びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

100分de名著「スピノザ「エチカ」「第1回善悪」」

100分de名著「スピノザ「エチカ」「第1回善悪」」

今回は難解なフランス哲学を解説してくださるそうで
多分自分では読まない(ていうか読めない)ので見てみました。

扱っているのはスピノザの哲学。
名前は聞いたことあるけどさっぱりわからんな…
中世の方で、変わり者だったそうで
今回はこの方の紹介で半分くらいとられていたような(笑)

司会は伊集院光さん、安部みちこアナ。
解説は東京農工大の哲学者、國分功一郎さん。
彼はフランス哲学や近代思想の研究者で
スピノザについては20年間研究されているそうです

國分さんによれば
「僕らが若い頃は、20世紀の哲学者が流行っていて、
 スピノザなんかは読んでないとかっこ悪い、
 「え、スピノザ読んでないの?」みたいな感じだった」
 「でもね、そうやってみんな読んでるんだけど、
  みんな何となく読んでるだけで分かってない」

 スピノザはそれだけ難解らしい。
 何が難解かというと、
 國分さんの表現によれば
 「OSが違う」
 「自分OSと違うな、と思って読むと見え方が変わってくる」

スピノザの生涯
 さてそんな難解な哲学者だったスピノザ
 生前もかなり変わった人だったらしい。

 彼はユダヤ系のフランス人だったが、
 ユダヤ教キリスト教には反対していたので、
 みんなから異端と言われていたそうです

 生前にかかれた本は
 「デカルトの哲学原理」
 「神学・政治論」の二冊だけ。
 後者は匿名だったが、内容が問題にされ発禁に。
 しかもスピノザが書いたとばれて、非難を受けたらしい

 彼は44歳の若さで亡くなり
 友人が遺稿集を出版
 それらも発禁処分になり
 残っていたのが「エチカ」だったそうです

 國分さんによれば
 「エチカ、とはエートス(動物の巣、人間の住みか)から来ている。
  人が集まったとき、習慣として自然と出てくる基準、
  みたいなものがエチカ」
 話し合って自然と出てくる、みんなが考える哲学というイメージだそうで
 「スピノザ倫理学は、頭ごなしにこうしろというのではなく、
  一人一人の倫理を考えていこう、というのがベース」
 なのだそうです

 伊集院さん
 「なんだかずいぶん今っぽいですね」

 國分さん
 「だからこそ当時は受け入れられなかったし
  20世紀になって受け入れられるようになったんですね」
 当時は宗教の教えに従え、という感じだったのだろう。

○「エチカ」の記述法
 エチカは、幾何学の論証法を使って書いているそうです

 例えば
 数学の「円とは…のことである」のような「定義」を設定し
 議論の前提となる「公理」を仮定し
 そこから「証明」を使って新しい公式、「定理」を導き出す

 だからスピノザでも
 「定義1、…」
 「公理1、…」
 から始まり
 「証明、…」「定理、…」と続く書き方になっている

 哲学書としてはかなり変わっていますけど、
 数学というか論理的思考が好きな人なら入っていけそうですね。

スピノザの神の定義
 スピノザがその手法で証明しようとしたのは
 人間やこの世界の性質、だそうです

 そして、彼が最初に定義したのは神についてだった

 「神とは、絶対無限なる実有、
  言い換えれば各々が永遠、無限の本質を表現する、
  無限に多くの属性から成っている実体と解する」
 (第一部、定義六)

 難解ですねえ…
 國分さんも「これは僕でも難しい」と言ってましたが(笑)
 「ポイントは「無限」」

 「神様は絶対的、
  だから有限なはずはない、と。
  例えば伊集院さんは、時間的にも物理的にも有限ですよね。
  でも神様は無限だと」

 そして、神が無限ということは、
 →神には外側がない
 →世界の全ては神の中にある
 →私たちもみんな神だ(「変状、様態」)
 という展開になるらしい。

 伊集院さんは
 「ヤオロズの神のことですか?」

 國分さん
 「うーん、根本的にはそれとは違うけど、似ている考え方」
 ヤオロズの神、というと神がたくさんいる、という考え方だが
 スピノザは、神は1つと考えており
 我々一人一人がその神の現れだ、と考えたのだそうです。

 國分さん
 「神は宇宙と同じ意味なんです。
  Deus Sive Natura、神即自然、という言葉もあります」

 伊集院さんはそれを聞いていて
 「そりゃ怒られるわ(笑)
  ある意味神がない、と言ってるのと同じことですよね」
 國分さん
 「キリスト教ユダヤ教では、神とは人格神、
  人を裁く存在と考えられていた。
  それに対して、スピノザの考え方は凡神論に近い」

 伊集院さん
 「でも科学者から見たらそうだよ、となりそうですけど…」
 國分さん
 「実際そうです。
  有名な話では、アインシュタイン
  「私はスピノザの神を信じる」と言ったそうです」

○「エチカ」の構成
 エチカは五部からなり
 第一部…神について
 第二部…精神の本性及び起源について
 第三部…感情の起源及び本性について
 第四部…人間の隷属、あるいは感情の力について
 第五部…知性の能力あるいは人間の自由について

 しかし國分さんによれば
 「この本は最初から読んじゃいけない」そうです
 最初は抽象論から始まるので、
 大概の人はそこで挫折しちゃうらしい(笑)

 國分さんのお勧めは第四部からで
 「ここは具体的な倫理の話なので読みやすい」

そこで今回は第四部、特に善悪についてを
取り上げていました
○善悪とは主観で決まるもの
 「伊集院さんは善悪ってどう教えられました?」
 伊集院さん
 「小学生みたいな答えですけど、
  やりなさい、が善、
  やっちゃダメ、が悪…」
 國分さん
 「そうそう、基本的に命令形ですよね。
  それでいいのか、と問うのがスピノザなんです」

 第四部には善悪の話の前に、
 人が「完全」と「不完全」をどんな意味で使うか、
 を取り上げる

 例えば誰かが家を作っているとき
 他人は完成図が家、とわかっているので、
 そのでき具合を見て
 「完全」「不完全」と評する

 しかしその人が、見たこともない作品を作っているときは
 完全とも不完全とも言えない

 スピノザは、自然物についても同じで
 完全、不完全は人の思い込み
 (スピノザはこれを「一般的概念」と呼んでいる)
 により決まる、と言う

 「もろもろの自然物、
  すなわち人間の手で製作されていないものについても、
  人々が通常、完全とか不完全とか名付けるのは、
  これと同じ理由であるかのように見える」

 「人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、
  物の真の認識に基づくよりも、
  偏見に基づいていることがわかる」

 例えば一本の角しかない牛は不完全とか奇形、と呼ばれるが
 それは人間が「一般的概念」に基づいて
 完全だの不完全だの言っているだけで、
 実際は自然の中には完全も不完全もない、と。

 スピノザは善悪もこれと同じだ、とし
 「善及び悪に関して言えば
  思惟の様態、
  すなわち我々が相互に比較することによって形成する概念に他ならない」

 「なぜなら、同一事物が同時に善、及び悪、
  並びに善悪いずれにも属さない中間物、にもなりうるからである。
  例えば、音楽は憂鬱の人には善く、
  悲傷の人には悪しく、
  聾者には善くも悪しくもない」

 伊集院さんは
 「これはなんか入ってきた」
 「ハイカロリーな食べ物がいいか悪いかは、
  その時の僕の状態による。…みたいなことかな。
  かみさんはいつでも悪い、というけど」(笑)
 國分さんも
 「そうそう。それ自体が完全にいいか悪いかはなくて、
  「組み合わせ」の結果であると言っている」

 例えば音楽の例でも、もともといい悪いはなく、
 誰との組み合わせかにより、いい悪いが決まる。
 うつの人には気分を高揚させてくれるし、
 悲しみに浸りたい人には邪魔になるし、
 耳が聞こえない人にはどちらでもない、と。

 「それは自然界でも同じで、
  ある意味全部完全だし、奇形なんてものもない」
 国分さんがよく自分で使う例はトリカブトなどの自然毒で、
 人間にとっては良くないものだが
 自然界の中には存在している、と。

 「良い悪いも起源においては同じものなんです。
  それを忘れて結果だけ取り上げると、
  いいとかダメなどの命令形になってしまう」

 つまり善悪とは、主観により決まるのですね。
 スピノザはさらに具体的な定義をしているそうです

スピノザの善悪の定義
 スピノザは、我々がどういう根拠で善悪を判断しているか、について
 「我々の活動能力を増大、減少あるいは促進、阻害するものを善悪と呼ぶ」
 と書いている
 つまり、活動能力を増大、促進するものを善、
 減少、阻害するものを悪と呼んでいるらしい

 國分さんによれば
 「これをすることで、
  あなたの活動能力がどうなっていくかを考えなさい、ということ」

 伊集院さんは
 「お笑いの世界でも、後輩芸人が「僕は何したらいいでしょう」と聞いてくる。
  今の時代は、特殊な能力がある人が割と生き残るから、
  それで何かサッカーとか変わったことやってくれるんだけど、
  でも僕は「何をやるにしても、それが楽しくないと無理だよ」と言っている。
  何をやっているときあなたが一番楽しいかで決めなさい、
  それに対する苦労しかできないよ、と」

 国分さんは
 「今いいポイントですね、
  スピノザも喜びが関わっている、と言っているんです」

 つまり、活動能力の増大、というと難しいが
 要するにうれしい、楽しい、わくわくするとか
 いい感情を感じるものがその人にとっての善なんだよ、
 と言っているそうです

 「善悪の認識は、我々の意識した限りにおける
  喜び、悲しみの関係に他ならない」

 國分さんは、
 「良いものというのは自分との組み合わせが良いもの。
  それは自分の楽しさや喜びを高めてくれる。
  そして、自分がどうすればそうなるかを分かっていれば、
  よりよく生きられる、とスピノザは言っている」

 その結果スピノザ
 「賢者はいろいろな楽しみ方を知っている人」といっているそうです

 安部アナは
 「励まされる考え方ですね、
  うちに小学生の子供がいるんですけど、
  小学生ってどの教科もできなきゃいけない、みたいなのがあるけど、
  楽しい、うれしいものが最終的には引っかかってくるんですね」

 國分さんは
 「どんな教科も、人によって理解できる筋道が違うんですよね。
  どうやったらうまくいくかはそれぞれ違う」

 伊集院さん
 「僕も確率論とか全然わからなかったんですけど、
  草野球が好きで、打率の計算はできたんです。
  でもそれ、算数の計算なんて全然思ってないですもん」

 …まあでも、宗教で「人間はこういう行いをすべき」と決められていた時代において
 「自分の楽しいことやればいいじゃん」
 といったスピノザはやはり受け入れられなかったのでしょう。
 早すぎた天才、なのかも。。
 
 人間は神の現れ、と最初に定義していましたが
 神が善悪を決める、とされていた時代に
 人間にだって、善悪を決める基準
 (自分が心地いいか、そうでないか)
 は備わっている、
 人間にも神性が宿っている、
 と見抜いたのはすごいなと感じました。

 となると、他人を苦しめることに快楽を感じるような人はどうなるんだろうか。
 本当は活動能力が減少しているんだろうか。
 負の感情をどう分析しているのか、それは今後なのかな。
 
 書き方は難解ですが、
 新しいものの見方を提示してくれそうな気がしました。
 というわけで今回はこの辺で。