びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

「現代の死に方 医療の最前線から」シェイマス・オウマハニー

「現代の死に方 医療の最前線から」シェイマス・オウマハニー

…なかなか重たい本です。
筆者は消化器系が専門のお医者さん。
同時に総合医としていろんな方々の臨終に立ち会っており
その経験を踏まえ、
現代の死に方について意見を書かれている本です。

少し前に、女優の樹木希林さんが亡くなられました。
もともとこの女優さん、自然体なところがありましたが、
最期の迎え方も彼女らしいものでした。

彼女は何年も前から
「私は全身ガンなんですよ」
とさらっと言っていて
それを悲しむでもなく闘うでもなく、飄々としておられた。
そして最期の数か月は自分の死期を悟り、
仕事を断ち、ターミナルケアを受けて亡くなられた。

その様子はドキュメンタリーにもなっていて
私はそのとき
「ああ、こういう人生のしまい方ができるのはうらやましいなあ」と思ったのです。
しかしながら現代は、なかなかそういうしまい方をするのは難しいんだな、
とこの本を読んで思いました。

筆者も全体的に、
希林さんのような
「死を受け入れ、静かに最期を迎える」
というあり方を潔いとしていて、
過剰な終末医療に対しては批判的な意見を書いています。

たぶん、今元気な人たちの大半も、
たくさんのチューブにつながれて死ぬのは嫌だな、と何となく考えていると思う。
でも現実では、大半の人は最後まで治ると信じ、治療を繰り返し
自分の体を傷つけ、苦しんで亡くなってしまう…

私はその原因は、
今の医薬業界がお金もうけのために医療を勧めるからなのかな、
と単純に思っていたのだが

医者である筆者に言わせれば、
それは患者やその家族が治療を求めるからだ、という。
そして医薬業界もその希望におもねるだけの存在、
ただのサービス産業になってしまった、と。
利用者にも社会にもその責任がある、ということなんですね…

そしてその根本の原因として、
「現代人が死を直視しなくなった」ことがあるそうです
死を怖がり、タブー化し、
死をもたらす病気はやっつけられるべきもの、と考える。
個人は生きている間に死のことを考えず、
いざとなったら現場の医者任せにする。

我々は「病気が医者がなんとか治してくれるはず」
という思い込みが前提としてあるがゆえに、
いざとなると、できる限りの治療を望んでしまう。
結果、最期まで無理やりな治療を行い、苦しみながら死んでいく。

医者が患者の希望におもねるしかないのは
いざとなると、
我々の「生きたい」という生存本能は思ったより強く、
家族が「生きていてほしい」という願いも強く、
医者が何も手を施さなければ「何もしなかった」と訴えられる、ということがあるようです

かといって、生前に治療を控えてくれと言い残せばいいのかと言えば
筆者はそれは違うと考える。
生前に「こうなったら治療しないで」「治療を続けて」
と書いておくリビング・ウィルは揉め事の種となる、と批判的。
もちろん、死ぬ時期を自分で選ぼうとする自殺や自殺幇助についても批判的。
寿命を伸ばそうとする試みについても批判的です。
「いずれも無駄である、死をコントロールできると思うのは幻想だ」と。

結局、死を日常から直視し、
ある程度は寿命だと諦念し、
そういうことを家族とも話し合っておくことが大事なのかな…と思う。

書いている内容は賛否両論はあると思います。
しかしながらそれは筆者が真摯にこの問題に向き合っているからこそであろう、
と思うし、
また、「故人の名誉を傷つけないように書くのは難しいが…」などの表現、
なかなか理想通りにはいかないよね、みたいな書きぶりも随所に見られて
筆者の優しさ、温かさも感じました。

というわけで、内容について印象に残ったところを挙げてみます。

〇現代人がなぜ死を直視できないのか
 筆者は「現代人にとっては「死は隠されたもの」」という表現をしています

 これは、中世ヨーロッパなどでは死は公共的で開放だった
 というのと対を成している。
 かつて死は、公共体で宗教的な儀式をなされるものだった。
 それに対して現代は「個人的で隠されたもの」になっている

 なぜ死は隠されたのか、は、1960年代から研究されているそうで
 それらを紹介することで理由を考察していますが

 だいたいまとめると
 ・工業化、都市化
 ・宗教の喪失
 ・共同体、絆の喪失

 があり、これらの結果、死は非日常的なもの、孤独なものとなってしまった。
 だから個人でなんとかしなきゃいけないのだが、
 個人が心のよりどころとする伝統的な信仰も消えてしまったので
 死は恐ろしいものとして隠されるようになった、と。

 この中で、イヴァン・イリイチさんという方の意見が一番強烈だったんですが
 (この方は神父、歴史学者、哲学者)

 彼は近代に「死の医療化」が起きた、と主張している
 医療技術の発達により、
 現代医学は病や死を征服できる、と傲慢に考えるようになった、と。その結果、

 ・個人は死を受け入れる苦痛や恐怖を放棄し、医学界にゆだねるようになった。
 ・個人は、お葬式などの伝統的な儀式を軽視するようになった。
 ・個人も、患者であることを拒否すると、社会からの逸脱者とみなされるようになった。

 つまり、医学が生き死にをコントロールしてくれるから、個人はそれに任せるようになり
 次第にその支配体制に従わないとおかしいような社会になっちゃった、ということか。

 ちなみにこの方は、医療界が権威的になったから
 みんながそれに従わざるを得ない思考、社会になったんだ、
 みたいな感じの論理展開なんで、
 自分がガンになっても治療を拒否し、
 激痛の中で亡くなっていったのだそうです…

 筆者は彼の「死の医療化」については同意しつつも
 医療界が威張ってそうなったのではなく、
 むしろ医療界もその犠牲者だ、と後の方で書いている。

 個人が死や苦痛を医療界にゆだね、過剰に期待するようになったから 
 患者は見込みがなくても何とか治して、と医者に治療をせがむ。
 医療界は訴えられないために、それに応えるしかない、
 結果現場は疲弊している、と…

 要するに、宗教が無くなった結果、
 現代人は死を身近に感じられる機会が減り、心のよりどころもなくなり、死への恐怖が増した。
 死の恐怖や苦痛への対処手段として、テクノロジーにすがるようになった、
 それが過剰医療につながっている、と…
 なるほど、なかなか身につまされる。

〇死の宣告、ターミナルケアを言い出せない医師たち
 次に筆者は「隠された死」がもたらすものとして
 「勇敢であることへの(医師の)ためらい」が起きたという表現をしている

 これは、作家で医師のキーラン・スウィーニーさんという方が
 致命的な肺がんにかかったときに
 医者に求めること、として書いた文章の中に
 「(医師は)肝心な時に、勇敢であることへのためらいがある」
 とあったものから借りた表現で

 要するに患者に、
 あと余命何年ですよとか、もう先が長くないから、緩和ケアで静かに最期を迎えませんか、
 という宣告をすること、
 治療に見切りをつけて、よりよい最期の迎え方を一緒に考えようとすること、
 を指していると思われる。

 でも筆者はいろんな著名人が書き残したものを挙げながら
 実際は患者も家族も、その真実を口にすること、認めることを嫌がる、という。
 たとえ医者の方から、そういうことを提案しても
 否定する人が多いのだそうです
 筆者も医者として緩和ケアを提案することがあるが、受け入れられる例はまれだという。

 (スウィーニーさんはご自分が医者で知識があるので、
  ちゃんと本当のことを言って最期まで寄り添ってほしい、と考えたようですが)

 実際は、真実を否定する人は治療に苦しんだ末に亡くなり
 家族も本当のことを言わなかったのはよかったのか、と悩む…
 認めて静かに最期を迎える人の方が穏やかに亡くなっている…

 という事実は見るものの、
 筆者は
 「真実を言う医師は報われない、
  嘘をついた方がいい(宣告しない方がいい)と思うことが多い」
 と淡々と書いています

〇急性期病院で迎える最期
 次に筆者は、過去に起きたイギリス医療制度の問題を題材に
 現代の医療問題を議論している
 
 一つは「スタッフォード病院問題」で
 これは急性期病院(大病院の救急病棟)において
 十分なケアが受けられず、2005年から2008年の間に
 数百人が死亡した、と報じられた事件

 筆者によると、イギリスの大半の人が急性期病院で亡くなるのだそうです
 何らかの急性あるいは慢性疾患で運ばれ
 そこで治療を受け、
 そのままそこで亡くなってしまう、というケースが多い、と。
 日本でもそうなのかな?

 しかし、急性期病院はそもそも、死にそうな患者専用の病棟ではなく
 看護婦も医師も常に忙しく、非常事態に対処しきれない
 人も多くベッドも雑然とし、プライバシーもない

 スタッフォード病院問題では、
 もともとそのような満足な医療を受けられるはずのないところで
 臨終期の治療を受けるがゆえ起きた問題で、
 筆者に言わせれば、過去にも場所を変えて繰り返し起きているのだそう

 筆者も急性期病院に関わったことがあるそうですが
 なぜそこで死ぬ人が多いかというと、
 そこで治療を受ける患者に、
 もう見込みはないからとターミナルケアを提案しても
 家族や本人に拒否されるケースが多いのだそうです
 つまり、患者や家族にとって、それは死を認めたということになるから。
 やれることはやってくれ、と医師に頼み
 そうして過剰医療が行われる。

 そこでできたのが「リバプール・ケア・パスウェイ」と言われるイギリスの医療制度
 これは急性期病院で臨終状態に陥った人たちに対して、
 これ以上無益で辛い医療介入をしない
 (要するに治療行為をしない)プログラムを発動する、というもの

 これは、臨終状態の患者の辛さを和らげるために、と考えられたそうで
 医師や看護師が本当に必要な医療行為に集中できるようにもなるし、
 とても合理的なプログラムだな、と思う。
 筆者も硬直的なところはある(一切飲食を与えないなど)ものの、
 実際そのような辛い無益な医療を続ける行為は減った、と評価をしている
 
 しかし、この制度も問題になったそうです

 国民には制度の意義を理解されず、
 プログラムが適用されていることを患者本人が知らない例が半数あったり
 (つまり、自分が臨終期であることを知らされていない)
 これは、医師が治療を放棄して患者の死を促すための制度?とマスコミに批判されたりし
 結局解体を勧告されている

 筆者はスタッフォード病院問題にも、パスウェイにも
 急性期病院の抱える難しさがある、としている。
 つまり、どこまで治療すべきで、どこから諦めるべきなのか、
 それを医師が判断せねばならない。
 そこには限界がある、
 患者も徹底的な治療を求めてしまう、と…
 
 それからもう一つ、筆者は
 「急性期病院があらゆる社会問題のごみ箱となっている」とも書いている。
 筆者の経験では、一人暮らしで問題行為のある老人が運び込まれる例がある
 アル中の老人を、本人の希望で家に帰すと家族に怒られた、という例もあるそうです

 …こういう例があるから、現場も疲弊し
 本当に必要なケアができなくなったりしてしまう。

 「総合病院の医療の質が悪い」と国民が批判したとしても
 死の判断とか、家庭の居場所がないなどの問題を抱える個人の対処など
 本当は我々が自分で考えるべき問題を、病院に押し付けたのは我々なんだから、
 文句をいう権利はないといえる。
 
 筆者は
 「社会として、急性期病院をいろんな医療以外の問題のごみ箱扱いするのであれば
  病院側がごみ箱のように感じ、
  そう考え始めたとしても文句を言うべきではない」

 「私たちの多くは、急性期病院で死を迎えることになる。
  ほかにいい場所がありますか」
 というやや激しい言葉を書いています

○ガンの闘病について
 筆者はガンへの闘病を美化する風潮についても批判の目を向ける。

 筆者によると、ガンは特別扱いされる病気なのだそう
 それはガンには強い恐怖を抱く人が多く、怖い侵入者というイメージがあるためで、
 「転移」「浸潤」などの表現にもそれが現れている、と指摘する。
 そして、患者には「闘い」が期待されている、と。
 
 筆者はいろんな著名人のガンへの反応を例に出しているのですが
 なんとか治そうと手を尽くす人は多い。
 遺伝子治療など、最新のまだ確立されていない治療を試みる人もいるし
 高齢なのに無理を押して手術を受ける人もいる。
 そうしても治らないと分かると絶望にうちひしがれ
 恐怖を覚えながら亡くなっていく。

 しかし筆者の立場としては
 現在の化学療法や遺伝子治療には限界がある、万能ではないと考えていて、
 医学界も渋々ながらそれを認めている、という。
 化学療法はなにか手を打っていると見せかけるためのもの、
 やらないよりはましだからやっているように見える、と手厳しい。
 それでも患者の感情的な訴えに負けて、治療はなされる、と。

 「腫瘍学(化学療法などを行う)は、患者に誤った希望と悪い死を与えるもの」
 「現代の腫瘍学と遺伝学は、
  原始シャーマンの祭祀にも似ている」
 それらで治る、と信じてなんでも試す人を
 「ドン・キホーテ風楽観主義」とか、宗教の信者のよう、
 という感じの書き方をしていて
 なかなか辛辣です。

 もちろん一生懸命治療する人たちを揶揄するつもりはない、と筆者は書く。
 「ただ、社会の真実は私にとって真実ではない」と。

 一方、ガンにかかった著名人でも
 記者会見で
 「化学療法で余命が延びても、私はそんな時間は要らない」
 「私は良くはならない」
 とある意味気が滅入るような話をしていた方もいるそうです

 この言葉に驚いたインタビュアーが
 「他のガン患者を絶望に追いやるかもしれないですよ」
 と言っても
 「私の絶望は私のもの、その人たちの絶望はその人たちのもの」と一蹴する。
 でもそれは他人のことは知らない、という意味ではなく
 「誰にも奇跡的な救いがあることを祈っています」と。
 ただ、「私にも世界はあると思ったが、世界は私に背を向けた」と。
 
 多分世間的には、こういう態度の著名人がいたら、ちょっと反応に困ると思うのだが、
 筆者自身は、この著名人の態度は潔い、と評価していました。
 多分それは、一生懸命治療をしている人に無駄だから止めろ、と言いたいわけではなくて
 ガンを完全に排除しようとして辛い思いをするのと、
 完全に排除するのではなく、緩やかなやり方でガンと共存するのとどちらがいいのか、とか、
 時間が限られているなら残りの人生をどう有意義に過ごすのかなどを
 ちょっと一旦立ち止まって考えてみたらどうかな、
 ということなのかなと思います。

 …この辺の話は、私も考えさせられました。
 私の友人もガンにかかったことがあり
 治療の話を少しだけ聞いたことがあります

 私はそれまで全く知らなかったんですが、
 化学療法というのは薬物を何クールかで投与して
 いったんはそれで症状がおさまるけど、
 次第に効かなくなるので、
 また別の薬物を投与しないといけないのですね。

 普通の風邪薬などの感覚からいうと
 薬を投与したらもう治るし、ぶり返すことはあんまりない。
 でもガンはまたぶり返すことがあり、ずっと薬物を探し続けなければならない。
 このことに驚きました。

 しかも薬も合う、合わないがあり、副作用がひどい場合もあるし、
 治験段階のものを試させてもらうときは、
 半分の確率でプラセーボ群(偽薬)に当たるかもしれない、など…

 聞いていたときは、
 ガン治療ってそういうもんなんか、と思っていたけど、
 自分が受けるとなると、それってけっこうキツいなと思う。
 (ただ、私の友人に関して言えば、
  化学療法で伸びた寿命により
  行きたいところに行き、会いたい人に会って
  精一杯の生涯を全うされたので、
  それはそれで意義あることだった、とは思う)

 筆者の意見はちょっと表現は厳しいかもしれないが、一理ある。
 化学療法は、コストと副作用の割に、少し生きる時間が伸びるだけ、
 と言われてしまえばそうなのかもしれない。
 でも現実問題、薬や治療法がありますよ、と言われればすがりたくもなるだろうし…
 難しい問題だなと思いました。
 
○死に方を自分で決められるという幻想
 筆者は、リビング・ウィル(事前指示書)と自殺幇助についても意見を書いていて
 いずれも
 「個人の自立、コントロールへの情熱に関係している」と分析している

 ●リビング・ウィル
 これについては
 ・私を死なせてほしい(無用な治療はするな)
 ・私を生かしてほしい(できる限り治療してほしい)
 の2つについて書かれていました

 「死なせてほしい」例については
 ユニバーシティ・カレッジ・コーク(アイルランドの大学)が作ったという
 試験的プログラムを紹介していますが

 これは予め、命にかかわる病気のとき手術するかしないか、
 胃ろうするかどうか、
 などを前もって決めておけるもの。
 しかし現場の医師である筆者によると、
 実際はケースバイケースで運用が難しいそうです

 例えば放っておけば命にはかかわるが、処置の手術自体は簡単な内臓出血などが起きたときは
 手術した方が本人にとっては楽だが
 「手術しないで」
 と選択していたときにはそれができない

 また、事前指示書が患者の方でちゃんと用意されていればいいが
 たいがい病気になるのは突然で、
 探すのに時間がかかる場合
 緊急でも処置ができずに困ったりする

 また、元気なときは処置しないでと選択しても
 いざとなったらどうしても生きたいと思うかもしれない、

 など、何かと揉め事の種になりやすいのだそう

 また、「インフォームド・コンセント」についても
 知識のない人に決めろというのは無理がある、と。

 それから、「生かしてほしい」という意思がある場合も問題がある

 例えば心肺蘇生の場合
 成功率は低く、成功しても脳に障害が残ったりする
 患者の体力も必要になる

 このため、現場の医師が心肺蘇生は無理だ、と判断して処置をしなかったら
 家族から何もしなかった、と非難される
 したところで、障害が残ったり失敗しても非難される、
 というジレンマがあるそうです

 ●自殺幇助(「殺してほしい」)
 これについては、自殺幇助を法的に認めるよう、訴えを起こした例がいくつか紹介されている

 しかしこれらを分析すると
 訴えている本人自身の心の問題が投影されていることが多いんだそうです

 例えば
 「私の今まで自分の人生は他人に翻弄されていた」
 「他人に話を聞いてもらえなかった」
 などの不満が潜在的にあり
 「せめて死に方だけでも選びたい」
 と、いわば自己表現の手段になっていることが多い、など。

 筆者はそれは本人にとってはいいかもしれないが、
 それを社会に広げるのはどうかと書いている。

 法として自殺幇助を認めるのは危険で、
 それは医者が患者を殺すことを許すことになる、
 家族が死ぬ権利を主張し、医者がそれに従わざるを得なくなる、
 そんな事態を危惧しています。

 しかしながらそこまで議論しておきつつ
 筆者は
 「(コントロールできるとは)妄想である、最後は自然が決めるだろう」
 と結んでいました

 …尊厳死とか死ぬ権利とかは、近代個人主義の発達が産み出した思想なのかな、
 と思います。
 死に方や死ぬ時期を決めるのも、個人の権利として認められるべきだ、という発想なので。

 その点、リビング・ウィルはいい案なのかな、と思っていたけど
 逆に文書として残るがために、
 それが行動を縛り、柔軟に対応できない難しさがあるんだなと感じました
 これは医療の現実を知っている方だからこその意見だな、と。

 日本でも臓器移植は意思提示カードがあるけど、
 いざとなったら家族はやっぱり体は残してほしい、といい
 揉めるケースもある、と聞きます。

 普段から
 「ある程度簡単な手術ならいいけど
  大がかりそうならやらなくていいよ」とか
  死について家族とフランクに話しておかないといけないのかなぁと思いました。
 縁起でもない、と嫌がられるから難しいけどね…

○哲学と死
 筆者は哲学が死に役立つか、という議論も書いている

 そのために昔の哲学者(モンテーニュなど)の死に方を検証しているのですが、
 これがけっこう興味深い。

 色々哲学者が挙げられていましたが
 筆者はデイビッド・ヒュームとウィトゲンシュタインの亡くなり方を評価していました

 ヒュームは60代にガンになり、
 最初は闘病したが、途中で回復を諦め
 そこからは16ヶ月陽気に穏やかに過ごしたそうです。

 ウィトゲンシュタインは、末期がんとされたが
 そのときは、やっぱり、という反応を見せ、
 最後の二ヶ月は夫人と仲良く過ごしたそうです

 その他の方は苦しみながら、
 あるいは死を怖がりながら亡くなったり
 あるいはモルヒネなどの薬で穏やかに亡くなったり
 吐血や肺炎などで突然倒れたり…
 (トルストイなんかは、家出して数週間後、駅で倒れて駅長室で亡くなっている)

 筆者の結論としては
 「よい死を遂げる哲学者もいれば、そうでない哲学者もいる」
 それは、あまり本人の生前の思想とは関係ないそうです

 では哲学は死に際して役立たないのか?

 筆者は哲学者かどうかは関係なくて、
 無名な人たちの言葉からもヒントはある、と述べている

 例えば亡くなる方に
 今何を後悔しているか、を聞き取り調査して書かれた
 「死ぬときの5つの後悔」という本
 (日本にも、似たような本はいくつかありますね)

 この著者は
 「死が訪れる前に死を直視し、受け入れられれば
  手遅れになる前に自分の優先順位を決められる」
 と述べているそうです
 明日死んだらどうするか、を考えて行動せよ、ということですね
 (スティーブ・ジョブズさんも似たようなことを言っていたような気がするが)

 その他、本以外にも、
 筆者はお墓参りで死者との対話をすることで安らぎを得ている、とも言う。
 ほか、信仰心も助けになる、と書いています。

 …哲学者、特に死を考えた哲学者はもっと静かに亡くなったのかと思っていたんですが
 そうでもないんだなと知り、少し親近感がわきました。
 死を哲学していた哲学者ですら、その時が来たら慌ててしまう。

 でもだからといって、
 死に方とか死を考えるのは決して無駄ではないと思う。

 昔、死についての対談番組で、作家の羽田圭介さんが
 「死んだら何もなくなる、と僕は思っている、
  だから生きているうちにやりたいことは何でもやる」
 「死をゴールとして考えるのは大事だと思う
  それもしていないやつが、40過ぎてしょうもない犯罪を起こしたりするんじゃないか」
 みたいな話をしていて

 私もその意見には同意します。
 生まれ変わりとか信じる人もいますが、
 もしそうだとしても、同じ自分に生まれ変わるわけじゃないので
 今の自分は今の人生で終わり、と考えた方がいいと思う。

 そしてゴールがあると思えば
 生きている間に何をしようか、とか、
 自分のため、他人のため、社会のために何を残せるかな
 と考えられるのかなと思う。

○筆者の終末医療に関する考え方
 筆者は所々に終末医療に関する考え方を書いていて、それも参考になりました
 ・胃ろうは勧めない
  筆者は、消化器専門医として、
  臨終期にある患者の家族やケアマネジャーから胃ろうを頼まれることがあったそうですが、
  何回かやるうちに、胃ろうは嫌だと思うようになったそうです
  それは下痢、感染症、もれ、誤嚥性肺炎などの危険もあるが
  何より食べる楽しみを患者から奪う、と。

  この方法は
  「患者にとって必要というよりは、
   家族と医師の複雑な、感情的な(経済的にも)必要を満たすためだ」とまで書いている

  それでも現実問題、胃ろうを望む家族は多く
  筆者が止めるよう説得しても、「治療を放棄した」と非難され
  争いに辟易したことも少なくないそうです

 ・自宅で死ぬのは幸せとは限らない
  自宅で看取られるのは幸せ、と考える人は多いが、
  そうでもないと筆者は言う。
  ・自宅で対処できない事態になったとき、家族も本人も困る、
  ・死に際の衰弱した姿を、子供や孫などにさらすことに抵抗を感じる人もいる、
  ・家族にとって責任が重すぎる
  などが理由としてあるそうです。

 ・ホスピスについて
  筆者はホスピスについて肯定的だが
  イギリスや筆者の故郷であるアイルランドでは、
  ホスピスを口に出すと嫌な顔をされるそうです
  「ホスピスは病気への降伏と同等」なのだそうだ。

  ちなみにアメリカは国民の半数がホスピスを選ぶそうですが
  理由はマネー、つまり保険会社がそれを勧める傾向にあるからだそう

 (日本でも、ホスピスはあまり一般的ではない気がしますが
  それもイギリスと同じ理由なのでしょうか)

 ・病気の告知
  筆者は現代の医者は、病気の告知は上手ではない、と言う。
  病気を治す訓練は受けているが、
  人生を終わらせる訓練は受けていないからだ、と。

  もちろん、緩和ケアや対話療法を行う医師はそのような訓練を受けているが
  患者が彼らに接するということは、
  もう自分が死ぬという判断を下されたということを意味する、
  だから会わせられないというパラドックスがある。

  医療業界でも、対話療法などは亜流の扱いで軽視されている、という問題がある。
  しかし、結局患者は担当医を求める、
  だから医師全員が、告知や対話の訓練を受けるべきだ、と筆者はいう。
 
  対話療法で難しいのは、共感すること、なのだそうです。
  しかし患者から求められているのは親切にすることで、
  それはみんなできるはず、と筆者は書いている。

 …この辺は賛否両論ある話ばかりですが
 自分はどうしよう、と考えるときに参考になります。

 個人的には、胃ろうは要らないけど
 家族が望んだら断れないかもしれない。
 あと自宅で亡くなりたい人は多いみたいだけど、
 私はあんまりそこにこだわりはないかなぁ。
 (今の家が旦那の実家なので自分の家感がない、てのはあるが)
 それから、ホスピスがあるなら入りたいけど
 家族は体裁とかで嫌がるかも。
 告知については、私自身は、割と医学の知識もあるからはっきり言って欲しい。

 …とか思うが、実際は家族とか世間体に振り回されるんだろうなぁと思ったりする。

 それから筆者の意見ではないが、
 「医師の終末気医療希望調査」
 (ジョン・ホプキンズ大学の調査)
 の結果も紹介されていて、それも興味深かったです

 それによると、大半の医師は 心肺蘇生、透析、大手術、胃ろうを希望せず
 鎮痛薬、麻酔薬を希望しているそうです
 (筆者は、「医者は自分がしてほしくないことを普段している」とやや皮肉っぽく書いている)

 とはいえ医師にも亡くなりかたは色々で
 化学療法を断る人もいれば、
 緩和ケアは敗北を認めることだという人もいるそうです

 知識がある人も悩むのですね。

○永遠の命を求める
 筆者はまた、人類は健康と長寿への追求をし過ぎている、
 というようなことを書いている

 もちろん健康で長生きしたいのは誰でも持つ願いだが、
 長寿は社会問題をもたらしている

 元気な年寄りが政治に口をだし、
 医療保証費の増大をもたらし、
 若者の雇用を奪う。

 また、大概の人は介護してくれる家族がいなければ、
 養護施設で最期を過ごす。
 しかし介護のなり手は少なく、
 なり手が介護のストレスをためて事件を起こすこともある

 つまり、
 ・シルバー民主主義
 ・雇用問題
 ・社会保障費問題
 ・介護の担い手問題
 が起きている、
 これは日本でも問題だが、イギリスにもあるようです

 それでも健康長寿の可能性がある、と言われれば、
 個人としては、みんなそれを求めてしまう
 それは多分個体が持つ、本能的なものなのでしょう。
 筆者もそんなチャンスがあれば掴みたいと思ってしまうだろう、と書いている。

 このため、政治家は病気や老化との戦いをスローガンに掲げ
 国民はそれを支持し、
 生物医学研究産業はそれらを商売の手段にする。

 とはいえ、そうして医学が進んでも、それが有用に使われるとは限らず
 過剰な医療、薬の濫用などは現実としてある
 ジョン・グレイという作家はこれを皮肉って、
 「科学の知識は増えても
  人間の不合理な行動は変わらない」
 と書いているそうです

 健康長寿は望まれるし、科学もそれを促進はするけど、
 人間の方が、必ずしもそれを幸福をもたらすような方向に使えるわけではない、
 というわけですね。

 更に長寿のみならず、不老不死を夢見る人たちもいる。
 最近ではシンギュラリティ説のレイ・カーツワイルさんが
 「AIと人間が融合し、人間は永遠の命を得られるだろう」
 と予言して世間を驚かせていますが

 不老不死の実現は今に始まったことではなく、
 レーニンの時代にも、その未来に備えて、
 レーニンの遺体の凍結保存を試みた科学者もいたそうです。

 他にも心肺蘇生装置を考える人、トランス・ヒューマニストなど、
 不老不死のテクノロジーが実現すると信じる人は多いのだそう

 しかし、筆者はこれ以上健康長寿、不老不死に
 労力やコストをかけるべきではない、という。

 「我々は守銭奴のようには健康は溜め込めない。
  生きることは健康を使い尽くすことである」

 「健康はお金のように
  それ自体が目的ではない。
  お金のように慎ましく、充実した生活を送るためには必要なものである」

 「健康の追求に執着することは、一種の消費主義」

 お金も、たくさんあるからといって幸せになれるわけじゃない。
 要はそれをどう使うかの問題だけど、
 健康もそれと同じで、必要分だけにしておくべきだ、と。
 医療を、ほどほどの慰めの手段に落ち着くべきだ、
 と筆者は書いている。

 …まぁ、理想はそうなんだけど
 医療を減らしましょう、とは
 政治家も医者も言いにくい、というか、言ったら叩かれるでしょうね…。
 利用者が求めないことが、一番の解決策なのか。

○より良い死に方とは何か
 では筆者の考える、より良い死とは何か。
 この本の最後の方に書かれているのですが
 印象に残る文章がいくつもあったので
 引用させていただきます

 筆者は、動物の亡くなり方がある意味理想、という。
 「動物は放っておけば、人間よりもよい死に方をする。
  静かな隅っこを見つけて壁を見つけ、時を待つ」

 モンテーニュは、無学な人たちの死去について
 「彼らは臨終の時の表情や態度を気にしない」
 「結局は避けられないことと疑いもせず、抗わず、冷静に受け止めている」
 と書いているそうですが

 そういう、自分が立派な死に方かどうか、すら気にせずに
 自然のままに安らかに死んでいくのがいい、と。

 でも現代の人々は、立派な死に方を求め過ぎている、
 と筆者は言う。

 それは恐らく、
 「死ぬときに他人に迷惑をかけたくない」
 という考え方と対を成していて、

 「隠された死」について考えたアリエスという歴史家は
 現代の死が「隠された」ひとつの原因として
 身体的機能にまつわる不快感、
 つまり汗や膿や排泄物の臭いや汚れ、などの不快さがあるのではないか、
 と書いているそうなのですが

 我々はそこから、死は汚いもの、と思ってしまう。
 それをお世話する人たちも、時には飽きたりうんざりしたりしてしまう。
 「優しい気持ちでいる時間は、
  絶望や、孤独、怖さを感じる時間より遥かに少ない」

 だから、尊厳死とは、実は生きている側の人間が、
 理想の姿として創り出した概念かもしれない、
 と筆者は言う。

 「「尊厳死」は死を見つめる側が、
  もっときれいで臭いがなければいいのに、
  という強い願望を反映しているだけかもしれない」

 気高い生き方をしていた人には、
 生きている側が、尊厳のある死を期待してしまう。
 でも実際は死に方と生き方は関係なく、
 ふがいない死に方をする英雄もいれば、立派な死に方をする犯罪人もいる。

 尊厳死の概念は、死すらも自分の責任だ、と考えるようになった
 個人主義のもたらした概念ではないか、と。

 それゆえ我々は死ぬとき
 「他人に迷惑をかけたくない」と思いがちである。

 しかし筆者は、死ぬとは他人に重荷をかけるものなのだ、
 とも書いている
 「重荷であることは
  私たちが被造物であることにほかならず、
  それでこそ私たちは人間なのだ」と。
 「私たちは愛してくれる人の重荷になりたいと思うべきだし、
  その人たちも、重荷を背負いたいと思うべきである」と。

 そして、世話される人は
 「子供に対するような世話」を望んでいるし、
 世話する側も、「子供のように時々無責任になること」も必要だよ、と。

 …この辺のくだりは、筆者の優しさを感じます。
 重荷になるのは当たり前なんだよ、
 それはお互いさまなんだよ、と思うこと、
 それが死を受け入れる第一歩なのかもしれない。

 筆者は、きれいな死、尊厳死はあり得ない、という。
 「尊厳死の意味が私にはわからない」ともいう。
 何よりも難しいのだそうです。
 尊厳死、とは、本人も家族も、死ぬことを認めて別れることが前提で、
 生への執着心が強い人間という生き物にとっては、
 それは苦痛に耐えるよりはるかに困難だ、と。

 だから、
 「我々は死に対して、それなりの気概を持つべき」で
 「恐れない死、無駄な医療介入をうけいれない死 などを求めるべきではあるが、
 それでも死は準備も管理もできなくて、あるのは苦悩だけだ、と。

 ならば、
 「私たちの番が来たら、(神の)被造物として死のうではないか」
 「壁を向いて、世間や家族から離れれば、もう恥も外聞もない」
 自然のまま、飾らずに、立派に死のうとも思わずに亡くなったらいいじゃないか、
 と書いています

 そして、そばにいる医師や家族は、
 視線をそらさずその人に最期まで付き添うべきだ、と書いています。
 医師は患者に対する
 「深い思いやり」と、「生き物として接する、という新しい局面」が必要だ、と。

 そして、思いやりを医師に期待するだけではなく
 我々、家族、社会も思いやりを持たねばならない。

 「個人主義と消費主義が私たちの文化を数十年席巻して、
  他人を尊重する心が無くなってきた」
 「平均寿命の延びとともに、
  私たちは若さと美への強迫観念と高齢者蔑視という現代文化を目撃してきた」
 「物質主義、世俗主義による貧弱な精神の矮小化
 (↑これは宗教の衰退を指しているものと思われる)」
 と筆者は現状を厳しく批判し

 各個人が
 ・自分の精神的、実存的問題の解決を医療に期待するのをやめること
 ・身体は機械だ、という考え方を捨てること
 ・コントロールと不老不死の幻想をあきらめること
 が必要だ、と書いてます。

 とはいえ、筆者も悩む。
 「私に答えはなく、深い見識はない、
  死に方を助言することは、生き方を助言すると同じくらい難しい」と結んでいました。

〇感想など
 …中盤まで、現代人は医者に期待しすぎだ、役割を押し付けすぎだ、
 ということを言われている気がして、
 耳が痛いなと思いながら読んでいたのですが
 最後の方では筆者の心の温かさを感じて、じーんときてしまいました。

 尊厳死とか死ぬ権利とか、
 病気と闘います!と頑張る人たち、
 そんなに頑張らなくてもいいいんだよ、
 もっと自然でもいいんだよ、立派でなくてもいいんだよ、
 それが人間なんだよ、
 と言われているような気がしました。

 それは、今病と闘っている人たちに、無駄なんだからやめろ、
 と冷めた眼で言っているわけではない。
 立派に生きる、立派に死ぬ。
 それは立派なことだけど、
 でもそれは、個人主義という思想が作り出した理想に過ぎない。
 私たちはその前に人間という生物なんだから、
 その理想通りにならなかったとしても、
 決してみじめでも醜いわけでも恥ずかしいことでもない、
 ということなのかな、と。

 動物には、立派に死ぬとか生きるとかいう概念は元から無い。
 精一杯生きて、力が尽きたら死ぬだけ。
 そこに立ち戻ってもいいのかな、と思いました。
 命がある間は、いつ死んでも後悔しないよう、何をするか。
 死ぬときは、いかに自然に近い形で最期を迎えられるか。
 そのように、シンプルに考えたらいいのかなとも思いました。

色々考えさせられました。
まあ、しょせん健康でまだ寿命がある(平均寿命から考えたらですが)
人間の浅はかな考え、と言われたらそれまでなんですけどね…

というわけで今回はこの辺で。