びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

「社会学史」大澤真幸

社会学史」大澤真幸

社会学の歴史の本です。
社会学者さんってよくテレビで見かけますが
そもそも社会学が何なのか、哲学とか政治学と比べて分かりにくい、
それで読んでみました。
が、ほんまにアカデミックな本で、最初は難しくて死にそうでした…(笑)

あとがきにもあるように
社会学は歴史を追ってこそ意味があるのに、
社会学の歴史について書かれた本がない、
というのが筆者の執筆の動機だったそうです。
講義をもとにした本なので、語り口調になっています。

扱う歴史は幅広くて、だいたい出てくる人を挙げてみると
古代ギリシャソクラテス
・18世紀、社会契約論…ロック、ホッブズ、ルソー(アダム・スミス)、
フランス革命など市民革命が起きる
・19世紀、社会学の始まり…オーギュスト・コント
社会進化論…スペンサー
→前後して、科学革命、産業革命が起きる
・19世紀(社会学者じゃないけど)マルクスフロイト
社会学の手法の確立(19世紀末~第一次大戦)…デュルケームジンメルマックス・ヴェーバー
→二つの世界大戦が起きる
20世紀以降
・機能構造主義タルコット・パーソンズ
・意味の社会主義…シュッツなど
構造主義レヴィ・ストロースニクラス・ルーマンミシェル・フーコーなど
ポストモダン

(ちょろっと出てくる人も含めたらもっと紹介されています)

有名どころが入っているのがありがたい。
構造主義も名前は聞いたことがあるけど、詳しくは知らなかったんで
解説されていて良かった。
一般的な解釈だけではなく、大澤さん流の深読みも入っている感じでした。

まぁ専門の人が読めば
なんでこの人は入ってないの?とか、
こんな解釈?という人もいるかもしれないが
入門としては良いかもです。

(ただし、専門外の私にとってはかなり難しかったです)

私の理解でメモってみます

社会学とは
 そもそも社会学とは何ぞや、については前書きで触れられています。
 結構難しい文章なので私なりの理解で書くと

 「社会はなぜ社会として秩序があるのか」

  筆者によれば、それは個人同士の関係レベルでの秩序と、
  個人と社会との関係レベルでの秩序があるらしいです。

 社会になぜ秩序があるのか?
 そんなの、個人同士が集まって話し合ったら
 そのまま秩序ある社会になるんじゃないの、と素人的には思うのだが
 そんなに単純ではなく、
 だからこそいろんな人がずーっと研究をしているようです。

 それから筆者は社会学の定義としては言及していないが、
 社会の変化を分析するのも社会学かなと感じました。

 というのは、筆者によれば
 社会学が生まれたのはフランス革命が1つの契機で
 フランス革命により、
 社会は変えられる、変わるもんなんだという認識がみんなに広まった。
 それから、社会の主人公が国民になった。
 そこから、社会はどのように変化するのか
 そのために個人の心はどうあるべきか
 の分析が必要になり、社会学が生まれた、とあるからです

 読んでると、そんな細かい分析して
 なんの役に立つん?と言いたくなるのだが、

 ざーっと全体を大観で見ると
 社会とは経済(お金)と同じで、
 元々は人間が作りだした物のはずなのに
 特に近代になるにつれ、いつの間にかそれ自体が力を持ち、
 人間が社会を支配するかのような、人間対社会、という構図になってしまっている。
 そしてそうなってしまうのは、
 おそらく社会を作る、人間の無意識的な心の働きに大きな関係がある。
 それを分析するのが社会学
 つまりは人間を知るための学問でもあるのかな、と感じました

というわけで私も理解した範囲で社会学を追ってみます

社会学の生まれる前
 筆者によれば、
 古代や中世絶対王政の時代までは社会学が無いそうです

 なぜかというと、その時代は
 人は自然法(人間が本来持っている道徳観みたいなもの)に従って生きるはずだ、
 という考えがあったから、だそうです
 また、古代から奴隷制度とか王政などの序列があり
 それに従って生きるのも当たり前、とされていた

 つまり、個人は決まりに従って生きてるはずだから、社会に秩序があるのは自明で、
 学問にはなり得なかった。

 しかし中世(17世紀くらい)になると
 ロック、ホッブズ、ルソーなどの社会契約説が生まれる

 彼らはこの絶対王政は何かおかしい、人間は本来平等なはずだと考えた
 そこでなぜこんな状態になっちゃっているのか、
 人間本来の自然状態を考え、どうすればいいかを考えた
 (彼らの中では社会契約を結ぶ、という結論になった)

 ただこのときはまだ、
 理想的な社会の姿しか描いていない。
 理想の社会、現実の絶対王政の二つしかないから、社会学にはなっていないらしい。

○ロック、ホッブズ、ルソー
 歴史の教科書だとワンセットでややこしい人たちですが、
 考え方の違いが書かれていたのでメモっておきます
 (ちなみに、ひとまとめにされているのは後世の人の勝手な分類で
  社会契約、という言葉を使っているのはルソーだけらしい)

 共通するのは
 「人間の自然状態」を考えたこと
 「よき状態」にするために「契約」を考えること、ですが

・ロック
 自然状態…人は本来自分の生存権を主張するが、他人の生存権も認める
 そのため丸く収まっているとする
 ただしたまに自分の欲の方が優る人もいるので、
 権力者に契約して治めてもらうことで秩序が保たれる、とする

 しかし、権力者も神に背く行いをすることがあるので
 そのときは抵抗しても良いとしている。
 (彼の主張する抵抗権は、後の市民革命につながるのだが、
  筆者によると、彼の理論は神を持ち出すので、そこがロジカルではないそうです)

ホッブズ
 自然状態…人は自分の生存権しか考えないので、ほっとくと殺し合いになる
 だから全ての人間が統治をリバイアサン(絶対的な権力者)に委ねます、
 と契約することで社会は丸く収まる、とする

 (筆者によると、彼が一番ロジカルだそうです。
  人は自分の利益しか考えてない、と仮定すると殺し合いになる、てのは
  ゲーム理論の「囚人のジレンマ」と同じなのだそう
   ただし、ホッブズ的解決法(リヴァイアサン)は、筆者によれば
   理論的に間違っているそうですが…(リヴァイアサンも暴力になりうる、と)
  後の社会学者は、このホッブズ理論を持ち出して、
  実際の社会は殺し合いになってないのはなぜか、と考えています)

・ルソー
 自然状態…人は自分の生存権も他人の生存権も尊重しあう、善き存在
 しかし社会ができたからこそ、格差が生まれて争いが起きた、とする
 統治はみんなの参加する多数決で社会契約を結べば、正しく行われる、と考える
 (ルソーは現実離れ?していて
  人間は本来の姿であれば、
  嘘もつかず他人の利益も考えるもの、「透明な心を持っている」と思っていたようです。
  だから、多数決にすれば、みんなのことも自然に考えるから
  みんなが納得できるやり方に落ち着く、ということらしい)

 ついでにこの時代の人のアダム・スミスも触れられていて
 彼は「国富論」という本で「レッセ・フェール」
 人間がそれぞれ欲望を追求すれば、社会はいい感じに収まる、と言った
 (資本主義経済の考え方につながる)人ですが、
 筆者によるとこれはホッブズと似た主張ではないか、と。

 「レッセ・フェール」とはホッブズのいう「自分の生存権だけを主張する自然状態」である。
 でもそれで殺し合いにならないのはなぜかというと、
 スミスは別の本「道徳感情論」で「共感が大事」とも述べている。
 この共感とは個人の心の繋がりではなく、
 社会的な道徳観みたいなの(アダムスミスは「公平な観察者」と述べていた)を指していて、
 つまりこれは「心の中のリヴァイアサン」ではないか、と筆者は述べています。

社会学が生まれる
 そのあと、学問が発達し、(ルネッサンスの影響?)
 宗教学から人間が理性で考える学問が出てきた
 哲学、科学、経済学、政治学文化人類学などが起きた

 さらにこの頃フランス革命などの市民革命が起きて
 社会は変化するもの、という認識が起き
 変化する社会を分析する社会学が生まれる

 実際に「社会学」を正式な学問としたのはオーギュスト・コント
 (具体的に言えば、大学でも教える学問になった)

 コントは、ダーウィンの進化論に影響を受けた社会進化論を考えたそうです
 原始社会から王政社会、革命を経て市民社会、のような。
 スペンサーも同じく進化論的な社会を考えた

 (筆者はこれは逆輸入だ、と解説しています。
  ダーウィンの進化論自体が、
  当時の社会、つまり重商主義的な覇権争いからヒントを得ているんだそうです)

 筆者によると、
 当時は社会学の手法は確立していないが
 社会の分析に歴史や時間的な流れが入ってきたのが
 この時代のポイントだそうです

マルクス
 マルクスは19世紀の人、コントやスペンサーくらいの時代の人。
 彼は社会主義者というより経済学者や革命家として扱われることが多いですが、
 後の社会学マルクス学派ができるように、大きな影響を与えているようです

 マルクスについては長々と書いてくださっていますが

 私が印象に残ったのは
 「マルクスの「資本論」は貨幣の話ではなく
  近代人の精神分析論だ」
 という見方です。

 この頃、科学革命、産業革命が近代人の思想に大きく影響を及ぼしている。
 資本論を読むと、経済もその影響を受けている、と読めるそうです

 この時代始まった科学では、
 現象から法則を抽出し、速度と質量の関係、というシンプルな形にしている。
 一方、マルクス資本論で「なんでも商品になる」と書いているように
 資本主義では、様々なモノの価値を抽出し、貨幣という1つの価値に置き換えている。
 これはほぼ同じ手法で、
 こういう近代の思考形式が近代社会を作った、ということらしい

 筆者の解説によれば、マルクスは、モノの価値が貨幣に置き換えられる過程を描くことで
 近代人の思考の特徴として
 ・今まで目に見えなかったもの(経済で言えばモノの価値、科学で言えば物理現象)を物象化した
 ・貨幣を神のようにあがめるようになった
 ということを暴き出しているらしい

 二点目については、
 みんな人間は貨幣は幻想だ、ただの金属や紙切れだと分かっている
 でも貨幣無しでは価値の違うモノを交換できないから
 みんながお金をあがめてしまう。
 これは無意識的なもので、それは神を信じるのと同じだ、と指摘しているそうです

 (厳格な信仰と資本主義精神が同じ、というのは
  後にマックス・ヴェーバー
 「プロテスタンティズムと資本主義の精神」でも論じています)

 また、マルクスは価値を生むのは労働、それを搾取するのが資本家、と考える
 筆者によれば、搾取される立場の人たちは、聖書で言う現世で救われていない人たち。
 しかしキリスト教では最も見放されているものが救われることになっている。
 だから労働者よ立ち上がれ、と呼び掛けたのではないか、と。

 ここでもマルクスは、宗教と資本主義を重ねて見ていたのではないかとしています

フロイト
 フロイトは精神学者ですが、彼の精神分析社会学に大きな影響を与えている

 彼はエディプスコンプレックス(男の子は母親を犯す欲望があり、それを阻む父親に憎悪をもっている)とか、
 男の子は父親にペニスを切り取られる恐怖を持っている、と唱えたり、
 彼の理論はどうなの?と思うんだけど
 
 彼は、無意識という概念、それが社会を作ることを見出した功績があり、
 それから彼の奇妙な理論は、1960年代以降の記号論との共通点がある、という見立てもあるんだそうです

デュルケームジンメルマックス・ヴェーバー
 筆者によれば、社会学の波の一つが19世紀末から第一次大戦までのヨーロッパにあったそうで、
 その時代の人たちの話です。

 この時代は覇権もですが社会学も中心はヨーロッパだったそうです
 しかもユダヤ人が多い
 (のちの社会学者にもユダヤ人は多いです。
  場所を転々とさせられて世界を大局的にみる経験があったり、
  迫害などの辛い経験が多いからでしょうかね)
 
 彼らの功績は、社会学に系統的な手法を導入したこと、で
 ざざっと違いを書いておくと
 ・デュルケーム…フランスのユダヤ
  この人は「自殺論」「社会分業論」を書いており、個人より社会全体を見た人。
  近代では分業化が進み、この分業化で、人々は互いの連帯を強め、社会を作ったと考える
  この社会の連帯が弱まると、自殺が増える、と考えたそうです

 ・ジンメル…ドイツのユダヤ
  この人はドイツの大都市に住んでいたので、主に都市について研究している
  デュルケームと反対で、社会はどんどん分化し、それに伴い絆は弱まる、としている
  近代化は「個の独立」にあるとみているのだそうです

  彼の社会学は個人どうしの関係、つまり行為に注目し、いろいろ分析しているそうです
  例えばコミュニケーションには目的のある行為と形式的な行為があるが、社会を生むのは後者だとか、
  人間関係には分離と結合の両面がある(他人に隠し事したり、正直になったり…)、など
  それから、貨幣は人間関係に適度な距離を作り、人間関係を自由にさせる、とも述べている

 ・マックス・ヴェーバーユダヤ人じゃないドイツ人、リベラルなナショナリスト
  彼は社会全体ではなく、個人の心の動きから近代社会を考えた人

  彼は、近代(西洋の)の本質は合理化にあると考えた

  ここでいう合理的、とは、割り切って納得できる状態を指すそうです

  彼が特に注目したのは宗教
  ヴェーバーによれば宗教、特にプロテスタントは合理的な人たちらしい
  この時代の宗教を近代以前の宗教と区別し、「脱呪術化」したと言っている

  現代からみれば、宗教自体がそもそも非合理的に感じるんですが、
  彼によると、昔ながらの宗教は「神強制」、
  神にお供えして願うのは買収と同じで、神と人間は対等、曖昧さが残るから合理的でないのだそう
  一方プロテスタントの場合は「神信奉」、神を絶対的に上に置く
  このため秩序が生まれ、合理的になるんだそうです

  ヴェーバーは、資本主義の精神を最も体現しているのがプロテスタント、としているそうです
  筆者が彼の理論から見いだしている…は二つあり
 ・プロテスタントは「神は全てお見通し、人生は神の予定通り」
  という事実を信じることで
  人生の行為全てが神の意思に沿うよう合理的になり、ひたすら勤勉に働く
  (予定説は、神が全てを決める、と言うが、
   それなら、もし自分が天国に行けると決まってれば、怠けたっていいじゃん、と思う選択肢もあるはず。
   でもそうならないのは、彼らが徹底的に神を信じているからなのだそう。
   つまり、神はその人が怠けるのもお見通しだ、と思い、
   みんなそれを恐れ、勤勉であることを選ぶ、ということらしい)

 ・プロテスタントの生活の隅々に行き渡る合理的行為は
  唯一の非合理的な事実「神の存在」を信じることで生まれている

  後者については
  ヴェーバーは、人の行為も合理的かそうでないかで分類しているのですが
  彼は合理的行為にも二つあるとしていて
  ・目的合理的行為(理にかなうから行う…学校の決まりを守るなど)
  ・価値合理的行為(自分がいいと思うから行う…決まりに反していても友達をかばう、など)

  そして筆者の解説では、
  プロテスタントの生活は、すべて目的合理的行為で満たされているが、
  それはただ一つの価値合理的行為である「神を信じる」
  という行為をすることで成り立っている、とも言えるそうです

  …この合理的行為の区別が何の役に立つか、はここでは触れられていないのですが

  私が感じたのは
  「目的合理性」は、ほんとにAI的な機械の世界というか
  目的を設定して最適になるよう行動する感じですが
  「価値合理性」は人間的な判断の世界で
  合理的社会にも、人間というものが重要な役割を果たしている、そんなイメージでした
  (のちの構造主義と比べると、まだ人間的、というか)

  それからもう一つ、
  資本主義も、資本主義のルールをみんなが守ることを信じる、
  という唯一の価値合理的行為を選択することで
  「お金を儲けるために頑張る」という全ての合理的行為が成り立つ
  そこが資本主義精神とプロテスタントとの共通性でもあるのかな、ということでした

  それから筆者はここの合理性にも注釈をつけていて
  合理的、といっても、この場合、目的と結果が一致していないことを指摘しています
  というのは、別にプロテスタントたちは、
  資本主義を体現させるためにプロテスタントになったわけじゃない。
  神を信じた結果、その意図とは別に、資本主義社会になっている。
  つまり、個人の意識の集合が社会を作るという単純な話ではなく、
  個人の意識とは無関係な場所に社会が生まれている、
  という社会の性質を見出したとも言える、と。

  デュルケームの社会論も、個人の意識に関係なく、連帯が社会を作っていると考えている。
  社会が単なる個人の集合体ではない、
  社会が個人の意識とは関係なく生まれている見立てが、
  ヴェーバーと共通している。
  
シカゴ学派タルコット・パーソンズ
 二度の大戦を経て、社会学というか世界の中心はアメリカに移動した
 シカゴ大学を中心に新しい社会学が生まれてきたそうです
 (主に、移住してきたプロテスタントの分析だそうですが)

 シカゴ学派は特定の思想があるわけではないそうですが
 その中で有名なのはパーソンズ
 と言っても彼はシカゴ大学の人ではないらしいが…
 
 彼についてもいろいろ述べられていますけど、私の理解では彼の特徴は
 ・功利主義に対抗しようとした
 ・機能ー構造理論を考えた
 
 前者について
 功利主義、ってのはある目的に対し合理的に行動する人。
 その目的はなんでもいい(ランダム)、とする
 パーソンズホッブズ問題を研究していて
 人間がみんな功利主義的なら、ホッブズが言うみたいに社会は殺伐とするはずだが
 実際の社会はそうではない。
 なぜ社会に秩序があるのか?を考えた
 同じ流れでヴェーバーも研究しているらしい

 結論的に言うと、この問題はパーソンズにはとけてないらしい
 彼は、人々に内面化された社会規範があり、
 それが社会に制度化されているから秩序がある、
 としているが、
 その規範や制度はどこから来たんか、は説明できていないらしい

 パーソンズの功績は「機能ー構造理論」を提唱したことにあり
 この考え方は1960年代頃まで世界に影響を与えたそうです

 簡単に言うと
 社会には「機能的要件」(社会に要請される目的)があり
 →それに沿うように社会ができ、「社会構造」が生まれる
 →その社会の中で、構成員同士の関係などがいろいろ変化して、ある「社会状態」になる
 →その「社会状態」が最初の「機能的要件」に適しているか評価され、
  かなってなければ社会構造が変化する、
 という循環を延々と繰り返す、という分析

 デュルケームの社会論なんかもこれに良くあてはまり
 社会状態が機能的要件に当てはまってないときに、
 個人の精神がおかしくなり、自殺が増えると解釈されるそうです

 この機能ー構造理論は、社会がどうやって生まれているか、
 を理論的に明快に表した、という意味で功績があるらしい

 ただ批判もあり、筆者は難点として二つ挙げている
 ・機能的要件、てのは社会に一つとは限らない→そうなれば社会の形が一つに定まらなくなってしまう
  →ただ、筆者はいくつか機能的要件があっても、
   その中で一番優勢なものが社会を決める、
   と考えてもいいのでは、としている

 ・この理論だと、機能的要件が変わらない限り社会は変化しないが、
  その機能的要件はどうやって変化するのか、この理論では分からない
  →この点については、パーソンズの弟子のマートンが別の理論を加えていて
   機能的要件には「顕在的なもの」「潜在的なもの」両方がある、として
   これにより説明できるそうです

   顕在的、潜在的というのは
   ヴェーバーの「厳格なプロテスタントであり続けたら、資本主義を実現した」例でいうと
   「顕在的要件」が「厳格なプロテスタントとして生きること」
   「潜在的要件」が「資本主義精神の実現」に当たる。
   要するに意識してない無意識の意図が結果的に社会を作っている、
   そういう社会の性質をうまく表している、と言えるんだそう

○意味の社会学
 機能構造主義に対抗する形で、別の社会学が生まれたそうです
 同じ学派ではないけど、結果的に似たようなことを言っているということで
 「意味の社会学」とも呼ばれているらしい

 機能ー構造主義が社会全体を相手にしたのに対して
 この意味の社会学は、個人が世の中の事象に対し意味をどう見出すか、を研究した

 この辺の人たちは哲学者フッサールの「現象学」に影響を受けているそうです
 (この本では残念ながらフッサールは出てこないのだが
  客観を捨てて自分の主観を重視する、みたいな考え方です。
  「自分とは関係なく客観的な事象が存在している」という考え方をまず放棄して、
  取り合えず自分の感じていることだけは真実だと認める。
  そして、その自分の感じたことから対象物の本質を取り出そうとするやり方)

 この「現象学」の社会学化を理論的に行ったのがシュッツで
 「現象論的社会学」と呼ばれるそうです
 その考え方は、
 ・我々は、何が自分にとって意味あるものか、ないかを分けている
  …現在のAIの「フレーム問題」に通じる考え方だそう
 ・意味を見出すものの種類によって、人はいろんな「意味の場」を見出している、とする
 
 パーソンズの機能構造論が社会全体の構造を見ていたのに対し
 個人の現象に対する見方を主に分析したようです

 他にあげられていたのは
 ・ルックマン、バーガーの「知識社会学
  人間が現実を構築する過程を
  個人の知識の外在化(現実の意味付け)
  →現実の客体化(社会秩序の構成)
  →現実の内在化(個人による社会の学習)
  の循環がある、
  これは現象学的に(個人の主観に基づいて)行われる、という理論
 ・ガーフィンケルの「エスノメソロジー
  エスノメソロジーは造語で
  エスノ=元は民族だがここでは民衆を意味する
  メソッド=方法
  個人のコミュニケーションを細かく分析して
  認識や秩序の作り方を分析する方法
 ・会話分析
  エスノメソロジーの発展形で、会話の中の暗黙ルールを解明する方法
 ・ゴフマンの「役割距離」
  人はコミュニケーションで役割演技をしているとして、そのやり方を細かく分析した
 ・ハワード・ベッカーの「ラベリング理論」
  「アウトサイダー」という本で、社会のはみ出し者は、
  「アウトサイダー」とラベリングされることでアウトサイダーと見なされる、とする
  後に、社会問題は問題と認識されるから問題となる、という「構築主義」につながる

○構造機能論と「意味」の社会学との関係
 この時代は機能-構造論の人たちと、
 意味の社会学の人たちは対立していたそうです
 機能構造論の人たちから言わせると、
 細かいことを考えずに社会全体を考えろ、となり
 意味の社会学に言わせると、
 社会に意味を見いだす人間の意識を見ていく方が大事だ、となる

 筆者はこれらに対して
 機能構造論のいう「機能的要件」とは
 意味の社会学の言う、個人の見いだす「意味」から生まれると考えられる、
 だから両者は相補的なのではないかとしています

 これを説明するたとえとして
 アル中の夫を治そうと献身的な妻(精神医学でいう共依存)の関係を持ち出している

 共依存的な考え方だと、
 アル中の原因は夫だけじゃなくて
 「誰かに役立つことで自分の存在意義を見いだしたい」と思う妻にもある。
 だからなかなか治らず、この関係が維持されてしまう

 これを社会構造と機能要件の関係に置き換えると
 「アル中夫と、それを支える妻の関係」という社会構造は、
 「夫を支えることで自分の存在意義を見いだしたい」「関係を維持したい」という
 夫婦の潜在的な機能的要件により作られていることになる。
 (「アル中を治したい」という顕在的要件は真の社会的要件じゃないから成就されない)

 ただこの場合、個人の意味付けが働いているにしろ
 社会全体としての機能的要件はどのように作られているのか?の疑問は残るそうです

構造主義
 構造主義は、この
 「機能的要件」を取り払った構造論だそうです

 といっても、社会学
 「機能的要件がどこから来るのか?の問題を考えるのがめんどくさいから取り払おう」
 と考えて生まれたというよりは
 分化人類学や自然科学など、別の学問からもたらされた考え方のようです

 ・レヴィ・ストロース
  始まりとされるのはレヴィ・ストロース
  彼は分化人類学の人。
  彼は「野生の思考」という本で、
  元々人には無意識に秩序を作るような思考のパターンがある、とした

  最初は未開部族のいとこ婚の研究で、
  細かい話は避けますが、
  彼らの中では、部族の支配の関係が混乱しないような結婚のシステムが自然に備わっているそうです

  また、彼は「熱い社会」「冷たい社会」の分類をしていて
  前者は進化を目指す社会(近代の西洋社会)
  後者は昔と同じ生活様式を続けようとする社会(未開の地の社会)

  つまり、人間は必ずしも進化するわけではなく
  もとから備わる知恵もある、としている。
  その知恵を「ブリコラージュ」(今までのやり方を組み合わせて新しいやり方を作る方法)とも呼んでいる

  彼の理論は当時インパクトがあったらしく
  「野生の思考」はベストセラーになったらしい

  というのは、当時の1960年代、
  マルクス主義思想による革命運動が盛んだった
  マルクスヘーゲルの影響で
  人間は精神が進化していく、
  革命でそれを実現するんだとしていたが、
  そこに疑問を持つ人からレヴィ=ストロースは支持を受けた、と。

  一方でそのぶん批判も多かったそうです
  たとえば、人にある種の精神構造が最初から備わっているなら、
  その構造はどこからできたのか、と。

 そこを乗り越えたのが次のニクラス・ルーマンらしい
 (ジャック・デリダ記号論的な批判をしていますが、ちょっと分かりにくいので割愛します)

 ルーマンは元々は無名の人だったが
 ハーバーマスという当時の有名人と対等に論争して有名になったそうです
 そこで、先にハーバーマスについて。

ハーバーマスフランクフルト学派
 ハーバーマスフランクフルト学派、批判的社会理論と呼ばれる人たちの一人

 フランクフルト学派とは、
 ドイツのフランクフルト大学に拠点を置いていた方々で、
 初代所長はマックス・ホルクハイマー

 彼らの特徴としては
 ・マルクスフロイトの影響を受けている
 ・なぜドイツ人は人々はナチスに従ってしまったのかの研究をしている

 もっとも優れている本は
 ホルクハイマーとアドルノ啓蒙の弁証法
 なぜ合理的なドイツ国民がナチスに走ったかの分析本
 (人間は昔から、理性により自然を支配してきた、
  人間自身の内なる自然(感情、本能など)も抹殺し
  個人の価値は理性により画一化される
  その個人の抑圧がマグマのようにたまり暴力を生み、
  ナチスがその暴力を利用し、みんなが一緒にナチスに流れてしまった、という話)

 それからエーリヒ・フロム「自由からの逃走」
 人々は自由になると逆に不安になる、
 その重みに耐えかねてナチスに向かったと分析した本

 そのなかで、ハーバーマスはもう少し後の世代の人

 彼はある意味理想主義、懐古主義的な人で
 18世紀の頃は民主主義が発展し、合理的なコミュニケーションが生まれていたが
 20世紀に入って、官僚の介入や資本主義の論理で抑圧された、
 だから18世紀の啓蒙主義を取り戻そう、
 というような主張をしている

 このハーバーマスが、ルーマンと論争している

 その違いを書くと、
 ・ハーバーマスは、「正義にかなった社会」を目指すが
  ルーマンはどんな社会が善いか悪いかの判断はしないで、
  社会が秩序を保つ仕組みをただ客観的に記述している

 ・ハーバーマス人間性の要素を社会にいれようとするが
  ルーマン機械的なコミュニケーションを考えている
  たとえばお金のやり取りというコミュニケーションのとき
  ルーマンの場合、お金の行き来のみを考え、それに関わる人たちがどんな価値観を持つかは考えない

 つまり理想を追求するハーバーマスとは全く方向性が違い、もっと客観的に社会を見る
 そのためかみんなから注目された

ニクラス・ルーマン
 そこでルーマンの社会論が解説されていました
 かなり独特で、機械的なものを感じます

 彼は世の中には機械、生命、精神、社会の4つのシステムがあるとしていて
 このうち社会システムが成立する要件を3つ挙げている
 ・意味を構成する(4つのうち、意味を構成しないものが機械)
 ・コミュニケーションを持つ(意味はあるが、コミュニケーションがないシステムが生命)
 ・オートポイエーシス・システム(自己創出性)を持つ(意味とコミュニケーションはあるが、オートポイエーシスがないのが精神)

 どれも分かりにくいのだが
 まず、ルーマンのいう「意味」とは、
 他にも選択肢はあるけど選んだもの
 という意味合いを含むらしい(これはほへ?て感じだけど、後で生きてくるのでスルーしてください)

 また、ルーマンのいうコミュニケーションは
 受け手と送り手の選択で成立が決まる、とする
 送り手は、送る情報を選ぶ選択と、情報を送るか否かの二種類の選択をし、
 受け手は、情報を理解することと、(筆者の補足によれば)情報を受けとるか拒否するか、の二種類の選択をする
 送りて、受け手の人間性は関係ない感じです

 それからオートポイエーシス・システムとは
 生物学や数学から借りた概念で、
 細胞の中のように、意識とは関係なく自律的に働くシステムみたいなもの
 外部とのやり取りはあるが
 システム自体はそこで自己完結している、とする
 ここには、「自己組織システム」という概念もあり
 システムを構成する要素自体も、システム内部の別の要素の関係で自己算出される、
 とするそうです
 社会で言えば、個人同士のネットワークがあたらしいコミュニケーションを作る、と。

 彼はさらにシステムの進化についても考えている
 といっても、市民が革命をおこしてより良い社会を作る、
 みたいな進化ではなく
 システムの進化とは、複雑性が増加していくことだとする

 社会で言えば、血縁同士の横の繋がり(原始社会)
 →横だけではなく、上下の関係をもつシステム(前近代)
 →上下関係を持つシステムが機能別に複数できる(近代)

 そして、それぞれのシステムはコンピューターのような、
 1か0かの二項選択の流れで形成されるそうです
 たとえば科学システムでは「真か偽か」、経済システムでは「支払うか支払わないか」だそう

 ずいぶんAI的な、機械的なシステム論ではありますが
 では、ルーマン社会学の要点とはなにか?
 筆者の解説によれば、ルーマンの言葉では「ありそうもなさ」
 筆者の言葉では「偶有性」なのだそう

 なんかこの言葉も分かりにくいけど、
 偶有性とは、筆者によれば
 「必然でも当然でもないこと」
 他の選択もたくさんあり得たのにこの社会ができた、ということ。
 ルーマンは、その奇跡的なあり得なさが今の秩序を作ったんじゃないか、と考えた

 そしてこれを逆に言えば、別のあり得なさがあれば、
 別の社会も生まれただろう、とも考えられる
 ルーマンはこれを「機能構造主義」と自称する
 ある1つの機能要件に対しても、いろんな構造の社会が有りうる、としている

 …この辺いまいち掴みにくいんですが
 勝手に自己組織して作られた社会システムがいくつかあって
 たまたまうまくいったやつが今も残っている。
 そのうまくいったやり方は、人間が意思を持って選んだからそうなったんじゃなくて、
 うまくいったから生き残っている。
 だから、別の形がうまくいっていたら別の社会になっていたかもね…
 という感じで、社会の成立に、
 人間の関与する余地が全く無い、本当に客観的なイメージを受ける。

 また、彼は自分のことを「根源的な構成主義」とものべている
 これは、システムを構成する対象物(個人など)は、
 システムにより認識されて初めて意味をもつ、というもの
 (先ほどのオートポイエーシス・システムにも、
  要素はシステムが自己算出する、とありました)

 これが行き着くと、
 システムはシステムが見たいものだけを見ている、となる。
 すると、各々のシステムからは独立しているような、
 どのシステムにも通用するような、普遍的な真理のようなものなどない、となる。

 これは徹底した相対主義につながり、
 筆者は「ラディカルなアイロニズム」と呼んでいる

 一方でルーマンの立ち位置は、
 自分達のシステムだけに通用する真理や正義を
 普遍的な「真理」「正義」として押し付ける主張から距離をとるあり方、とも言えて
 これはこれでひとつの見識である、とも述べています

ミシェル・フーコー
 フーコールーマンと同世代の人
 筆者の中ではルーマンほどガチガチではないが構造主義の一人、
 という感じですかね。

 フーコーは3つの時期に分けられる
 初期は「エピステーメー」の研究
 エピステーメーとは元はギリシャ語だが、
 フーコーの定義では、ある時代や社会の思考の拠り所となるものを指す

 フーコーの分析によれば
 中世、古典主義、近代で「エピステーメー」が不連続に変化している、とする

 そして、中世のエピステーメーは「類似」、古典主義では「表象」、近代は「人間」だそうです

 これも分かりにくくて、
 「類似」とは事象と言葉(記号)を類似と見なすこと、
 「表象」とは事象と言葉を対応関係で考えること、だそう
 (私には同じに見えるんですが、
  前者は描写、後者の方は抽象化ということだろうか)
 近代では、事象と言葉を繋ぐ存在として「人間」が注目されたとするんだそう

 そして「人間」の時代も終わる、と予言して彼の本は終わっているらしい

 これはサルトルのいう「実存主義」の終わりを意味するそうです
 (「実存主義」はここでは解説されていないですが
  サルトルは人間中心主義の方
  「実存は本質に役立つ」という言葉が有名で
  つまり、人間はまず存在する、生きる目的は自分で探すんだ、といった人)
 人間の意思が強調されてきたが
 その「人間」とはエピステーメーの一つに過ぎない、ということか。

 しかし、そもそもエピステーメーを決めるものは何だ?となるが
 筆者によるとそれは「言説」というもので
 その社会の言葉の使い方、言葉が成り立つ条件みたいなもの、
 そのときの社会の情勢とか人々の考え方などを指すらしい

 つまり、フーコーの指摘では「人間」は近代の思考が生み出したもの、
 という意味合いになってしまう

 (ここで筆者は、このような構造主義の徹底化の問題を指摘しています
  どういうことかというと、
  何かの対象(思想、言葉の概念など)が、
  システム(社会)に観察されることで構成される、とすれば
  そもそもその対象が、
  それぞれのシステムとは関係なく、
  共通して存在していることが前提となる
  (でなければシステムはそれを観察できない)

  それは、その対象がシステム内部で作られる
  という考え方に矛盾してしまう、と。

  …でもまあこれは私の意見ですが、フーコーに関して言えば
  「人間の時代も終わる」という文の「人間」とは
  「近代という社会に作られた、合理的な人間」という概念を意味していたのであって
  人間そのものの消滅、と言っていたわけじゃない、と思う。

  だからこそ、ルーマンみたいにそれを放置するんじゃなくて
  新しい「人間」を作ろうと考えた、
  それが後年の彼の研究だと思う)

 まあともかくそれは置いといて
 フーコーの中期の研究は、
 この言説、つまりエピステーメーを決めるものとしての「権力」を分析するものだったそう

 彼のいう権力とは、
 他人を支配する権力ではなく
 パノプティコン(中央にある監視台)のような規律訓練型の権力だそうです
 監視により個人が規律され、
 個人は社会に従順な主体となり、個人の告白、内面が生まれる

 ルーマンならたぶん、この状態は別にいいんじゃない、となるんだろうけど
 しかしフーコーは、この権力から逃れたいと考えた。
 それが後期の研究で、
 まだ社会システムがなく、
 自ら内省する哲学者たちがいた古代ギリシャ、ローマの研究をしたそうです

 彼は古代の哲学者には
 「自己への配慮」(自己規律的な道徳)があるとし
 最晩年には「パレーシア」という概念にたどり着いた。
 パレーシアとは、真実を語る勇気を持つ、という意味合いのことで、
 「自己への配慮」を究め、
 真理に到達した人が行えるのだそう
 ちなみに真実を語るためには毒殺も受け入れたソクラテスは、
 パレーシアの人だったらしい

 フーコーはここで病死してしまったので
 彼の理論まだ志半ばだったのかもしれないですが、

 筆者はこのフーコー的な権力への抵抗方法をあえて批判しています
 というのは、
 古代の「自己への配慮」とは
 パノプティコンのような規律訓練型の権力がマイルドになっただけの話ではないか、と。

 自己への配慮は自分の心の道徳に従うことだが
 その道徳はパノプティコン的な信仰などにより知らぬ間に作らているかもしれず、
 両者の区別ができない。

 たとえれば、学校の決まりをほどほどに守るか
 真面目にきっちり守るかの違いなのではないか、
 これは擬似的な抵抗に過ぎないのではないか、と。

ルーマンフーコー
 筆者はルーマンフーコーを比較して、
 ルーマンは社会の構造に着目し
 フーコーは主体がどう出現したかに着目した点に違いはあるものの

 混沌とした状況、
 個人では太刀打ちできない状況に
 何か超越的なもの(ルーマンでいうと構造、フーコーなら権力)が秩序を与えた、
 という理論で社会を理解しようとしたのではないか、と述べています

 ちなみに私の意見を書くと
 ルーマンは裕福で官僚から出発した人だったらしいので
 たぶん社会の構造についても、
 客観的に分析するだけだったのだろうと思う。
 しかしフーコーは同性愛者だったこともあり、生きづらさを感じていた人。
 彼の言うエピステーメーに苦しめられた人なので
 そこから何とかしようという理論になったんじゃないか、と思います
 
 筆者はこの弱い個人、強い構造の関係をユダヤ教にもなぞらえているんですが、
 うーん、なんかついてけないので、割愛。

現代社会学
 筆者の見立てでは、ルーマンフーコー以来は骨太の理論は出てきてないらしい

 ポストモダンの理論がざざっと挙げられていたが
 ・ジャン・ボードリヤールの「消費社会論」
 ・ジャン=フランソワ・リオタール「大きな社会の消滅」
 ・ウルリヒ・ベック「リスク社会」
 ・ジグモント・バウマン「リキッドモダニティ」
 ・アントニオ・ネグリマイケル・ハート「帝国」グローバルでトランスナショナルな帝国
 など、歴史全体で社会がどうできたか、というよりも
 現代社会ならではの問題を扱っている人たちが多い印象を受けます。

 そのなかでおや、と思ったのが
 エマニュエル・トッドさん
 彼については割と長めに書いてありました
 彼は人口学者ですが
 家族構造が、価値観や政治イデオロギーを決める、という独自の理論を持っている
 ただ、その場合家族構造が先か、価値観が先かの問題がある、
 と筆者は指摘している

 (私はトッドさんの本を読んだことがあるが
  たしか家族制度は文化の伝播と関係がある、と書いてあったと思う。
  ユーラシア大陸で言えば、辺境地(移動が多い)ところは核家族
  真ん中(昔からいる)ところは共同体家族が多い、とか…
  そして、家族制度に伴う社会の思想は、社会の緩いつながりの中に保たれていて、
  ゾンビのようにその土地に残り続ける、とも言っている)

○思弁的存在論
 社会学以外の今のトレンドとして、
 筆者が挙げているのは哲学の「思弁的存在論
 それをリードする存在として、メイヤスーを挙げています

 思弁的存在論とは、「相関主義」を乗り越えるものなのだそう
 相関主義(形而上学実在論)とは、
 思考とは関係ないような実在、絶対的な真理のようなものを認めない、というもの
 (筆者によれば、ルーマン構造主義はこの極端な例だ、としている)
 自然科学では、人間の考えとは関係なく物理学の法則は存在する、と考えるから
 相関主義とは相いれないことになる

 メイヤスーは相関主義を超えて、実在を見つけようとした
 彼の理論は超難しいので、筆者は結論だけ書いています
 それは、偶有性「他でもありうる」ことだけが
 相関主義から独立した絶対の真理(「実在」)だ、とするもの
 
 ただメイヤスーはこれを証明しきれていないらしい
 (有限な人間には、他もありうるように見えるだけで、
  実際は世の中は必然かもしれない、という感じ)

 ただ、筆者は彼の理論にヒントを得て、
 偶有性とは人間の社会性に由来する必然的なもの、とすれば
 相関主義を乗り越えられるのではないか、とも述べています

 筆者によれば、人間は社会にいて他人と関係を持つ以上、偶有性は必然なんだそう
 というのは、他人が自分だったら別の可能性がありえた、
 自分が他人だったら別の可能性がありえた、
 という二重の偶有性があるから、だそうです

 筆者としては、ルーマン的な根源構造主義(システムに個人が観察されて、初めて認識される)
 はやはり社会学者としては避けたいようです
 というのは、その立場は社会改革なんて幻想だ、となり
 社会を冷めた目で見てしまう。
 社会学者は単なる観察者に過ぎないことになる。
 そこに無力感を感じるのでしょう。
 
 筆者はそのように、社会なんか変わらない、 
 とみて失敗するのを恐れるのではなく、
 現実の偶有性を信じて、新しい社会理論を作るべきだ、
 という言葉でこの本を締めくくっていました

○感想など
・最後に哲学の話が出てきましたが
 去年の年末に哲学者マルクス・ガブリエルさんがやっていた番組
 (https://amagomago.hatenablog.com/entry/2018/12/30/165400?_ga=2.126101060.878900953.1561945588-1318417179.1561945588
 で、筆者の本の後の時代の哲学についても述べられていたので
 併せて紹介したいと思います
 (まあここからはガブリエルさんの見立てですが)

 簡単に言うと、
 構造主義ポスト構造主義新自由主義グローバル化、自由平等→今
 という感じですが

 もうちょい細かく書くと
 構造主義の後、
 ポスト構造主義により構造を揺さぶる動きがあった(デリダなど)
 
 そしてガブリエルさんによると
 戦後のサルトル実存主義ルーマン構造主義ポスト構造主義には
 共通するものがあって、それは「社会など幻想だ」ということ

 その中で我々主体も
 社会という幻想の中の、他者とのコミュニケーションにより作られる鏡像、
 他人により映し出される、実体のない鏡像のようなものだ、と。

 それを利用したのが新自由主義
 新自由主義では広告文化が起き、
 そこでは広告が、「理想の自己像」を消費者に見せ売りつけた
 実体のない主体は、それを追いかけるようになり、見せかけの自分が作られていく

 これは自由主義のダークな面に見えた
 しかしそのあと共産主義国家の崩壊が起き
 「自由、平等、グローバル化」 
 があらゆるものに共通する絶対的な真理だ、となったかのように見えた

 しかしその自由やグローバル化の行きすぎが
 自由なら何をしてもよい、という破壊につながった
 平等はどんな価値観も認める、相対主義につながった、
 すべてをゲームやショウ、商売にするニヒリズムにつながった、
 とガブリエルさんは分析する。

 (それでも絶対的なモラルは存在する、
  それをみんなで話し合っていくべきだ、
  …という感じでこの番組は終わっています。)

社会学の歴史を全体としてみると
 社会を大きな構造、超越的なものとしてとらえ、
 個人の力の及ばないものとして考える見方と
 いやいやそれでも人間が関与する余地はあるでしょ、
 と考える見方とのせめぎあいのようにも見えました。

 古くの時代で言えば、
 資本主義やプロテスタントに、目的合理性だけでなく価値合理性も見出したヴェーバーもそうですし
 お金に宗教を見たマルクスもそうなのかもしれない。

 とはいえ、社会を超越的なものにしているのは
 人間の無意識とか、集団意識というものなんだろう、と私は思います。
 量子物理学では、個人を作る素粒子
 集団意識、他人の意識を作る素粒子と影響しあう、という考え方もあるが
 そういう風に個人が社会になにか見えない影響を与えて
 それが無意識に影響を与え、
 顕在化することがあるのかもしれないと私は思います。

 筆者はそういう
 人間ならではの性質(筆者の言葉で言えば偶有性)
 を理論に組み込もうとしているのかな、と感じました
 
 しかしながらそれって、理論化するのが難しそうですけどね…
 意外性とか偶然性、創造力が人間の特徴で、
 AIと人間を比べたら
 AIのアルゴリズムに沿った動きは理論化できる(というか、できないと彼らは動けない)が
 人間の予測不能な動きは理論化しづらい。
 「意味の社会学」のような細やかな分析はできるが
 社会学全体をまとめるような骨太の理論にはなりにくい気がする…
 
・ガブリエルさんの話も出したので、この本の筆者と比較しますと
 筆者は構造主義による相対主義ニヒリズムを見て
 ガブリエルさんは新自由主義時代の相対主義ニヒリズムを見ていて
 どちらの方も見ている時代は違うかもしれないが、
 「人間が置き去りにされている」危機感はどちらにも通じるのかな、
 と思いました。

 そして、科学者の端くれである私としては
 両者の感じるニヒリズムのもととなる理論
 (筆者の危惧する構造主義は、生物学や数学から
  また、ガブリエルさんは科学は批判してないけど、
  「科学至上主義」科学の世界の真実が世界の真実、とみなすやり方を批判している)
 が自然科学に由来している、というのが見逃せない点です。

 自然科学の世界では
 現象を理解しやすくするために、計算や物質に還元していった、
 つまり複雑怪奇な世界を単純化してしまった。
 それは便宜的に取っている手法なのですが、
 その説明がすっきりしているがゆえに
 社会や、社会の構成員すべてを説明する、
 と思い込まれてしまったところに問題があるのかな、と思います。

 科学者自身も、たぶん最近はそこに限界を感じている部分はあると思う。
 今までの科学的、理論的なアプローチでは、
 世界を説明しきれないところがあるし
 (例えば、AIのアルゴリズムを作ったって人間はそのように動かない、とか)
 科学の理論で正しいからそこまでしていいのか、
 という倫理的な問題が生じることもある。

 科学の世界でも、不確定性原理みたいな、
 揺らぎみたいなのが最近は実験でも証明されているし
 その辺が理論化されれば、
 また社会や哲学の世界でもパラダイムシフトが起きるのかな、とも思いました。

 社会学、哲学はまだまだ知らないことがいっぱいあるので
 興味がわいたときにその都度勉強していきたいと思います。

 それでは、長くなりましたが今回はこの辺で。