びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

「なぜ世界は存在しないのか」マルクス・ガブリエル

「なぜ世界は存在しないのか」

ドイツの若き哲学者、マルクス・ガブリエルさんの本です。
日本では去年話題になっていたようで、
今さらな感じもしますが読んでみました。
彼の提唱する「新しい実在論」について書かれています。

ガブリエルさんはメディアにもよく出ておられて、
刺激的な表現やユーモアを交えた話しぶりが魅力な方ですが、
この本でも、彼独特の言い回しが散りばめられていて、
おお、ガブリエル節炸裂!って感じで、別の意味でも楽しめました(笑)

翻訳の方の腕もあるかもですね…
訳者さん自身は、
自分はガブリエルさんの人柄を知らないので
自分が訳者として適切だったかどうか、
みたいなことを書いているんですけど、
原文が口語体だったので「ですます」調にした、とありまして、
それがガブリエルさんがそのまま話しているかのような雰囲気を出していて、
哲学の本なのにすごく読みやすくなっているなと感じました。

もちろん、ガブリエルさん自身、
哲学が専門でない方にも読んでもらいたいから
極力難しい表現は無くした、とあり、
実際日常的なたとえもたくさん出ているのは大きいと思います。

とはいえやはりドイツの哲学者の本ですので、
長い説明、ここまで緻密かというような論理展開ではあり
ついていくのは少々気力は必要でした(笑)

大まかにいうと
前半は「世界は存在しない」という彼の「新実在論」の説明、
後半はその「新実在論」の立場から、
科学、宗教、芸術、テレビメディアなどをとらえなおしていく、
という感じです。

あとがきの解説にもあったのですが、
哲学本にあるような、
昔の哲学者の思想を解説しつつ、自分の思想を展開する本(大陸系の哲学者に多い気がする)でもなく
実用的な人生論(ラッセルとか三木清みたいな)でもなく

新しいものの見方を提示した上で、
そういう視点でみんなでこれからを考えてみようよ、
という提案みたいな感じの本かなと感じました。

私はガブリエルさんは科学至上主義批判者、
という印象はあったのですが、
ならば彼が科学の代わりに拠り所にすべきと考えるものは何なのよ?
てのがイマイチもやっとしていたのですが

拠り所、というものを考えないで
いろんな価値観を受け入れることから始めよう、
そこから、どんな価値観を残すべきかを議論していこう、
ということかなと感じました。

さて内容です。
前半は章ごとに分けると

新しい実在論/「世界」とは何か/「存在」とは何か/「世界が存在しない」とはどういうことか

後半は
自然科学/宗教/芸術/エンドロール(テレビメディア)

(実際の章の名前はもっと長いですが)

内容を私の理解で書いてみます

形而上学構築主義、新実在論
 最初に、彼の提案する「新実在論」の(思想史上の)位置付けについて書かれていました

 筆者は
 「形而上学」「構築主義」という2つの概念を乗り越えるもの、
 として「新実在論」を考えているようです。

 「形而上学」とは、
 人間の認識とは別に、
 真の世界とか事物というものが存在している、という考え方。
 それぞれが自分の認識で世界を見ているが、
 見えている現実は幻想で、背後に真の事物の姿がある、と考える

 一方「構築主義」とは、
 真なる事物、というものは存在しない、と考える。
 それぞれの人間が認識する様相そのものが
 世界や事物を作っている、と考える。

 形而上学は、人間が見るこの世は幻想で、真実はもっと大きな世界にある、と考え
 構築主義は、真実があると思うなんて幻想だ、と考える。

 筆者によると、形而上学を経て構築主義が生まれているらしく
 (個人的には、形而上学は宗教、構築主義は科学に対応しているのかなという印象)

 形而上学を進めていくうちに
 「本当の事物や世界というものはあるのかもしれないが、
  我々人間にはそれは到底認識できない。
  だから見えている事物が本当なのか、我々は永久に知ることができない」
 とカントあたりから考え始め、

 そこから
 「我々はそれぞれの色眼鏡で、現実に目の前に現れる事物を見ている、それだけだ」
 という構築主義ができた、とのこと。

 さらにポストモダン思想では
 色眼鏡は色々ある、どれも真実だ、という考え方になる。
 これが今の科学主義、相対主義につながっている、と。

 しかし筆者は、どちらも事実や現実を説明できない、とする。
 形而上学は真の現実や事物なるものが、
 人間とは関係なしに存在している、と考えるし
 構築主義は、我々が観察できる世界だけが全てだと考えている。

 しかし実際は、人間が関わらない真実、なんてものはないし
 人間の観察が無くても存在する現実はある、と。
 それが「新実在論」であるようです。

 ポストモダンでは、ニーチェを始め構築主義的な見方をしていたが
 (もちろんポストモダンには、構築主義以外のものもあるが)
 そこには限界がある、
 と20世紀後半くらいから哲学者たちが考え始め、
 
 その流れの1つとして、
 筆者とイタリアの哲学者マウリシオ・フェラーリスさんが提唱したものが
 筆者がこの本で書いている「新実在論」らしい。
 (「新」ということは元祖実在論があるんかな、と思ってウィキで調べたら、
  ギリシャ時代くらいからある考え方なのだそうだ)

〇世界とは、存在とは、世界が存在しないとは
 この本の前半はガブリエルさんの「世界は存在しない」論の説明で
 数学の証明っぽく順を追って書いてあったので
 理系頭の人間としては割と理解しやすかった気がします。
 
 最初に筆者は「世界とは何か」という問いから始めている。
 この問いは、生きる意味とは何か、この世はどうなっているのか、という問いであり
 人間を人間たらしめる問いだ、と筆者は言う。
 
 筆者はこの問いに対して「世界は宇宙ではない」という否定から始めている。
 というのは世界=宇宙、てのは
 科学的世界像が流布されまくっている現代に住む我々が
 つい考えてしまう概念だからで、
 
 筆者は世界=宇宙、という概念は
 物理学、という対象領域の一つに存在するものにすぎない、
 と述べている。つまり世界観の一つに過ぎない、と。
 (ついでに言うと、正しくもないと述べている。
  例えば極端な物理学的な考え方である唯物論
  (全てが物質的なものからできているとする理論)は、
  「そもそも「唯物論」という思想自体がモノじゃないでしょ」と論破している)

 では本当の世界とは何なのか?
 筆者は「世界はあらゆる意味の場の意味の場である」と定義している。

 この話には前座があって、
 昔ウィトゲンシュタイン、という哲学者が
 「世界は事物の総体ではなく、事実の総体」
 と考えたのだそうです
 
 事物、というのはこの世に存在するモノ。
 しかし、事物が無くても「〇〇が無い」という事実は存在する、
 だから事実の総体、という方が正しいんだ、
 とウィトゲンシュタインは考えた。

 しかし筆者は、それだけでは足りない、という。
 事実の総体だけではなく、「意味の場」もあるんだ、と。

 では「意味の場」とは何か?
 筆者はこの前に「対象領域」という言葉も使っているのですが
 どちらも物理学、数、芸術、市役所、国、などのような、
 何かの対象を含むカテゴリーみたいなもの。

 ただ、対象領域、というのはもっと数学的なもので
 「他の対象領域とはっきり区別され、加算的なもの」
 と筆者は表現している。
 「対象領域は、現れてくる対象が何なのかを問わない傾向にある」
 とも書いていて、
 例えば家で考えると、
 「対象領域」なら「7つの部屋の家」と考え(部屋の配置はどうでもいい)
 一方、「意味の場」の場合、7つの部屋の順番が問題となる。
 「意味の場」の場合、属している対象によって意味の場が変わってしまうが、
 対象領域は対象に左右されない、とのことです。

 いまいちもやっとしますが、
 私の印象では、対象領域は数学的で機能的なラベル、という感じ、
 意味の場はもっと広くて、あいまいで個別的、多義的なものも含む。

 そして筆者によると
 事物とか事実(筆者はこれらを「対象」と呼ぶ)は
 意味の場に現れて初めて存在する。
 「意味の場は、存在論的な基本単位」なのだそうです

 では事物や事実がそれ自体では存在せず
 意味の場に現れねば存在できないのはなぜなのか?

 筆者はそれを説明するために、
 意味の場に属する「対象」について、
 以下のことを論証している。
 (この辺、数学の証明くさくてまどろっこしいが…)

 ・全てのあらゆる性質を持つ対象は存在しない
 ・対象を他の全ての対象から区別するような絶対的な区別はない

 …いまいち難しいですが、

 一番目は、
 あらゆる性質を持つ存在(神のように何にもなれる存在)というのは、
 他と自分とを区別する基準を持たないので存在し得ない、と。
 つまり、あらゆる性質を持つもの、というのは、
 自分は他人と違うよ、と示すような個性が無いから存在できない、
 と説明している。

 二番目については、
 「私はAでもない、Bでもない、Cでもない、…」という情報は
 「私」についての何の情報も示していない、としている。
 対象の性質とは、他の対象のいくつかと、ここがこのくらい同じでここがこのくらい違う、
 という相対的な比較でしか理解されない、
 だから、どの対象にも、他のいずれとも違う、という絶対的な区別はありえない
 (ただし相対的な区別、いくつかと違い、いくつかと同じだという性質はある)のだそうだ。

 そして、この二つから、
 何かが現象するためには、その何かを他の対象から際立たせる基準のようなものが必要だが、
 そのような絶対的な区別は対象自身は持っていないことになり、

 対象それ自体では、他と区別されるような性質を持つこと、
 つまり現象すること、
 はできないことになる。

 対象が現象するには
 何かの性質をラベル付けするような領域、意味の場に存在しなければならない。
 対象は、何かの意味を持つ場に属している必要がある。

 (…ここで、「対象は意味の場に現れることで現象する」というのは、
  人間の認識により現象が与えられる、

  とする構築主義となんとなく似ている気もするのだが、
  筆者によるとこれは違うらしい。

  現象することに対して、
  人間の経験は副次的な役割しかない、と。
  対象は人間に経験されるから存在するのでもなく
  我々がいるから現象しているわけでもない、と)

 この「存在は意味の場に現れることで現象する」こと
 つまり事物や事実が存在するには、意味の場が先に存在していることから、
 筆者は世界(全てを含むもの)を
 「すべての意味の場を含む意味の場」と定義している。

 しかし、筆者はこのような「世界」(という意味の場)は存在しない、という。

 どういうことか。
 仮にこの定義の「世界」という意味の場を考えてみる。
 「意味の場」というのは「対象」の1つでもあるので
 先の章で挙げられていた「すべてのあらゆる性質を持つ対象は存在しない」
 という議論から
 他の性質を持つ「意味の場」も、並列して存在することになる

 しかし、「世界」という意味の場とは、あらゆる意味の場を含むものだ、
 という先の「世界」の定義から、
 「世界」という意味の場の中には、他の意味の場がすべて含まれていることになる

 こうなると、「世界」という意味の場の外にも中にも、
 他の意味の場が同時に存在することになってしまう。

 したがって、世界というすべての意味の場を包摂する意味の場は存在しない、
 となるのだそうだ。

 …以上が筆者の言う「世界は存在しない」論のだいたいの説明ですが
 ここから考えられるいくつかの考えを、筆者は述べています

 ・「世界が無い」とは「無限に多い意味の場が存在する」こと
  筆者は「世界が無い」という言葉が与えがちなイメージとして
  「じゃあ、真実なんかない」「世界が無いなら好きなようにすればいい」
  という「近代的なニヒリズム」を挙げている

  しかし筆者はこれを否定する。
  「世界は存在しない」ことは
  「限りなく数多くの意味の場が必然的に存在する」ことにつながる、と。

  なぜかというと(これも数学の証明的な説明なのだが)
  ある対象が存在するとき、その対象が存在する意味の場が存在する
  そして、すべての性質を持つ唯一の意味の場は無い
  (先の「対象」に関する議論から)ので、
  その意味の場とは別の性質を持つ意味の場も、同時に存在することになる

  また、意味の場は対象の一つでもあるので
  それぞれの意味の場が現象する意味の場が外側に存在することになる

  …こうして意味の場は無限に存在する、と。
  全体を説明するような世界なるものはないが、
  いろんな領域の世界がたくさんあるんだよ(後半では「意味の炸裂」と表現している)と。

 ・意味の場は、他の意味の場から切り離れて存在することはない
  筆者は、これら意味の場は、互いに切り離されて存在することはない、という。
  意味の場1はある意味の場2の中に現れ、
  意味の場2は意味の場3の中に現れ、…
  と無限のフラクタル構造をしている、と。

  しかし筆者はこれは完全なフラクタル構造ではない、と。
  フラクタル構造だと、同じ構造の中に小さい同じ構造が無限の入れ子になっているイメージだが、
  意味の場の場合、それぞれの意味の場の性質は全く同じではなく、違いがある、という。

  なぜなら、意味の場とは
  他の意味の場との同一性と個別性を持つからだ、と。
  (「意味の場」も「対象」の1つであり
   前の章での対象についての議論でいう「絶対的な区別はないが相対的な区別はある」
   つまり他のいくつかとは違い、いくつかとは違う、
   という性質を持っている、ということか)

 ・「迷信は存在しない」という事実の矛盾を解決できる
  筆者は意味の場を考えることで
  「魔女は存在しない」という事実の持つ矛盾も解決できる、としている

  「魔女」など迷信的なものはありえないものだが
  「魔女は存在しない」という事実を成立させるためには
   魔女」という存在をまず認めねばならない。
  しかし現実に魔女はいない、という矛盾がある。
  …この場合、「魔女」は「想像」という意味の場にいるのであって
  「宇宙」という意味の場にいるわけではない、と考えることで説明ができる、と。

  つまり科学的世界観が切り捨ててしまうような目に見えない存在も
  この理論ならすくい取ることができるわけです。

  筆者はこの本の前書きで
  「一角獣すら存在する」と書いていて
  最初読んだとき意味が分からなかったんですが、
  「想像」という意味の場に存在する、ということですね。

 ・科学的世界像は間違いである
  この章の終わりに、筆者は科学的世界観だけにとらわれることを戒めている。
  科学的世界像、とは、 
  弦宇宙とか素粒子でできた世界、とかいうのが我々とは別にあって、
  それらが我々の感覚器官に影響を与え
  我々の頭の中に像を作り、我々はそれを現実として認識している、という世界観。
  
  我々は、自分達人間の感覚を越えた大きな世界が外にある、
  と考えがちだと筆者は言う。
  今やそれが、教育や社会制度、マスコミなどにより流布されまくっているので
  我々はそれがほぼ定説であるかのように考えてしまうんだ、と。

  しかし筆者は現実とはそういうもんではないんじゃないか、という。
  世界も現実も、我々の感覚器官を越えたものではない、
  我々が認識できるものなのだ、と。

  我々がものを認識し、日々の生活を経験し、思考しているとき、我々は
  「意味の場を絶え間なく移動している」のだそうです。
  そこには統括する最後の場である「世界」のようなものはなくて、
  「我々は意味の場の連関を見いだしたり、作ったりしていく」
  それが人間の営みで、
  人間や世界とは何なのか、を探求していく歩みなのだ、と。

  世界を理解するには、人間、自分の感覚を置き去りにしてはいけない、と。 
  世界は何か、の答えを科学だけに性急に求めるのは間違いだと述べている。

○自然科学
 筆者はさらに1章を費やして、
 改めて、科学的世界観とは何か、を掘り下げ
 そこから、「新実在論」の意義を説明している

 科学はそもそも、15世紀に地動説が発見され
 この世界は人間や地球中心じゃないとわかり、
 人間の感覚より、
 客観的な科学事実に拠り所を置くようになったことから始まったが

 筆者は、そのような科学のもたらした世界像について
 特徴的な考え方をいくつか挙げ、反論もしている

自然主義
 …世の中には自然のみが存在し、それ以外は偽だという考え方
 自然主義を研究した哲学者のヒラリー・パットナムによると
 自然主義とは、恣意的なものや非合理的なもの(迷信とか聖書の創造説みたいなもの)
 を退ける

 筆者はこの考え方について、もちろん迷信は正しくないが、
 恣意的なものすべてが間違っているわけではない、としている
 例えば政治や経済は、自然的なものではない概念だが
 超自然的だと退けることはできない、と。

 「唯物論的一元論」
 …宇宙を唯一の対象領域とし
 そこには物質的なものだけが存在し、
 それらは自然法則に従っている、とする考え方。

 筆者はこれに対しては、クリプキやパットナムの議論も踏まえつつ
 例えば自分が食べたものが変わって、
 物質的な構成要素が変わったからと言って、その人そのものが別人になるわけじゃない、
 そのように自分を構成するものには、
 物質的な実在とは違う別のものも存在するはずだ、と述べている。
 
 筆者は、自然主義唯物論には限界があり、
 それらの主張者は、自分達の理論に合うような、
 数学的に単純に記述できる世界像だけを選びとっているのではないか、
 と述べている。
 それは、彼らが批判する「恣意的」な考え方そのものなんじゃないか、と。

 これらに対してパットナムは
 「科学的実在論(ガブリエルさんのいう実在論とは違う)」を提唱しているそうなのだが
 その理解を深めるため、筆者は「構築主義」「実在論」「唯名論」を説明している

 「構築主義
  我々は物そのものを見ているのではなく
  我々の感覚器官により構築された世界像だけを見ている、とする考え方。
  例えばイルカは我々とは違う感覚器官を持つので、
  また別の世界像を見ている、と考える。

 「実在論
  我々は物そのものを見ている、と考える考え方。
  実在論そのものは大昔からあり
  これに対立する概念として「唯名論」があったそうです

 「唯名論
  我々は生存するための便宜上、
  物をカテゴリー分けして名付けているに過ぎない、とする考え方。
  この場合、例えばリンゴは、赤かろうが緑だろうが、
  同じリンゴとして区別がつかない構造物として扱われる
  (唯名論は、筆者によれば構築主義の重要な先駆けらしい)

 「科学的実在論
  そしてパットナムのいう「科学的実在論」とは
  実在論を科学の世界に適用した考え方で
  原子や電子とは仮説上の構造などではなく
  原子そのものは物理学という領域においてはたしかに存在しているのだ、とする考え方。

 「新しい実在論
  筆者は、
  パットナムの考え方は物理学以外の領域にもこの考え方は適用できるとし
  「新しい実在論」を提案する。

  筆者の考える新しい実在論とは
  ・我々は、物や事実そのものを認識できる
  ・物や事実は、唯一の対象領域「世界」だけに属するのではない
(こちらの考えは革新的なのだそう) …というもの。

  我々の認識するものすべては何らかの意味の場にあり
  すべて存在している、と。

  科学的な世界観では
  (筆者は「感覚生理学的な構築論」とも呼ぶ)
  「外には粒子でできた世界があって、
   それが我々の脳に働きかけて像を作り、我々はそれを見ている」
  と考える。
  
  筆者はこれについて、脳が見る像が幻想なら脳自体も幻想の産物、
  であればこの世界は幻想だらけになる、とし、
  脳の外にある世界だけが真実だ、という意見にも
  その考え方のみを選ばねばならないのか、と反論する。
  
  彼の新しい実在論では
  物自体はそのもの一つとしてたしかに存在し、
  色んな「意味の場」で多様に現象しているんだ、と考えるんだそうです。
  それは現象と別に物が実在しているわけではなく、
  物そのものも、多様な現象も、共に現実を作っている、と。
  だから我々が認識するものはすべて真、なのだそうです。

  果物かごにあるリンゴについて、カントは
  空間や時間という概念は我々の幻想で、
  リンゴ自体はたしかに外に存在するもの、と考えた。
  しかし筆者はこれに対し、
  空間と時間が我々の中にしかないと考えるのがおかしい、と述べ、
  我々が空間という意味の場を考えているから、
  リンゴは空間から離れて見える、と説明する

 (時空間は幻想ではなく、リンゴと共にたしかに存在している、ということなのだろう)

  筆者はまた、科学的世界観では、
  客観性が求められ、恣意的なものは退けられるが
  新しい実在論はそれらも可能にする、と述べる
  例として主観的述語(「今日は気持ちのいい日だ」というような感情が入った文章)
  サイダーのいう斜用述語
  (黒と白を組み合わせた漢字など、二つの意味を含む言葉遊びみたいなもの)など

 ・構築主義の矛盾
  筆者は構築主義についても論破する。
  構築主義とは、すべては我々の感覚を通じて構築されたもの、という考え方だが
  そのためには、「構築されるもの」に対応する、我々に構築されていないものが
  我々の外に無ければならない。
  でも世界の「すべて」が構築されているんなら、そんなものは外にあるはずがない、
  という矛盾がある、と。
  
 筆者の考え方では
 事実は世界の側だけではなく、我々のような関係していく側にもある、と。
 科学の世界の事実だけを認めるのではなく、
 さまざまな事実を認める態度が大事だ、としている

 では科学以外の世界観、事実に含まれる大事なものとは何か?
 それを宗教、芸術の章で論じている

○宗教の意味
 この章では、筆者は、科学的な世界観はなぜうまくいかないかを踏まえつつ、
 意味の探求としての宗教の重要性を論じている。

 ・宗教信仰から科学信仰へ
  筆者は
  科学的世界観は
  世界から意味を取り去ってしまうので
  (客観性のみが求められ、恣意的なものは退けられるため)
  正しくないが、
  社会的な問題も起こしている、と指摘する。

  それはマックス・ヴェーバーが「脱魔術化」という言葉で説明したそうなのですが

  ヴェーバーは近代の科学的進歩は合理化だ、脱魔術化だ、と言った。
  それは単に人々の生活から魔術が消えて合理的なものになった、ということではなく
  合理化や計算こそが世界を支配できる、
  と人々が信じこむようになったことだ、と。

  それは人々が、魔術や宗教から目が覚めたということではなく
  信仰の対象を、科学や合理性に置き換えただけの話だ、と。
  これにより人々は、
  世界とは、生きる意味とは、というような
  自分達で考えていくべき大事な問いの答えを、
  科学に求めるようになってしまった、と。

  筆者は、何かに
  超越的な力を与えることをフェティシズム、と筆者は呼んでいて、
  このような科学至上主義もフェティシズムの1つの形態だ、と論じている。

 ・宗教の2つの形態
  これを踏まえて宗教には以下の2つの形態がある、と筆者は述べる

  ・フェティシズム
  ・無限なものに対する感性と趣味

  前者は一神教のように、
  1つの世界原理がすべてを支配し、秩序付けると考える。

  後者は字面だけだと分かりにくいですが
  フリードリヒ・シュライアーマッハーという神学者が定義したもので、
  色んな宗教観、宇宙(世界)観、信仰のあり方を認める姿勢、だそうです。

  ここでいう「色んな宗教観」には、
  いわゆる宗教だけではなく無神論的な世界観も含まれていて、
  神を排除するような極端な無神論者もフェティシズムと見なす。

  前者のフェティシズムは、排外的な良くない考え方で、宗教戦争なども起こす。
  これは極端な科学主義や構築主義も同じで、
  例えばニーチェは神は人間だ、宗教は妄想だ、と指摘したが
  その結果、目に見えるものだけが現実だ、
  という構築主義を妄想する過ちを犯してしまった、と筆者は言う。
  また、マルクスは資本主義を一種のフェティシズムだ、と論じていたそうです

  だから宗教の負の面は、
  神そのものが原因ではなく、
  特定の神を絶対だと信じてしまうあり方が問題なのだ、と。

 ・そもそも宗教の始まりとは?
  そこで期待されるのが後者の「開かれた宗教」のあり方で、

  シュライアーマッハーはこのあり方を
  「無限なものに対する感性と趣味」と表現したそうですが
  ここでいう「無限」とは
  我々の理解を越えたものを指すそうです。

  具体的には、
  我々人類が哲学や科学などで昔から問い続けてきた
  「この世界はどうなっているのか」
  「自分とは何か」
  「生きる意味とは何か」
  という答えのない疑問で、

  それは自分とは何だろう、という疑問が出発点になっている。
  この感覚を筆者は「自己との隔たり」と表現していて
  これを最初に感じるのが神との出会いなのだそうです

  そこから宗教が生まれて、
  宗教から形而上学が生まれ、
  形而上学から科学が生まれた。

  いずれも自己探求の歩みの過程である点では同じであり
  やり方は違えど目指すものは同じで、互いに尊重されるべきもの。

 ・自己意識とはなにか
  しかし近代科学はそれに反し、宗教を排除しようとする。
  筆者はなぜそうなってしまったのかを、
  「自己意識」に関する問題として以下のように論じている。

  近代科学では、
  意識とは脳の特定状態、客観的に示せるものとして理解されている。
  自己意識も、自分の思考プロセスに向けられた注意とされる

  ここから我々は、
  意識というスクリーンがあって、
  我々はそのスクリーンを通して「世界」を見ていて、
  スクリーンの中の現実は幻想である、という
  (筆者は「ニューロン構築主義」とも呼ぶ)

  しかし筆者は、
  意識とはそんなに客観的なものでもたしかなものでもない、という。

  というのは、意識とは、何かを見るとか誰か(あるいは自分)のことを考えるなど、
  自分と、自分以外の対象との関係の中でしか成立しない。
  そして、そこには誤解や勘違いなどもあり、たしかなものではない、と。

  それでも我々は現実には、
  本を読んだり人生を経験したりして、何かや自己に意識を向けている。

  筆者によればそれらの行為は
  自分とは何か、自分は何に関係しているのかを探る自己探求の動きなのだと述べる。
  自己探求する意識の動きを「精神」と呼び
  「精神とは、意味との出会いである」と表現する。

  我々の人生は、そうして意味と出会って自己を見つけていく営みなのだが、
  しかし、科学的な世界観では
  それらの大切な意識の動きは、
  ただのスクリーンに映る幻想だとか、無意味な行為と切り捨てられてしまう、と。

 ・キルケゴールの議論
  我々の精神(自己探求する意識の動き)に関連して
  キルケゴールの議論が紹介されている
  (キルケゴール実存主義者、人間の実存とは何かを探求した方だそう)

  筆者によれば、
  自己探求(「精神」)とは人間特有の行為で、
  動物は考えはするが、自己探求はしない。
  つまり動物は意識は持つが、精神は持たないらしい

  そしてキルケゴールは、
  精神を持つ人間特有の病いとして3つの絶望を挙げている

  ・自己を持っていることを意識していない絶望
  ・絶望しつつ自己であろうとしていない絶望
  ・絶望しつつ自己であろうとする絶望

  …なんだか分かりにくいですが
  1番目は自己探求している自分を自覚していない状態、
  つまり自分が自己探求の歩みにあるんだ、という自信を持てなくなっちゃっている状態、
  2番目は1番目の状態のまま、
  本来の自分から目を背け、何か別者になろうとする状態、
  3番目は1番目の状態のまま、
  本来の自分でないのに、自分はこうだとあろうとする状態、
  ということかなと思います

  筆者は、この絶望の話でキルケゴールが示しているのは、
  精神は精神自身と関係すること
  精神は可変的であること、
  だと書いています。

  つまり自己探求とは自分との関係を考えること、
  自分とは何かを考えていくことだということ、
  それから自己探求している最中でも、
  自己はどんどん変わる、進歩もするし退歩もする、ということ。
  自己探求から外れてしまう場合もある、それが絶望だ、と。

  キルケゴールは、自己探求の果てに神に出会うとは
  「すべてが可能であるという事実のこと」としていて、
  筆者はこれを実存の世界での現象で言うと
  「自己が拠り所だと思っていたものを失って、多様なあり方を受け入れるとき」
  だと解説しています。

  自己探求していくなかで、
  自分の信念とか宗教とかにとらわれないものの見方ができるようになったとき
  初めて人は「神に出会う」。
  仏教でいう涅槃、みたいな状態になる、ということか。

 ・宗教の役割
  …でまあこの長い議論の中で、結局、宗教って何なのかというと、
   自己探求の歩みの1つだということ。
  自分との関係を考える営みだということ。

  筆者は、すべてをとりまとめる存在という意味の神は存在しない、と言いつつ
  (なぜなら、全体という意味の世界は存在しないから)

  しかしそれでも(いわゆる一神教的な)神は否定しない。
  特定の意味の場において存在する、とする。
  それらの神は、自己探求の過程で必要なもの、
  という意味合いで受け入れられうる、と。

  一方、科学は人間なしの世界を相手にしているので、
  自己探求の歩みから人を離してしまう恐れがある。
  しかしこれは科学が悪いのではなく、
  別の役割
  (病気を治すとか、生活を便利にするとかの実用上の利点)
  を持つ科学に、
  人生や世界の意味を説明させようとする非科学的な態度が問題なのだ、と述べる。

  筆者は宗教の役割を
  「神は存在しないという洞察、
   つまり神は、私たちの人生の意味を保証してくれる対象(ないし超対象)ではない、
   という洞察にこそ、宗教の意味は存在する」
  という逆説的な表現もしている。

  つまり唯一無二の(排他的な)絶対的なものはない、すべてを受け入れることだ、
  と悟らせてくれるのが宗教だということか。

 筆者は人間は自己探求の歩みを
 宗教→形而上学→科学と積み重ねてきた、とする。
 宗教から科学へ変わっていくプロセスで起きているのは、
 宗教の解体ではなく自由の理解の拡大だ、と。

 宗教の役割とは「人間を考え、意味の連関の中での人間の位置づけを考えること」
 たとも述べています。世界から人間を切り離すものではなく、その逆なのだと。

 「世界は存在しない」を論じた章の中で
 我々は意味の場を行ったり来たりしている、
 そうして意味の連関を創り出している、
 と筆者は書いていたが
 その営すべての中で、我々は自分とは、世界とはの答えを見出そうとしているのですね。
 宗教はその一助となるのだろうと思います。

○芸術について
 いきなりなぜ芸術?と思ったのですが
 筆者によれば、芸術は自分の理論を最もうまく証明してくれるもの、なんだそうです
 芸術とは、自然科学的な方法は全く別のやり方で世界を理解させてくれる、
 というようなことを述べています。

 芸術といっても、音楽、詩、ユーモアなども含めた広い意味のもので、
 これも興味深い話でした。

 ・芸術の意味とは
  筆者は、
  「芸術の意味とは
   我々を意味に直面させてくれること」と述べている。

  …いきなり難しいですが、
  普段なにかの対象を見るとき
  我々は対象そのものに注目してしまう。
  本当は対象には必ず現象する意味の場があるが
  そこには気づかないことが多い、と。

  しかし芸術では、対象(作品)を見る過程が可視化される
  (例えば時代背景を考えるとか、誰かと解釈を論じるなど)
  ので、対象が現象する意味の場があらわになるのだそう

  このことにより、
  対象とは何らかの意味の場の中でないと現象しない、
  ということも示すのだそうです

 ・フレーゲの概念と意味の場
  ここで筆者は論理学者、数学者のゴットロープ・フレーゲの概念を使って
  意味の場を説明している。
  フレーゲは以下の3つの概念を考えたそうです

  「意味(ジン)」…対象に与えられた名前、「意味の与えられ方」
   具体的には、○○山、という名前そのもの
   (色んな人が同じ山を違ったように思い浮かべるが、それらは関係ない)

  「意義(ベドイトウング)」…表現が結び付いた対象そのもの
   具体的には、現実にそびえ立つ○○山

  「照らされ方」…意味の違いではなく、意味の与えられ方の違い
   具体的には、~さんの見る○○山、それぞれがイメージする山

  これらの表現を借りると
  筆者のいう意味の場とは、
  「照らされ方」の違いで存在するそれぞれの意味の場を指すそうです

  「照らされ方」という概念の導入により
  それぞれの視点の○○山、てのは単なる視点の違いによる幻想ではなく、
  それぞれが、特定の意味の場に存在するものになる、という。

  芸術の解釈も、それぞれの意味の場にたしかに存在する、ということになる。
  筆者がここで強調するのは、
  いずれの視点から見る山も客観的だ、というもの。
  普通芸術の解釈は主観的だと思われがちだが
  筆者は様々な解釈は、いずれも客観的なものだ、としている

 ・旅行も哲学も意味との直面
  芸術と同じく、哲学や旅行なども意味に直面させてくれる
  哲学者は、常に対象よりも対象の現象する場を考えるし、
  旅行(いわゆるパック旅行ではなく気ままな旅行)では
  我々は馴染みのない物事に触れ、驚きを体験する。

  その時、我々は突然普段とは全く違う意味の場に身を放り出され、
  その意味の場を探求する状態に置かれる、と。
  (そういえば三木清も、旅は非日常の世界、と書いていたが、似たようなものか)

  芸術も思いもよらない表現をすることで、
  我々にとって自明である概念を覆し、
  日常から違った角度で対象を照らさせてくれるそうです
  (例として、違和感のある表記方法の散文詩が示されていましたが
   実際見てみると、視覚的にも詩の不気味さを感じさせるものでした)

 ・芸術に描かれる虚構と現実
  筆者は、芸術作品に描かれるものは真実なのか、という議論も書いている。
  結論から言うと、芸術作品には客観的な意味での現実だけがあるのではなく、
  虚構も現実も、明確に区別することなく描かれている。

  しかし、我々の実際の人生こそが虚構と現実の入り交じったもので、
  例えば我々は他人の視点や過去未来を「想像」している。
  そのような、現実と想像の入り交じった、
  多様な視点を提供すること自体が芸術の役割だ、としている。

 ・自然主義の時代における芸術の役割
  次に筆者は、現代の自然主義の時代における芸術の意味を論じている。

  筆者は、芸術とは科学が分析するような
  「神経を刺激する特定の様式」ではなく、
  無意識を解放してくれるもの、
  思考の抑圧を解放するもの、
  と述べている

  ここで参考にしているのは
  精神分析で有名なフロイト
  「機知(ウィット)」に関する分析で、

  彼は無意識は何気ない音声の連なりに現れる、と考えていて
  (例えば精神病の患者が何となく気になる言葉は、
   その病の原因となる過去の記憶に関係していて、
   その記憶が無意識に埋め込まれている
   だから「なんとなく」その音が気に障る、など)

  機知についても
  言葉の「心的アクセント」を転移する、
  つまり言葉から無意識的に他人に何かを連想させ、笑わせることができる、
  と述べているらしい

  フロイトは、
  無意識は通常の合理的な論理では従わない、とも述べている

  つまり機知は、論理的でないやり方で我々の無意識を明らかにし、
  我々は明らかになった無意識を客観視することでクスッと笑ってしまう、
  そうして抑圧された無意識を解放する、ということですね。

  筆者によれば、
  ユーモアも思考の呪縛から私たちを解放してくれるもので、
  その結果、我々は先入観、
  つまり硬直した意味の場を問い直すことができる、としている。

  何でも論理的に説明したがるこの自然科学の時代にこそ
  この非論理的な役割な機知、ユーモア(日本でいうお笑い?)
  が重要になるのかもしれない。

 ・芸術作品の解釈
  筆者は、芸術作品の解釈がもたらすものを示す例の1つに
  マレーヴィチの「黒の正方形」という絵を取り上げている

  この絵は(私は見たことがないが)対象のない抽象画とされていて
  一応黒い四角が主役、みたいに描かれているそうですが、
  見ている人は、鮮やかな背景にも注目するようになる
  それは見る人の意識のなかで
  背景と前景の転換を引き起こすのだそうです

  そしてその次に、見る人は作品だけではなく
  作品を見ている自分と、その背景である「世界」を意識するようになる。
  しかし、自分と世界を反転させても、前に出る実体としての「世界」は無い。
  そこで、この作品を見る人は、
  我々の現実には世界は存在しない、と理解できるのだそうです

  マレーヴィチ自身も
  「仮に我々に世界が理解できれば、
   世界にはなにも存在しなくなり
   そもそも人間が、世界についての表象を形作る必要はなくなるだろう」
  と述べていて
  彼も、すべてを理解できる世界が存在するのは幻想だ、
  (そうなると、人間とか、人間が作り出すものは必要なくなってしまう)
  と伝える意図があったと思われる。

  筆者は
  我々は「世界」は存在しているはず、
  そこにすべてを統合せねばならない、
  という強迫的な観念があるが
  この芸術はそこから我々を解放してくれる、ということを述べている

 ・芸術の役割
  このような
  「すべてを包む世界にすべてを統合せねばならない」強迫観念からの解放、
  というテーマは他の芸術作品にも見られるそうで、

  筆者はそこに芸術の役割がある、と考える。
  社会は一枚岩ではない、
  すべての人は平等ではない、文化にも違いはある、と。
  ほかの人は違う考えを持ち、別の生き方をしているということを受け入れることが
  「すべてを包摂しないといけない」という強迫を克服する第一歩だ、と。

  民主主義の意義も素晴らしさもそこにあって、
  物事に対する様々な見方がみな平等に尊重されている、と。

 ・すべての見方が真ではない
  ただし筆者は相対主義との混同を警戒していて
  「だからといって、すべての見方が等しく容認されるわけではない
   すべての見方が等しく真であることになるはずもない」
  ということも強調する。
  
  実際、差別主義者の思想とか、テロリストの思想など
  明らかに容認できないものも世の中にはある。

  だからこそ議論し
  どの道なら進めるか、やめるかを決めるのだ、と。

 ・見方(パースペクティヴ)は客観的
  さきほどの「芸術解釈は主観的」という意見と同じく、
  見方(パースペクティヴ)も客観的、という議論を再度していました

  彼の理論では、
  それぞれの見方はそれぞれの意味の場には存在する、
  それはすべて客観的なのだよ、と。
 
  筆者は
  「我々は、それらの多くの意味の場に投げ込まれ
   そのなかを行き来している」
  「同時に他の人と、様々な意味の場を共有している」
  「我々は無限に多くの意味の場の中を、共に生きながら
   意味の場を理解できるものにしていく」
  と表現していて、

  我々は色んな見方をしているなかで、
  色んな意味の場を行ったり来たりしていて、
  同時に他人と違う意味の場にいて、
  でも議論したり表現したりすることで共有しあい、
  理解しあっていくということかなと思いました

○テレビジョン
 筆者は、人間は生物学的に視覚に依存している存在で、
 それゆえテレビは必然的に、
 人間にとって影響的なメディアとなっている、と述べている

 このうち時代の感覚を的確に表現しているテレビドラマは彼の興味の対象のようで
 そこに1章を割いていました

 ・となりのサインフェルド
  ここでは、悲観的になりたがる哲学や映画と違い、
  我々の生を喜劇的に描く挑戦として
  「となりのサインフェルド
  というショウを取り上げている

  これはガブリエルさんの番組でも紹介されていたんですが
  暇なニューヨーカーたちが
  自分達のたわいもない日常をネタにしたコメディショウを撮影する、
  という設定のショウドラマ

  見ていて全く面白さが分からんかったが(笑)

  筆者によるとこのドラマが意味するものは
  形而上学がいう
  「生きる世界の背後に真の意味があるはず」
  というテーゼに抵抗すること、
  つまり真の意味なんかないでしょ、ということらしい。

  しかし筆者によれば意味のないものは存在しなくて、
  一切のものの意味はこのドラマ自身の中に示されている、と。
  (筆者風に言うなら、このドラマという意味の場に存在する、ということか)

  さらにこのドラマは、
  「となりのサインフェルド」制作者をテーマにした新シーズンドラマ
  「ラリーのミッドライフ★クライシス」があるそうです

  そこでは「となりのサインフェルド」制作者が主人公になっていて、
  「サインフェルド」の続編を撮影することで、
  別れた妻とヨリを戻そうとするストーリー

  筆者によれば、この続編が示すものは
  我々は自分の運命を作っているということ、
  なのだそうだ

  サインフェルドの世界では
  サインフェルドの登場人物の自己関係性だけが描かれている。
  しかし続編では、意味の場が社会的空間に広がっていて
  サインフェルドの登場人物たちの「自己関係性」が相対化されて、
  それぞれの人たちが関わりあって折り合っていく社会の場が舞台になっている、と。

  筆者はサインフェルドの世界では自己関係性を笑ってるだけで、
  それは絶望的な笑いでしかない、と表現している。

  しかし「ラリー」の話で試みられているのは
  他人と関わり合いながら生きる我々の人生において、
  自分の人生を社会の中で相対化し、笑い飛ばすこと、なのだそう

  つまり、サインフェルドでは近代的ニヒリズム的な笑いだが
  ラリーではニヒリズムに陥ってる自分に気づき、
  そんな自分に距離をおいて笑い飛ばす、ということか。

  筆者は、テレビがいつでも近代的ニヒリズムを笑い飛ばしてくれるわけではないけれど、
  単なる娯楽や大衆操作だけではない意義を持つ、と述べている

 ・意味の場と感覚
  しめくくりとして、筆者は
  「意味の場は我々の感覚にどう関わっていくのか。
   そのことで、人生に意味があるのかないのかが解明されるのか」
  という問いを投げ掛ける。

  これは「感覚は客観的」という議論と通じるのだが
  感覚とは単に我々が感じる五感ではなく
  「実在性や意味の場に通じる通路」

  感覚は主観的ではなく、むしろ客観的なもので
  我々が感覚を通じて何かを認識するとき
  感覚は我々の外に実在している、と筆者は表現する。

  感覚自身が意味の場や対象を作り出し、
  感覚を越えて広がっていくのだそうだ

  電車に乗る人々を見るとき
  人々や電車は我々の心的表象ではなく
  現実にたしかに存在している。
  それらの人々や電車は、
  我々の視覚と関係することで意味の場に現象している、と。

  筆者は、我々が認識するものは
  「「無限」から切り取った断片」だと表現する。

  「無限」とはいわゆる「世界」のような、1つの全体や超対象ではなく
  「果てしない意味の炸裂」

  我々が見るもの聞くものは、
  別の角度から見れば違った存在として認識される。
  それは現実に起きることで、
  それは対象が無限に多くの意味の場に同時に現象できることを示している、と筆者は言う。
  逆に言えば、何物も無限に多くのあり方でしか存在しえない、とも言う。

  そしてテレビや映画は
  そのような多様な視点を提供してくれるのだそうです。
  というのは、それぞれの登場人物からの見方を同時に見ることができ、
  それにより1つの状況に対して異なる複数の見方が見られるから、と。
  それにより、
  「すべてを統括するような世界が存在する」
  という幻想から我々を解放してくれる、と。

 ・存在の意味、生きる意味
  筆者は、
  新しい実在論が「存在の意味とは」への私の答えだ、と書いている。

  「すべてを包摂するような全体は存在しない」と考えることで、
  どんなものも、何らかの意味の場に存在させることができる。

  そして人生の意味とは、生きるということの中にある、と筆者は言う。
  我々は生きることで、無限の意味に参与し、
  また新たな意味の連関を作り出していく

  その中で、我々がすべきことは、
  存在論的状況(自分の認識しているものがどの意味の場にあるのか)を明らかにすること。
  なぜかというと、人間の精神は常に変化するものだから、と。

  その上で、すべてを包摂するもの(世界)は無いという前提で、
  現存するあらゆる意味の場を、先入観なしに創造的に理解し
  他の人とも共有し話し合い、
  何を維持して何を変えるべきか判断していくことだ、
  と筆者は主張する。

  生きていくなかでは辛い経験もたくさんある、
  しかしそれらは
  人間という存在を考え直し、
  倫理的に向上させるきっかけとしていくことが大事だ、と。

  我々はそのような、世界や自分についての探求の旅路の途上にあるのだ、
  というような言葉で終わっていました。

○感想など
・筆者の話の中では
 「感覚は主観的なものではなく客観」
 というのが今一つすとんと来ませんでした。

 このことに関して、別のインタビューで詳しく語っておられたので
 もう一度確認してみたいと思います。

 それによると、
  事物への様々な見方は、
  事物そのものに備わる性質で、既に存在している。
  我々がその事物を認識するときには、
  既に存在しているそれらの見方を試すだけだ、
 という説明をされていました。

 見方が客観的、というのは
 見方が他の人に説明可能だからなのだそうだ。

 普通は唯一客観的な事物があり、
 それぞれの主観の関与があって色んな見方になる
 と考えるが
 (例えば、リンゴがあって、
  見る人のいる位置によって見え方が違うのは、
  見る人の主観的な感覚のせいだ、と考えること。
  こちらの方が経験的にもしっくり来るのだが)

 彼の場合、そもそも唯一客観的な事物はないと考え、
 色んな見え方を、事物の客観的な性質と考える。
 つまり様々な見え方を産み出す人々の感覚は、
 事物に属する客観的な性質を作っている、と。
 (リンゴの様々な見え方は、すべてリンゴに備わっている性質だ、と)

 別のインタビューではこのことを
 「感覚は、無観点的な本質が住まう、
  ある種の彼方からやってくる情報をフィルタリングしているのではなく
  むしろ向こう側にある」
 「感覚は頭のなかだけにあるわけではない」
 と表現していました

 うーん、そうなると感覚ってのは、
 我々が物を認識して感覚を意識する前に、既に物に属して存在しているのか?

 と思ったのだが
 いやいやそれは感覚イコール顕在意識的なもの、と考えたがる、
 科学的な世界観に私が毒されてるのか。

 たぶん彼が言いたいのは
 我々人間の感覚や意識も、世の中を作っている構造の一部だということ、
 その構造は唯一無二のものではなくいろんな姿があること、
 唯一の構造が外にあってそれを人間が認識してるわけじゃないということかな、と。

 ざっくりいうと、人間の感覚と事物との絡み合いがこの世の中を作り出しているのかな、と。

 人間は、経験、感覚、思考などしている間にも事物に働きかけて、
 それが事物の性質も作り、
 事物が存在する意味の場も作り、
 1つの事物にも色んな意味の場が関わって、
 意味の場どうしが関わってまた新しい意味の場を作って、
 …というような絶え間ない世界の創造が起きているのがこの世の中なのかな、と。

 私自身は、人間には肉体的な制約がある、と今まで考えていて、
 肉体があるから光の速度より速く進めなくて
 だからそういう光を越えた粒子なども(実際にあったとしても)見えないんだ、
 という考え方
 (だから、違う肉体を持つ宇宙人がいるとしたらそういう粒子などはあるはず)
 だったのですが

 ガブリエルさんの実在論からいうと、
 そういう目に見えない粒子などのような、我々の世界の外にある事象、
 というのは存在しない(全体の世界は存在しないから)

 例えがいいのかは分からんけど
 これは現世主義と似てるのかなと感じました。
 前世とか来世とか信じる人はいますが
 私はそれらはあるかもしれんけど、
 どっちみち現世の自分には認識できないものだから、無いと見なして生きよう、というスタンス。

 ガブリエルさんの世界に対する考え方も、
 我々の感覚と事物との絡みあいがこの世の中そのものなんだから
 目に見えない(人間の肉体では追い付けない)世界を考えるのはナンセンス、
 ということなのかな、と感じました。

・最初の「世界は存在しない」の理論の話では
 「意味の場」とは現実世界で何を指すのか。
 見えるものなのか何なのか。
 ていうかぶっちゃけこの理論何の役に立つんか(スミマセン)
 と思っていたが、

 読み進めるうちに
 「場」という概念はうまくできているなと思いました

 1つは現実の世界では白黒はっきりしてないことが多いけど
 それを場の重なりあいや、場の連関の創造、という概念でうまく説明できるのかな、と。

 例えば私とあなたの考え方は、
 大体同じなんだけどどこか違う、というのは
 あなたと私の○○に与えている意味の場は、
 一部重なってるが一部ずれてる、
 という風に理解できるし

 同じ人でも意見が変わるときもあるが
 普通は今日と明日でガラリと変わることは無い。
 それは場の連関が創造されていくということで説明できるのかなと。

 もう1つは、場の理論で考えると、どんなものも存在が許されるということ、
 これは救いがあると感じました

 どんな考え方も
 「何かの意味の場にはたしかに存在している」
 と認めれば、いったんは受け入れられる。

 どんな考え方もいったん受け入れる、というのは
 他人と話し合って分かり合うためにも必要だし
 新しい発見をするためにも必要で
 それは科学の世界でも同じだなと思います

・自然科学の章の
 ニューロン構築主義自然主義については
 若干こじつけ臭さも感じました…(笑)

 科学者自身は、そこまでゴリゴリに合理的に考えていないんじゃないかなぁ。
 便宜上こういう理論を使ってるんだよ、みたいな割りきりがあると思う。

 というのは実際に実験とか観測とかしていると
 どうしてもキチキチにはいかないところがあるのよね。
 そして、そこにまた自然の面白さ、神秘さを科学者たちは感じているんじゃないかなぁと。

 でも哲学や社会的な場所では
 たしかに我々は科学的な世界観にすっかり毒されてるなぁと思う。

 世界(宇宙)が外にあって人間の脳がそれを見てる、てのは教科書にも載ってるし、
 それだけじゃなくて、もっと思想深くにそういう価値観が染み付いてて、
 そのなれの果てが評価サイトとか行動経済学とかコスパ重視社会などになっているのかな、
 と思いました
 (もちろん、合理化するのはそれなりに利点もあるので、
  そんな社会が悪いと言いたいわけではないのですよ)

・宗教の章と最後の生きる意味のくだりが、個人的には一番グッと来ました。
 ていうか私の中ではガブリエルさんって、クールなリアリストのイメージだったので
 生きる意味とか人生の本質はみたいな、
 宗教やスピリチュアルが扱うようなことをおっしゃるのが意外だったかも(笑)

 私自身は興味を持ったことを調べたり勉強したりしたい人間だが、
 これって何の役に立つのかとも思ったり、
 なぜ好奇心を持つのかなと考えたりもしてました。
 でも知りたいのは人間としては当たり前の欲求なんだなと感じて
 ちょっと安心したというか。

 そしてそれに続く
 「開かれた宗教観」
 のくだりもいいなと思いました

 私はスピリチュアル的なことを探求するのは好きですが
 いわゆるゴリゴリの宗教はあんまり好きじゃなくて、

 それは宗教って、その宗教の世界がその中にできていて、それ以外は認めない、
 みたいなところがあるなと思うのです。

 私は昔、新興宗教に入れられそうになったとき
 そこの信者と
 「あなたの宗教を信じなくても、幸せな人は世の中にいっぱいいるじゃないか」
 という議論をしたことがあったのだが
 どの宗教に対してもそれは思う。

 だから、どの世界観もどの信仰のあり方も認める姿勢というのは素晴らしい。
 もはやそれって宗教じゃなくて悟りの境地かな、とも思う。
 どの宗教も、たぶん道は違うが目指すところはだいたい同じで
 そのだいたい同じ境地が「開かれた宗教」のあり方なのかなと感じました。

・それから、芸術を扱われたのも意外だったのだが(笑)
 哲学的な視点で見てみたら見えるものが違うんだな、と勉強になりました。

 絵だけじゃ無くて映画、小説、文学、
 お笑いのネタ、何気ないコマーシャルとか、
 メタファーやナンセンスさや非論理的さこそが、
 無意識に訴えかけたりする、というのが興味深い。

 お笑い芸人さんでも
 ズレとか崩れたところを指摘して笑いをとる、という場合があるけど
 それはズレ過ぎても理解されない。
 その時の事件とか世論とかのギリギリをネタにする方が笑えたりする。
 そこには、聞く人たちの意識との共同作業があるのかな、と。
 一流の芸人さんは、そこを割と感覚的に計算して(若干矛盾した言葉だが)やってるような気がする。

 今後は、芸術や映画やお笑いなどを見るときに
 どんな時代の空気を切り取ってるのかなとか
 自分の意識のどこの急所を突いてるのかな
 とかいう視点でも見てみようかなと思いました。

・この新しい実在論はAIの登場でどうなるのかなとも思いました。
 ガブリエルさんは昔、アンドロイド研究者の石黒浩さんとの対談で
 人間を模した機械としてのAIを強く否定していましたが

 今回の本を読むと
 人間だけがなぜ生きるか、この世界はどうなっているのか知りたがる、とある。
 たしかにAIは電源切れたら終わりだし
 たぶん生きるという認識も無いだろうから悩むこともないだろう。
 たぶん人間の悩みは、
 動物的なもの、例えば寿命があるとか、
 感情(特に恐怖)があるとかいうのに絡んでいて
 そのように怖がらない、悩まないAIが哲学を考えられるのかという疑問はあると思う。

 しかしながらAIテクノロジーは非常にパワフルなので
 人間の意識に働きかけて、
 また新しい世界、意味の場をたくさん作っていく、というのはあるのかなと感じました。

 全体的に、文章から温かさというか
 ガブリエルさんは本当に人間が好きなんだな、という印象を受けました。
 世界から人間を置き去りにちゃいけない、
 と何度も書かれていることにもそれは現れている。

 新実在論が、相対主義と混同されることにも何度も釘を指していて
 「世界はたくさんだけど、何でもいいってわけじゃないよ」
 「そこはみんなで話し合おう」
 としていて、

 でも実現の仕方などはまだもやっとしているし

 あと彼の世界観と科学的な宇宙観とで隔たりがありすぎて
 現実にどう擦り合わせていくのかなぁ、
 科学者、経済学者、将棋の羽生さんみたいな人とか哲学的なコメディアンとか、異分野の方との対談も見てみたいなと思いました。

というわけで、長くなりましたがこの辺で。