聞こえないことは記録されないから誰も気づかない

 しかしアナログメディアは、
 機械が人間の聞こえない言葉も書き取ってくれる
 だから人の聞き取るものはその人が聞こえるものでしかない
 ということが明らかになったと。

 また、このソシュールのモデルは、
 言語に文化的変異(俗語、流行語)などが起きることも説明してくれる
 誰かの聞き間違いがお互いに書き込まれて
 それがあたかも正しいかのように、みんなの共通の認知となるから、なんだそうです

ソシュールフロイトを組み合わせると…
 ソシュールの理論からすると、
 お互い聞こえるものしか聞こえないなら
 みんな分かりやすく聞こえるようにすれば
 コミュニケーションが平等に広がるのではないか、
 という意見になる
 インターネットが誰もに開かれたものになったのは、その理論に沿うものだが

 しかしフロイトの個人の欲望の理論からすると
 個人の意識には欲望や社会慣習による思い込みもあるので
 聞きたいものしか聞かない、ということになる

 そうなると、ソシュールのいう書き込みは
 お互い聞きたいものしか書き込まない、ということになり
 これは現代のネット上での憎悪の拡散、
 フィルターバブルやフェイクニュースなどの問題につながるのだそう

 これに対処するにはどうしたらいいか?
 実はフロイトはそこを考えていて
 それが精神分析なのだそう
 具体的には、相手のいうことを黙って聞き
 相手の無意識を作り出してしまった、記憶の痕跡を探りだすこと…

 彼は精神分析の目標を
 「自我を強化し、エスの領域を自我に置き換えること」
 つまり、無意識とか感情的なイメージを言語化
 分析的、論理的に見ていくこと、
 ということを述べている
 
 彼の神経科学的アプローチは重要で、
 現代の文字学、記号学にも
 自然科学を踏まえた理論の構築が必要だ、
 という感じでフロイトの話は終わっていました

〇夢の話
 しかしこの講義には続きがあり、
 それは夢分析、それもフロイト的にではなく、
 テクノロジーを使って行われている夢分析の話でした
 
 しかしながら、ちょっとオソロシイ話になっていまして
 ・資本主義が睡眠時間にも侵食している
 →眠っている無意識の状態に働きかけてマーケティングするかもしれない?

 ・夢を見ているときの脳波パターンから夢を解析する
 →夢を分析して個人の無意識を暴くことになるかもしれない? …など

 石田さんによれば
 夢は存在可能性がないがために、
 あとから解釈したり、忘れたりなどの自由がある。
 そこから想像力も生まれてきている。

 それをデータ化され、存在するものとして扱われ、管理されたら
 人間の想像力が奪われるのではないか、
 という危機感を口にしている
 このため、夢の役割も今一度、考える必要がある、と…

<第3講義 書き込みの体制2000>
 さて、ようやく本題の現代の記号論の話に入っています

 ここでは三部構成となっています
 1情動と身体 スベテが「伝わる」とき スピノザ
 2記号と論理 スベテが「データ」になるとき パース/フッサール
 3模倣と感染 スベテが「ネットワーク」になるとき タルドドゥルーズ=ガタリ

 1では、個人が概念をどう記号化していくか、の話
 2は、1がコンピューターとつながったらどうなるか、の話
 3は、2が他人とつながってネットワークになったらどうなるか、
 の話になっています

1 情動と身体 スベテが「伝わる」とき スピノザ
 ここでは、前回のフロイト理論をスピノザと結びつけようとしている。

 スピノザは「エチカ」が有名で
 哲学を数学の定理みたいに書いた人ですが
 心の理論が数学の定理になったらどうなるか、、みたいな試みですかね…

 その前に、フロイトの理論を
 神経科学者アントニオ・ダマシオ、理系の人の話と結びつけている

 ダマシオは「ホメオスタシス」(体の機能を維持する働き)の研究をしていて
 彼はホメオスタシスを樹木で示している

 根元に近い方から枝葉の先に向かうにつれ
 「免疫反応、反射、代謝調整」→「苦と快」→「動員と動機(欲求、欲望)」→「情動」→「感情」という流れで
 情動と感情の間には点線の境目がある
 情動までが身体、感情が心、という区別だそうで
 身体機能が心に表現されたものが感情、ということらしい

 石田さんはこれとフロイトの装置の一致点を3つ挙げていて
 ・ダマシオの図も、フロイトの図も、エネルギーみたいな何かが、
  身体と意識(心)をいったり来たりしていく、という理論で考えている

 ・情動と感情の間に境目がある
  二人とも、情動は身体刺激により起きるもの(身体的なもの)
  感情は表象するもの(心のもの)として、情動と感情を区別している

  記号論でいえば、感情に表象したら記号(言葉など)になるが
  それ以前だったらただの欲望、
  意識が記号化するかどうか、は、情動と感情が境目になっている
  
 ・心身平行説
  これは心が体をコントロールする、体が心を決めるという
  デカルトの二元論的な立場ではなく、
  心も体も同じエネルギーの別の表現という一元論的立場
  表象の仕方は互いに独立している

  ただし石田さんの解説を加えると
  ダマシオの樹ではこの独立して動く身体と心は接していて
  その接合面が情動(身体)と感情(心)の間の点線となる

  そして、これら3点は
  スピノザの哲学とも共通しているそうです。
  ・スピノザはもともと一元論で、心身平行論の立場
  (ただし、石田さんの解説によれば
   スピノザは、
   「心は勝手に表出し、それが自然に体(感情、情動)に現れている」
   と言っているらしい…双方は感情の部分で接している、ということでしょうか)

  ・また、ホメオスタシスに似た概念として、
   スピノザは「コナトゥス」(自己を維持するための力)を定義している

  ・また、欲望と感情の関係については
   「欲望とは意識を伴った情動」
   「感情とは身体の感応」と書いている

  要するにスピノザフロイト、ダマシオの共通点を挙げると
  ・心と体は欲望エネルギーの別表現、お互い独立している
  ・しかし感情と情動のところでつながっている
  ・そのつなぎ目の部分が、意識が記号化するか否か、の境目 

 (…個人的には、心と身体がどちらも欲望の表現、
  というところに興味を惹かれました
  最近読んだラインホールド・ニーバーさんの本では、
  「理性が欲望を支配する、という考え方があるが、それは幻想だ
   理性も欲望とつながっている」
  というような感じの表現があって、それを思い出した。

  ニーバーの言葉は、人間の原罪を説明する文章にあったのだが
  デカルト的な二元論で考えると、
  理性が欲望をコントロールする、だから理性がしっかりしてれば大丈夫、という楽観論につながるが、
  それは実際うまくいってない
  (だから戦争が起きたし、民主主義を悪用する人もいる)

  理性とは感情と根っこは同じ、というスピノザ的な一元論で考えれば、
  理性もあてにならないということになる。
  これは性悪説につながりますね。

  だからこそ、感情とか情動を記号化、理論化していくこと
  つまりフロイトの言う「エス」を「自我」に置き換えること
  を意識的にやっていかねばならないのかもしれない。)

2記号と論理 すべてがデータになるとき パースとフッサール
 次に、個人の意識がコンピューターとつながるとどうなるか、の話

 〇記号化の正逆ピラミッド
 ここで紹介されるのはパース
 (というかパース記号論を発展させたダニエル・ブーニュー)の「記号のピラミッド」
 これは人の意識の中の、概念の記号化を示した三階建てのピラミッド

 ピラミッドの底辺から頂点に向かって
 指標(インデックス)、感性的な痕跡
 →類像(アイコン)、絵や画像などのイメージ
 →象徴(シンボル)、言葉や数式など、文字を法則化したもの
 となっていく
 上にいくほど論理的思考が働き、
 一方ボトムの部分になるほど、非論理的な感情やイメージの世界になる

 これを1で話したフロイトやダマシオのモデルと絡めると
 記号になるか否かの境目である感情と情動の境目が
 このピラミッドのボトムに相当し、
 そこから映像化していくところが「アイコン」
 さらに論理的に言語化、数式化して行くところが「シンボル」に相当する

 一方石田さんの理論では
 このピラミッドの下に三階建ての逆三角形がつけられていて
 「記号の逆ピラミッド」と呼んでいる
 こちらはメディアによる記号化、情報化の過程を示したもの
 こちらはボトムから頂点に向けて、

 アナログ記号
 →デジタル記号
 →プログラム
 となっている

 これはパースの理論から石田さんが考えたそうで、
 パースは、メディアとは
 「記号に述語をつけるもの」(記号同士の関係を述べるもの)と考えた
 (論理学の人なので「述定する」と呼んだ)
 だから、記録したものを、機械が処理可能なデジタル信号に変えて
 機械が述定できるプログラムに変えていく、
 という過程になっているそうです

 そして、この図ては
 双方のボトム部分が繋がっている
 つまり、人間の感情部分と
 感情の痕跡、アナログ記号をとらえるメディアやセンサーがつながっている。

 この図が今の時代のメディアで何を意味しているかというと
 人間の心の中で概念を記号化している間に
 機械はその痕跡を、機械の言語にして情報処理できるようになっている、と。

 〇人工知能は記号化機械?
 話は少し脱線しますが、
 このとき石田さんは最近の人工知能
 人間のインデックスからシンボル化の過程を
 機械が学習していることなんじゃないか、と述べている

 東さんはそれを受けて
 人工知能は産業的にはインパクトがあるが
 無自覚に記号化をする人間を増やすだけの話で
 哲学的には面白くないように思う、と指摘する
 過程を繰り返しているだけで、
 意味を理解しているわけではない、と…

 (じゃあ、人間は、意味の理解はどのレベルでしているんだろうか?
  人工知能は、
  感情などの痕跡を記号化することがある程度できるようになったが、
  それができただけでは、意味の理解にはならないということか?
  これは人工知能の議論にありますが、
  文字学や心の装置からの意見もあると面白いですね。)

 〇時間の概念
 さらに先程のピラミッドは、
 フッサール現象学から見ると、時間の概念も生まれるそうです

 フッサールは時間の概念を考えた人なのだが
 彼はインデックスが記号化する過程(つまりピラミッドを上っていく過程)
 にはタイムラグがあるので、
 そこに時間の意識が生まれる、と考えた
 
 同じく時間の感覚を考えたのがデリダ
 彼はさらに感性の痕跡の段階でも、
 差延(差異と遅延を組み合わせたデリダの造語)がある、
 と言っているらしい
 例えば、文章の頭から末尾までしゃべってる間にもタイムラグがある、ということなど…

 記号化と共に、時間の概念も加わって
 我々の意識は作られる、ということだそうです

 こうして、記号のピラミッドにより
 パース、フッサールデリダが説明される

 (…この話の時、本文では
  「最近では、人の意識がメディアと接する部分は、
   どんどんボトム、原始的に近いところに降りてきている」
  というような表現がされていたんですが
  これと途中の人工知能の話と絡めると
  それはもしかして人間が怠けてきたということなのかな、と思いました

  人間は意識的に、情動、痕跡、アイコンから記号へ、
  という記号化を、本を読む、議論するなどの行為を通じて一生懸命やってきたけど
  メディアやテクノロジーの方で
  記号化しなくても、原始的な痕跡レベルで意識を読み取ってくれるようになった
  (人工知能なんかは、人間の代わりに記号化までしてくれる)

  だから人は生の感情をそのまま流すだけになってしまって
  それを記号化、論理化することを怠ける人間が増えたということなのではないか、と。

  そう考えると本を読むとか、文章を書く、討論する、
  てのが最近教育で見直されてきましたけど
  その流れは間違いじゃないのかもしれない、と思います
  何かを言語化する、整理する、論理的に秩序立てるのは
  常に意識して鍛えないといけない世の中になっちゃっているのかもしれない。)

3模倣と感染 すべてがネットワークになるとき タルドドゥルーズガタリ
 次に、正逆の両方のピラミッドが
 たくさんの他人とつながってネットワークになったらどうなるか?の話

 〇ネットワーク社会は「一体化」ではなく「模倣」の理論
 石田さんによれば、先ほどのピラミッドが立体的にボトムのところで他人のピラミッドとつながると
 現代のネットワーク社会になるんだそうですが
 そのつながり方は「感染」「模倣」の理論なんだそうです
 
 スピノザも感情を感染の理論で考えている
 「何も感情を感じてなくても、他人の感情を見て自分の感情が生まれることがある」
 というようなことをエチカに書いている
 
 一方、フロイトや同時代のル・ボンは「同一化」の理論で考えた
 ル・ボンは「群衆心理」という本を書き、
 群衆が催眠術のように一体化するさまを心理学から示した(ヒトラーにも影響を与えた)
 フロイトは、「集団心理」を考えた

 これらは同一化の理論で
 人は映像などのメディアで見た人に自分を同一化すると考える
 同一化は、20世紀頭の大衆社会では適用されたかもしれないが
 今は感染の理論ではないか、と石田さんはいう

 〇現代の問題
 ここから現代のトランプ現象、GAFA支配の話にだいぶ脱線していました…
 けど興味深いのでメモっておきます

 石田さんはトランプ現象は、支持者はトランプと同一化したわけではない
 貧しい彼らは金持ちのトランプと同一化できない
 しかし彼の身ぶりが感染し、
 ハッタリが何となくカッコいいから、支持が広がったのではないか、と分析する

 また、スピノザは「心は勝手に表出する」みたいなことも書いているそうで
 これはみんなが勝手につぶやいて、
 不満を表出させ、感染しているのが現代のツイッター現象なのだそうだ

 石田さんによればこれは深刻なことで
 ちゃんとした批判や主張なら反論できるが
 ただの表出や感染は感情的なものなので、啓蒙できない、と。

 (最近NHKスペシャルで「半グレ」反社会勢力の人たちの話がされていたのを思い出しました。
  彼らはかつてのヤクザのように地下世界には入らず、
  堂々とSNSで情報発信し、それを見てカッコいいと憧れる若者もいる。
  でも警察からみれば、やってることはかつてのヤクザと同じらしい

  私自身は、陰で人を騙している彼らが憧れの対象になっている、
  というのがどうにも理解できなかったのたが
  何となくカッコいい、てのが感染したと考えれば納得できる、と感じました)

 さらに深刻なのは、この感染のメカニズムを学者は気づいていない
 (だからトランプ現象を理解できない)
 さらに、プラットフォーマーは気づいていて、
 商業的には利用されている、ということだ、
 と指摘する

 東さんはそれを聞いて
 「消費者側としては何か対策はないんでしょうか」と尋ねる。
 消費者運動も、お祭り騒ぎなど、感染の理論に感染で対応しているだけなんじゃないか、と。

 石田さんはそれに対して
 メディア論を論じる人たちも資本主義のことを知るべき、という話をしている

 というのは、今はメディアが商業的に利用されている、
 それはメディアを使ってコミュニケーションや人の意識を操作するやり方で、
 その方法をメディア論の立場から理論化して、何が問題かをあぶりださないと、 
 プラットフォーマーたちを批判できないのではないか、と。

 石田さんによると、20世紀の資本主義には
 「テイラー主義」「フォーディズム」「ハリウッド」「マーケティング」の4本柱があるらしい
 ・テイラー主義…労働の理論化
  労働過程の動作を要素で分け、
  一番効率的なやり方を分刻みで規定するやり方
  マルクス主義からは、労働から人間性を奪い奴隷化する、と批判された
 ・フォーディズム…生産の理論化
  テイラー主義を実践したベルトコンベア方式
  効率的な大量生産で、労働者の賃金も上がり
  豊かになった労働者が自社製品を買う資本主義が生まれた
  これもマルクス主義者に大量消費社会と批判された

  これら二つは「生産の資本主義」、社会主義が対抗できたところだが
  あと二つは「消費の資本主義」社会主義が対抗できなかったところ、なのだそうです
 ・ハリウッド産業…欲望の理論化
  映画の製作過程を効率化し、大量のシネマを産み出した
  これにより欲望も量産された
 ・マーケティング…生産、労働、欲望の操作
  これはフロイトの甥っ子が考えたそうなんですが
  フロイトの研究した「無意識」に働きかけるメディアを利用し、
  人々の購買欲をあおる方法

  これらの過程で
  人間の無意識、消費行動はメディアに操作された
  欲望がどう作られるか、情動を動かされるかは
  消費の資本主義で研究されている、と。

  このような意識操作はアナログメディアの記号論、メディア論が使われていたので、
  この1980年代の大量消費社会に
  現代記号論が流行ったのは、当然のことだったそうです。

  しかし石田さんによると、
  それでもこの時代、人々は労働者の立場としては働かされてはいたが、
  消費者の立場では欲望を満たされ、満足出来ていた

  しかし現在は、消費者でありながら情報を吸い上げられ
  プラットフォーマーに売り買いされ、半分労働者になっている。
  レコメンド機能などで欲望も操作され、欲望の主体はどこにあるのか分からない
  労働者サイドとしても、消費者が労働するからコストは抑えられ、賃金が上がらない

  だから今のメディアコミュニケーションによる意識の作られ方に自覚的でないと
  プラットフォーマーや社会のあり方に正確な批判ができないのではないか、と仰る。

 (…なるほど、プラットフォーマー側が
  どうやって我々を無償労働に仕向けているかが分かれば
  それが行きすぎないような規制はできるかもしれないですね。)

 〇タルド
 それはさておき
 スピノザのほかに模倣の理論を提唱した人に
 ガブリエル・タルドという19世紀後半の方がいたそうです

 彼は先のル・ボンやフロイトと同世代で、
 彼らは群衆心理や集団心理を言ったが
 タルドは模倣の心理を主張した。
 ただし、彼はスピノザではなくライプニッツの理論で、
 色んな人の中に色んな他人の断片がある、
 と考えたそうです

 また、タルドは、社会は模倣だとも述べていて
 慣習や知恵、教育などはすべて模倣だ、とも述べている
 石田さんによると
 彼のコミュニケーションの見方は今のSNSコミュニケーションに良く当てはまる、と。
 彼の理論は、ドゥルーズガタリにより20世紀に蘇ったそうです

○まとめ
 で、ここまでのまとめをすると
 ・スピノザフロイト、ダマシオ、パースなどの理論によると、
  個人の無意識では、感覚→痕跡(感情)→アイコン(絵、映像)→シンボル(数式、記号)→行動
  の順に記号化が起きている

  20世紀始めのアナログメディアは
  アイコンレベルで人の無意識に働きかけ
  それは記号化の過程を通って、人の思考などの行動も変えてきた

  これらのメディアを利用し
  他人の無意識部分を変え、行動を操作するマーケティングもここからうまれた

 ・一方20世紀後半に発明された、
  インターネットやパソコンなどの
  新しいデジタルメディアは
  人の感情の痕跡を記録し、それを機械の言語へと変換できるようになった

  このメディアは常時多くの人々と繋がっているために
  接点である感情が、他人にも容易に感染する特徴がある
  (本のメディアの時代では
   他人との接点は文章などの理論的な部分(ピラミッドの頂点)
   だったので、そこまで感情が感染することはなかった)

  これが理性的でない情報の拡散、
  差別的な言葉の拡散などの問題に繋がっている。
  しかもフロイトの欲望の心の装置を考えると
  それは聞きたいことしか聞かないコミュニケーションであり
  それは感情のレベルでますます加速してしまっている、と。

  一方自然科学の方では
  そのデータを産業的にどんどん利用すればいいじゃないか
  という話になっている
  人文科学から、それでいいのかという問題提起が必要じゃないのか、と…

 石田さんは最後に
 メディアは人間の意識に影響を与えてきた、とし
 現代のメディアでは感情の感染が起きやすいことを危惧する
 
 というのは、20世紀のメディアは戦争への悪用という闇の歴史を持っている
 今の感染しやすいメディアも、悪用へ流れる危険性をはらんでいる。
 それは決して忘れてはならない、と。

 今のメディアは第二次大戦時のような扇動的なものではないが、
 だからこそ、今のメディアがどうやって人の意識を動かしているのか、
 それを理論化することが必要ではないか、と述べて終わっていました

<補講 ハイパーコントロール社会について>
 さて講義はこれで終わりなんですか
 さらに石田さんは補講として「ハイパーコントロール社会について」
 という文書を書き下ろしています

 これも見所たっぷりでして、4項に分かれていまして
 1文字学について
 2資本主義について
 3権力について
 4自由について
 となっている
 どれも結論はなく、問題提起です

1文字学について
 これは「文字学」を通じた人工知能問題でした

 最初にパースの文字学が
 ヘーゲルとつながっている、という話がされる
 
 それによると、
 ヘーゲルは「記号」と「象徴」について書いていて
 「象徴」とは、自然との感性的に結び付いたもの(象形文字など)、
 「記号」は人間が恣意的に作った法則性のあるもの(表音文字など)
 ヘーゲルは「記号」は「象徴」よりも自由さや人間の支配がある、と述べている

 ヘーゲルの言う「象徴」「記号」は
 パースでいう「アイコン」(ピラミッドの真ん中)と「シンボル」(ピラミッドの頂点)
 つまり象徴→記号、はパースでいう、人間の意識の記号化に相当する

 ヘーゲルは「象徴」から「記号」へ、を
 奇しくもピラミッドの建築にたとえていて
 地下での埋葬(自然状態)…「象徴」が
 地上のピラミッド(人工的な規則性を持った建造物)…「記号」の建築へ、
 という表現がなされている

 次に、人工知能がこの「象徴」を解釈したらどうなるか?
 それは人工知能による夢解釈と同じではないのか、
 ということを
 サールの「中国人の部屋」問題を引き合いに出して議論している

 「中国人の部屋」問題はAI議論でかなり有名ですが
   中国語が分からない人間を、中国語の辞書だけ渡して部屋に閉じ込める
   この部屋に中国語の書かれた紙を入れれば、
   翻訳された言葉が返ってくる
   見た目この部屋の住人は、中国語をめっちゃわかってるように見えるが、
   実際は辞書を見てるだけなので理解してない
  …AIの文章理解もそれと同じじゃないか、という話

 サールの議論ては、人工知能はシンタクス(SVOなどの構文分析)はできるが
 セマンティクス(意味の理解)はできない、という結論だという表現になっている

 しかし石田さんは
 この結論は、表音文字のような文字であるときに限る、という

 漢字などの象形文字であれば
 漢字を全く知らない人でも、
 何百年も時間をかければ理解したかもしれない、と考える
 日本人がそうだったじゃないか、と。

 というのは象形文字と指示文字からなる漢字は
 意味上の関係がネットワーク状に形成されていくので、
 意味の推論をしていくことで理解できるのではないか、と。

 ところで象形文字では
 先ほどのヘーゲルの議論では「象徴」、パースの「アイコン」に相当する
 つまり言語になる前のイメージの世界。

 そこで石田さんは、
 このサールの部屋問題を
 古代エジプト文字など、正解の全く分からない象形文字にして
 なかにいる人間をフロイトにすれば、
 フロイトの夢解釈の世界になるんじゃないか、と述べる

 実際、フロイトは夢解釈を古代象形文字の解読のようなもの、と書いているそうです

 これは先程のヘーゲルのピラミッドでいうと
 ピラミッドの秘密の地下室へ降りていく過程だ…という表現がされている

 そしてこの地下室に人工知能を入れたらどうなるか。
 それがテクノロジーによる夢分析フロイトの話の後に出てきた話)に相当する

 石田さんは夢分析の可能性と危険性、両方を指摘していました
 テクノロジー夢分析は、無意識世界のテクノロジーの乗っ取りになるかもしれない。
 一方で、想像力の源泉である夢を、より豊かにしてくれるものかもしれない、と。
  
 後者のようなテクノロジーにしていくためには
 アーティストの役割が大変重要だ、ということ
 夢の主導権を機械に渡してはならない、という話がなされていました

 (…うーん、これは人工知能は意識を持てるか?につながる話かなと感じました
  人工知能がシンボルの世界までも解釈できるようになったら
  もしかして意識を持つようになるのか。
  でもフロイトやダマシオの装置を考えれば
  やはり感覚刺激や感情、欲望、文化的遺伝のもたらす思い込みなどとの繋がりがないと
  そこは解釈できない気がする…と私は思いますが)

2資本主義について
 この項では、現代記号論ブームの際、
 消費資本主義を分析したボードリヤール記号論
 現代の形に書き換える試みがなされていました

 ボードリヤール記号論では
 「物が消費されるためには、物は記号にならねばならない」と言ったそうです
 大量消費社会では
 物が記号(イメージ、言葉)となり、
 メディアにより媒介され、人々の欲望を呼び起こす必要があった、と。

 しかし、社会全体が記号化して
 人の活動も商品もすべて記号化された今、

 ボードリヤールの言葉は
 「物が消費されるには、物は情報にならねばならない
  人も情報にならねばならない」
 と言い換えられる、と石田さんは言う

 売買される商品も
 売り買いする人間の属性なども
 すべてコンピューターで処理するために、コンピューターの言語にされる必要がある
 その際、個人も分析可能な文字列として分割されていく、と。
 (ライプニッツの比喩として「微分」と表現している)
 分割されたデータはビッグデータ分析の結果、個人とは別の形で統合される
 (比喩としては「積分」と表現している)
 この微積分が今の世界では起きている、と。

 しかし今はさらに、このデジタルな言語の世界では
 Google検索エンジン技術も生まれている

 するとこのボードリヤールの言葉は
 「物が消費されるには、物は本にならねばならない、
  人は読者にならねばならない」
 となるかもしれない、という

 というのはGoogle検索は
 世界の情報を集めた、巨大図書館、という構想から始まったそうです。
 その図書館では誰もが読み書きでき
 誰もが平等にアクセスできる。

 そしてこの構想が実現したのは
 コンピューターができたからであり
 石田さんはコンピューター革命を「文字の革命」と呼ぶ
 それは
 ・文字の電子化→消す、コピペが楽
 ・文字の数字化→文字自体が、本から独立した

 つまり文字は完全に本から自由になったが
 どの文字列を優先すべきかの順序付けが必要になり
 サーチエンジンが生まれ、それがGoogle検索になったらしい

 このサーチエンジンは平等な競争原理が働いていて
 ヒエラルキーのようなものはない
 たくさん検索されるもの(競争に勝ったもの)が一番上に載せられる

 さらに、この上に乗ったものは直接資本主義とつながっている
 どんどん検索されるものが広告につながり、お金になる
 これを言語資本主義、と石田さんは呼ぶ

 この言語資本主義により
 人の言語などの記号化、理論化の活動は
 現実の資本主義と連動するようになった
 知識の生産と資本主義(物の生)が一体化した、と。

 …一見これは完全に平等で、誰もがアクセスも可能な資本主義の誕生、にもみえますが
 しかしたくさん検索される勝者の記号しか見えなくなる世界、
 誰もがアクセスを見えてしまう世界は
 本当に平等で自由なのか?という問いが
 次の2つの項でなされている
 
3権力について
 ここでは、我々は常時ネットに繋がれいるが、
 それは自由に見えながら、新たな監視社会の誕生のかもしれない、という問題を提起している

 (これを「権力について」とするのは、
  権力を監視システム、パノプティコンにたとえたフーコーへのオマージュでしょうか?)

 石田さんによれば
 本来自由であるはずの我々の世界は
 「政治システム(権力)」「経済システム(市場)」に植民地化された、という

 しかし現代のネット社会は
 生活者自身が進んで植民地化されている、と。

 それはなぜかと言えば
 ネットは生活者を「解放」すると感じさせるからだそう
 ネット空間ではプライベートも自由にみせあい、自由に公的な討論もする

 しかしこの完全な自由であるはずのコミュニケーションは
 生活社会の完全な市場化と
 完全な監視社会化をもたらしているとも言える、と石田さんは指摘し
 「システムの内在化」と呼んでいる

 内在化という言葉が少しわかりくいのだが
 誰かが人々を管理する市場や政治システムを作り参加させるのではなく、
 管理される側が管理されるシステムをせっせと作っている、ということか。
 
 石田さんは、これは生活の数字化、データ化で可能になった、という
 利用者は、便利でただのソーシャルメディアにプライベートを書き込み、
 どんどん無償労働する

 これはシステム側には好都合で
 企業はたくさんのデータを企業戦略に生かせるし
 中国のように国家が監視の道具にすることもある

 これらの問題は、フーコーパノプティコン)や
ドゥルーズ(コントロール社会)なども指摘しているが

 このデータ化のもたらす監視社会の特徴は
 「1984」のビッグブラザーのような監視する主体がおらず
 すべてのデータが透明化され、
 意図のない監視がなされるところなのだそう
 
 というのは、現代のデータ化社会では
 生のデータをそのまま機械が取り、そのまま分析する
 機械は意味を解釈する前に計算し、
 データの関連性だけを取り出すことができる、
 だからそこに意図はない

 もちろん、ここにはある種の可能性もある。
 自分の生をそのままデータ化することで
 そのデータを自己管理し、それを自由に使えるようになる

 それはフーコー古代ギリシャ時代に見いだした「自己の技法」とも言えるそうです
 自己の技法とは、フーコーの後期のテーマですが
 古代ギリシャローマ時代の賢人が行った、自己を見つめて自己研鑽する在り方

 石田さんによると
 その時代の「自己の書法」もフーコーは紹介しているらしい
 それは今でいうブログみたいなもので
 読んだこと、聞いたこと、考えたことなどを書き留めている

 もちろんここにも、自己研鑽につながる可能性も見いだせる
 しかし石田さんは、今の時代の書法がデジタルメディア上であることを問題視する

 フーコーが分析した古代では
 自己の技法は
 自己を統治する術を学び、
 それが市民による権力統治につながっていく、
 つまり理性化の過程だった

 しかし今の自己の書法は
 コピペであり感情的なリツイートでありそこには理性がない。
 それはどんどん感染していく問題をはらんでいる

 さらに、デジタルメディア上の書き込みは
 機械により勝手に記録され、
 アルゴリズム化され、
 勝手に社会的自己が作られていく。

 それは個人的な文字が、誰かにコントロールされていることではないのか、と…

 (お互いをお互いに見せ合う社会、というのは
  監視とも言い切れないような気がしました。 
  本人の気分による、というか、
  もう見せちゃってもいいや、と思うようになったら気が楽になる、というか…

  というか、若い人なんかは
  見せる自分と、公開しない自分とを分けていて
  「どうやって自分を見せるか」の戦略も考えていて
  逆にそこを売名のために利用するツワモノもいる(炎上商法とか)

  それはそれで、見る人も書く人も遊びのレベル、
  「あれはその人本人じゃなくて、その人のネット上のキャラクター」
  とわきまえていれば、逆に開放の手段となるのかもしれない

  ただ、そこはあくまで仮想の世界、として
  それでとどまっていることが大事なのかな、と思います。

  というのは、そこをリアルの世界と勘違いしちゃって
  感情が暴走したり、言葉尻を捕まえて誰かを罵倒したりして
  リアル世界での人間関係が壊れてしまったりする。

  あるいは中国のように、ネット世界の自分をよく見せないと
  リアル世界の自分の評価、生活にも悪影響が出てくるようになれば
  それはオソロシイ世界になってしまう…)

4自由について
 最後に、現代の自由意思はメディアに作られているのではないか、
 という問題を提起している

 〇アナログメディアがもたらした自由
 最初に能科学者ベンジャミン・リベットの実験が紹介されていました

 脳科学では有名な実験で
 被験者は画面を見て、合図を見てボタンを押す

 このとき、脳画像も同時にとり
 ・被験者が押すと意思した時間
 ・手の動きを脳が指令した時間
 ・実際に手で押した時間
 などを測定する

 細かい説明は省きますが
 結果は、被験者が押そうと決める前に、脳は手を動かす準備をしている
 つまり行動が先で意思はあと、なのです
 これは自由意思ってなんだ?と考えさせられる実験です

 この、人間自身の行動と脳と意思のタイムラグに加えて
 アナログメディア革命では
 ここにテクノロジーのタイムラグが入り込む
 というのは、テクノロジーは人には見えない瞬間を記録する。
 カメラがシャッターを切った瞬間は、人間には見えない

 つまり、アナログメディアでは
 ・脳と意識のタイムラグ
 ・技術と意識のタイムラグ
 ・テクノロジーの像が出来上がった後に改めて自己を認識する「総体」
 の3つが起きているそうです

 それは人間の表現の自由度を増やした、
 テクノロジーはその補助具になった、とも石田さんはいう
 テクノロジーで手にしたたくさんの無意識を
 人間は上手くのりこなしてきた、と。

 心の哲学ダニエル・デネットさんはリベットの実験を受け、
 人間の意識は、頭の中の一人の小人(理性)が
 色んな感覚データを統括する、とするデカルトの理論を批判したそうです
 そして、色んな小人(感覚器官?)が色んな感覚を多元的に統括する、
 というモデルを提唱したそうで

 石田さんもこのモデルに同意し、
 我々の色んな無意識が
 オーケストラのように協調していると考えるべきだ、という

 メディアという補助具で、その無意識はますます増え、自由はますます拡大している
 それが新しい自由の在り方だ、と。

 〇デジタルメディアのもたらした不自由
 このように、アナログメディアは人間の自由を広げたが
 一方デジタルテクノロジーは自由を狭める危険性がある、と石田さんは指摘する

 というのは、3のところで触れられていたように
 今は自分をデータ化して、そのデータを自分で利用できるようになった
 すると、そのデータ、つまり過去の自分に自分の行動が縛られてしまう場合がある
 (過去の買い物履歴を利用したリコメンド広告で似た商品を勧める、などはその例だろう)

 フランス社会学者のドミニック・カルドンの研究では
 インターネットのアルゴリズムを4つの類型に区切っている
 これは計算モジュールとデータの関係で区別していて
 1「人気」をはかるアルゴリズム
  計算モジュールとデータが横の関係
  具体的にはPVカウントなど

 2権威をはかるアルゴリズム
  計算モジュールがデータより上
  具体的には序列をつける検索アルゴリズムなど

 3評判をはかるアルゴリズム
  計算モジュールがデータの内部
  具体的にはいいね!やリツイート

 4予測をはかるアルゴリズム
  計算モジュールがデータの下
  具体的にはレコメンドなど

 カルドンによれば、
 それぞれのアルゴリズムで、
 異なる社会集団が作られてきたそうです。
 つまり、アルゴリズムは社会も作る。

 さらに石田さんは、アルゴリズムは1→4の順に進化してきた、という

 1はアナログなランキングに近く、評価基準はメディアの外部にある
 2はGoogle検索と同じで、検索頻度が評価基準となる
 3はFacebookTwitterなど。
  カルドンによれば評価基準はメディアの内部にある、みたいな分析だが、
  実際は情動的な共感により評価が作られる
 4はAmazonのレコメンドで、利用者データの分析により評価が作られる

 集団内の評価が、アルゴリズムの外から内部へ移動し
 さらにアルゴリズムに評価が作られる状態になってきている。

 石田さんは、
 アナログメディアが我々の意識を変化させたのに対して
 これらのアルゴリズムは環境を変えている、という
 そして、我々の評価基準について
 カウントする→優先順位をつける→評価基準そのものを作る→それをもとに選んでくれる
 という方向に進化している

 これらは便利だが
 自分の選ぶものや人を狭める可能性がある。
 つまり「私」や「社会集団」が勝手に決められる危険もある
 フィルターバブル問題にもつながる

 〇本当の自由とは
 それにたいして自由はどうあるべきか?

 ここで石田さんは
 ジルベール・シモンドンの理論概念「心理的・集団的個体化」を紹介している

 シモンドンは、
 個人を集団や環境から孤立したもの、とは考えずに、
 個人とは、他者や環境との関係を作っていく中で
 「心理的に、集団的に「個人になっていく」存在」としているそうです。

 …なんだか言葉が難しいのですが
 「心理的に個人になる」=「私」を作っていくこと
 「集団的に個人になっていくこと」=「社会」を作っていくこと
 周りとの関係の中で「自分ってなんだ」ってのを浮きだたせていくこと
 自分を取り巻く社会はどんなものなのか、を自覚していくこと、ということか。

 テクノロジーはそれをサポートすべきだが
 現在のテクノロジーアルゴリズム
 本来の個体化と同じ方向を向いているとは限らない。
 アルゴリズムは、我々を計算可能なデータにしていくだけにすぎない、と。

 人間が本来の意味で「心理的、社会的、技術的に個体化をしていくこと」が
 自由ということである、と石田さんは述べる
 メディアはそれを妨げるのではなく
 補助具となるべきである、と。 

 そのためにどうすればいいかについて
 石田さんは、ルソーの一般意思とシモンドンの分析とを組み合わせて処方せんを考えている

 ルソーは一般意思という概念を考えた
 (少し解説を加えると、ルソーは契約論の人
  彼は人間は、自然状態がベストで、社会が格差を作った、と考えた。
  それを是正するには、多数決に基づいた権力に統治してもらうこと、と考えた
  というのは、彼の考え方からすると
  人は自然状態で投票すれば、全体にとって望ましいことを選ぶはずだ、と。
  そして、その多数決の結果が「一般意思」になるんだ、と考えた)

 ルソーの言う「一般意思」とは、固有な価値観や意思の差を積分したもの。
 つまり違いを認めたまま共存していくあり方、だそうです

 そして、シモンドンも
 本来の心理的、集団的個体化、について
 ちぐはぐなものをつなぎあわせるプロセス、と表現しているそうです
 つまりは違う個人が違いを持ったまま集まっていき
 差異の総和を作っていくことだ、と。

 それを現実化するために、人をデータ化するだけの現代テクノロジー
 どう変えていけばいいか。
 石田さんのばばっと書いた案では
 ・「自分の個体化のためのプラットフォーム」
  古代の「自己の技法」みたいな、
  ネットにつながってない状態で自分を見つめなおす環境が必要だ、と。

 ・「情報テクノロジーの均質化に対抗する、ちぐはぐさを取り戻す」
  つまり、ネットだけじゃなくて、生の体験もしろ、と。

 ・「技術的個体化の問題を解決する」
  情報をプラットフォーマーに独占させない、
  ユーザーが情報を自己管理できる仕組みを作る、など…

 石田さんは
 「メディアという補助具を付けた人間は、ちぐはぐな存在」で
 「マシンと人との協同や共進化はあり得ない」
 「むしろ、マシンと人との齟齬が
  補助具を付けた人間の源泉、と言える」
 と書いています。

 「その意味では、この居心地の悪いちぐはぐさを
  もうしばらくは生き続けるよりほかはない」
 という言葉でしめくくっていました

〇感想など
・…石田さんの、色んな思想家を縦横無尽に駆け巡る理論には感服しました。

しかしながら最後の方で
アナログメディアには
「人間の意識の自由を拡大した」と肯定的評価をしているのに対して
デジタルメディアに対しては権力や支配の匂いを漂わせ、
否定的評価をしていること、
それから人とマシンの協同化や共進化はあり得ない、
と断言されていたが、私はそれには賛同しない。

私自身は、メディアテクノロジーも捨てたもんじゃないと思うし
マシンと人間は共進化できると思っている。

たとえば埋もれたプロジェクトが
ネット上で共感を呼んで、クラウドファウンディングにつながったり
誰にも言えないイジメを抱えた子が
ネットでヘルプを出せている。

かの「保育園落ちた日本死ね」も、
言葉はどうかと思うが
結果的に日本の育児支援を変えたわけですし、
新たな言論の手段と考えてもいいのでは、と思う。

また、バーチャルリアリティの技術が、
痛み軽減の治療につながるとか、
動画文化が新しい表現、クリエイションにつながるなど、
デジタルのテクノロジーだって、
アナログテクノロジーと同じように、
人間の意識を変容させ、人間の可能性を広げる可能性は秘めていると思う。

とはいえ、デジタルテクノロジーの危険性ももちろん分かる。
人間の本当の自由を実現させるような技術になるべき、
というご意見には賛成です。
ただそれは技術の問題というより、我々の使い方の問題なのだろう、と思う。

ネットの世界は仮想、
現実世界は現実と自覚し
選ぶのは私、と主導権を握っておくスタンスを忘れないことが大事だと思います。

・それから、記号のピラミッドを見ていて思ったのですが
今のテクノロジーは、
感情とダイレクトに結び付き
人の無意識を操作する危険がある、ということに関して。

私はAIは意識を持ち得ない、という意見でした。
というのは、意識を作るには
感情や身体、進化が不可欠なように思うのです。
人や生物は生命に限りあるから、生きたいという渇望があり
その渇望、本能から感情も欲望も生まれているんだ、と。

だからAIロボットが勝手に自律的意識を持つようになり、反乱する、
という状況はあんまりあり得なさそうだなとは思うのだが
でもAIが、人の生の感情の流れ込むネットと接続していて
常に人の意識を吸いとっていたら話は変わるかも、
とも思いました

そしてそのように人の経験を吸いとり、
仮想的な意識を持ったAIが生まれ、
それがまたネットを通じ、
人の感情を煽るような書き込みをして
人間の意識を変えていく世界が訪れたら…、、、

とか思ったんだけど
しかしそれは、
人間がネット世界に従っていることが前提なのかなとも思いました

よくよく考えれば、人間はそこまでバカじゃないですね。
ネットで言われたことを変だなとか不快に思えば
電源を切って外へ出掛ければいい。
SNSを脱退すればいい、
自由に動ける体がある我々は
そういう自由はまだ残されていると私は思う。

自分の世界の主権を譲り渡さないことかなと思います
ただ、テクノロジーの世界は仮想であり、リアル世界とは違うんだ、
という意識、主体性は
人間が論理的思考を保っていてこそ備わるものかな、と思う。
スマホとかネットサーチに日々流されていたら、
いつの間にかそういう主体性を失ってしまうかも…

だから、記号のピラミッドをよじ登る訓練は常にしておかないといけない。

ツイッターの紋切り型文章とか分かりやすい動画だけに頼らずに
生の論理的な議論を生の人間と重ねたり
文章の組み立てからなる文章や本を読む、
自分で状況や自分の考えを説明する文章を書く、
音楽を聞いたり絵を見たりして想像力を働かせる、
という営みはしていかねばならない、
そういう意味での「生の体験への回帰」には賛成できると感じました。

なんかのインタビューでミスチルの桜井さんも言ってたけど
人々のそういう想像力って、10年20年前より弱まっている気がして、
私もそこは気掛かりなのですよね。

とはいえ人間って、記号化や議論などをしたくなる存在でもあると思うので、
機械が記号化を肩代わりしてしまう現代、
逆に生の議論や、人と人との生の交流への回帰も
同時に起きるのかもしれない。

そういう意味では東さんのようなカフェの試みも
共感、参加する人は一定数いて、
それがまた新しい何かを産み出すのかもしれない。
などという希望も感じます。

石田さんはちぐはぐさを生きるしかない、
と悲壮感を漂わせる終わり方でしたが
私は機械と人間、どんな将来を共に築いていけるのか
結構ワクワクしています。
常に希望は持っていたい。

…暑いせいかなかなか文章書けませんでした。。
長くなりましたが、今回はこの辺で。