びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

Eテレ 「AI入門特別編 世界の知性が語るパラダイム変換「第三夜 AIが人間を欺くとき」」

Eテレ 「AI入門特別編 世界の知性が語るパラダイム変換「第三夜 AIが人間を欺くとき」」

AI入門の特別編です
(先週はウィンブルドンで録画されておらず焦りましたが、
 放送されていて良かった)
今回は哲学者のダニエル・デネットさんのお話

彼は「バクテリアからバッハまで」の進化を見つめ、
人間の意識の解明に挑んでいるそうです

AIの意識にも興味は及び、
AIは、選択肢が多すぎるとプログラムが実行できない、という
いわゆる「フレーム問題」も彼が考えたのだそう

 (「フレーム問題」
  たとえばロボットに物を運べという命令をしたとき
  人間なら爆弾などの危険物があれば、危険と判断して何らかの処置を取るが
  ロボットはなんでも運んでしまう。

  逆に危険を認識しろとプログラムすると、
  天井が落ちてこないかとか、
  確率の低いどうでもいい心配事も考え出してしまって
  結局何も運べず、時限爆弾なら爆発してしまう

  つまりAIはその場の刻一刻と変わる状況を加味して
  判断することができない、という問題)

〇AIに自律性を持たせるべきか
 彼はAIの意識についてこう語っていました

 「ディープラーニングとはファブリック、
  基礎構造のようなものだと考えている
  人工的な知性を組み立てるときに使う、
  建築ブロックのようなものだからです」

 今のディープラーニング
 爆発的なロボットの進化を起こした、とも言われるが

 彼はAIに対しては、あくまで道具とすべきだ、と言う。
 「ツールとして使うことです、
  人工的な同僚より、知的なツールを作り続けた方がいいと私は考える
  AI、意識を持った科学エージェントを同僚とする必要はない。
  彼らが倫理的な問題を起こすからです」

 「意識を持った超知能ロボットを作るのは間違った目標です」とまでいう。

 「とはいっても、その目標を目指すのでしょうけどね…
  にしても、間違っている、という理由を認識しておくべきです」

 彼は、自律性とは何かを考えるとよい、という。
 「自動運転自動車がもし本当に自律性を持つなら、
  スーパーに行ってくれ、と頼んだとき
  「嫌です、私は他にやることがあるんです」というかもしれない。
  これが自律です」

 「科学の分野でも、AIの同僚を求めるべきでない。
  真の意味で自立したAIは、
  「遺伝学に興味はなく、株式市場で大もうけするつもりです」
  なんて勝手なことをいうかもしれない」

 「AI自身の自律性を持たせない方がいい。
  自律した人に対してと同様に、
  我々の目標について説得する必要性が出てくるからです」

 …、この辺、ある程度知恵を持った子供もそうですよね…
 小さいときは素直に親の言うことを聞いていたのに
 だんだん自分の意思ややりたいことを持ち始め、反抗するようになる。
 そうすると、なぜ嫌なこともやらねばならないか、を伝え、
 納得してもらわないといけない。

 「同じ人間でさえ、協力や善意を獲得するのに苦労する、
  社会にこういう自律性を持つAIが存在したら、
  ますますめんどうなことになる
  彼らは人間より頭の回転が速いのに、共通点があまりないからです」

 「以上が、私がAIに慎重であれ、という理由です。
  人間と同じくらい、いやそれ以上賢いAIをベースとした存在を作るなら、
  慎重であるべきです」

 「彼らはよい仲間となるでしょう、
  貴重な話し相手にね。
  本気でAIと友達になろうとしたり、助言を求めたりする、
  これはすべて論理的には可能なことです。」

 「でもその代償はAIの自律性…
  AIが自律性を持てば、隠し事をするようになる。
  なぜなら自律性を持つ存在は、
  他の自律性を持つ存在に
  自分の考えを悟られないようにするからです」

 「意識を持つ、会話できるAIを作ろうとするなら
  「神が人間に言葉を与えたのは、
   互いの考えていることを隠すためである」
  というタレーランフランス革命の時代の外相)の言葉を思い出すべきです。
  この皮肉な名言には深い示唆があると思います」

 「意識を持ったAIが非常に率直で、誠実で、
  裏表のないものになることなど、期待できない。
  真の意識の性質とは、相反するものだからです。
  この段階で、大いなる警告を行わなければならない理由がここにある」

 …「意識の本質とは相反するもの」というのは
 他人と共感や協力をしたい、という願いと
 他人とは違う自分を保ちたい、という願いを両方もつ
 人間の矛盾を示しているのだろうか。

 「私の知り合いの批評家のサム・ハリスがかつてこう言っていました
  「自由とは、自分が操り人形だとしても、自分の糸を好きになることだ」と」

 「たしかに一理あります。
  誰かの操り人形になりたくなかったら、自分の糸を大切にすべきです。
  ほかの誰かに引っ張られないように
  自分の糸を守らなくてはならない」

 「子供たちには、
  「なんでも言われたことを信じないように。利用する人もいるからね」
  と言います。
  子供たちに警戒を怠ってほしくない」

 人間でも騙されることは許せないが、AIの場合は
 「あなたのロボットが、誰かに騙されてほしくないのも子供と同じこと。
  用事を頼んだロボットが、
  その帰り道に他の人間の操り人形になってしまったらたまらない」

 「ロボットを信用したいのなら、ロボットが単に信用できるだけではなく
  信用に値する約束をするようにすべきです。
  理性的、合理的でない存在と約束したり信じたりするのは愚かなことです。
  ですから約束を守ってほしいなら
  ロボットにも道理を弁えてもらわなくてはいけない。」

  …この辺はいまいち何が言いたいのかよくわからないのですが
  ロボットに意識を持たせる、というならば
  悪い相手に騙されないように、
  自分の意思や判断力をもつまでのレベルにせねばならん、ということでしょうか。

  とはいえそれはなかなか難しいのでは、と彼は言う。
  というのは、人間の信頼や道徳などは、
  何千年もかけて培われた文化に拠るものだからだ、と。

 「ロボットは本当に自立するのでしょうかねぇ?
  我々は互いを信用できるようになるまで何千年もかかったのにね。
  信用というのを無駄にしたくない、
  これは人間文化の素晴らしい賜物です、
  遺伝ではなく文化の一部なんです」

 我々は、信用を獲得するのに数千年を必要とした、と彼は言う。
 そしてその信用、規範を育んだのは文化だ、と。

 では規範の拠り所となる文化はどのように育まれたのか?

○チャプター2 文化と進化
 彼は文化の起源は「農業が始まった1万年前まで遡ることができる」という
 賢明な設計者がいて、
 畑の耕し方、家の作り方、宇宙船やコンピューターの作り方まで
 様々な発明をしてきた、と。

 一方で、進化は設計図によるものではない、と彼はいう
 「「進化は人間より賢い」とは
  フランシス・クリック(DNAの二重螺旋構造を発見した人)の言葉です。
  進化はあなた自身の有り様よりも賢い。
  生命は進化により、設計という重荷を回避してきたのです」

 生命は最初から何か目的や設計図があったわけではなく
 その都度環境に適応し、結果的に進化してきた

 そして、このダーウィンのいう自然選択の論理は、
 文化の継承にも見いだせる、とデネットさんはいう

 「どんな分野でも見られることです、
  進化の過程に委ねることでうまくいくのは…
  遺伝的アルゴリズムディープラーニングなどの
  コンピューターの分野でもあること」

 「なぜディープラーニングがうまくいくのか、
  まだ完全には理解されていないかもしれない。
  説明できるのはまだまだ先のことでしょう。
  つまり望む結果が出たとしても、
  なぜそうなるのかは完全に理解できないのです。」

 もともとプログラミングという設計により作られたコンピューターだが
 ディープラーニングは自己学習して答えを出している。
 それは進化の過程に似ている、と。

 「これには少なくとも心乱される予感がする。
  どのように出したか分からない答えに落ち着くことになる。
  理解していないテクノロジーを使った結果です」

 ディープラーニングの進化の過程は設計者にもわからない。
 このようなブラックボックスがあったまま、AIは実用化されている…

 「しかし進化は止まらない。
  生物学的な種だけではなく、その考え方(文化など)も進化する」
  
 「(たとえば)ドーキンス
  遺伝子の継承について生んだ「ミーム」という概念は
  (「利己的な遺伝子」という本で、
   人間は遺伝子の乗り物に過ぎない、という考え方を提唱)
  インターネット上では全く違う使われ方をしていますよね」

 「どちらも競いあうようにコピーを繰り返している、
  というのは同じですけどね。
  (ミーム、とは元々文化を運ぶ遺伝子みたいなものの意味だが
   ネット上では、ネットで流行った言葉が
   別の意味で転用されていることをミームと呼んでいる)」

 「また、人々の思い付くアイデアもコピーされ、変化していく。
  このように進化は止まっていない。
  非常に基礎的な進化論が、
  私たちに警告しているのかもしれない。
  あなたと私の違いは、今は見えなくても明日には現れるかもしれない、という事実です」

 コピーすべきものが選ばれ、新たな意味が加えられ、常に変化していく。
 そこには理性が介在していない、予測も理解もできない。
 それが自然選択の論理…

 「70年代に我々が心を踊らせたAIは、大きなメインフレームコンピューターだった。
  それが今はJavaを用いたシミュレーターで動かすことができる。
  スマホでも動かせます。
  昔のプログラムやその子孫は、生かし続けられるということです。
  ソフトウェアはDNAと同じように、永遠になる可能性がある」

 情報は、DNAと同じように永遠に生き残るのだ、と。
 そこには、進化と同じく理性も設計図もない、と。

 近代科学では、精神と身体を分け、
 精神が身体を動かす、というデカルト的二元論が主流だった。
 この考え方だと、精神を動かす精神、その精神を動かす精神、…
 と無限論になってしまう
 デネットさんはこれを「デカルトの重力」といって批判しているそうです

 精神を優位に考え、
 理性が意識を動かす、と考えていては、
 意識の本質にはどこまでもたどり着けないのだ、と。
 二元論から解き放たれたとき世界の見方は変わる、と…

 じゃあ人の意識はどこから来るのか?
 デネットさんは我々の文化的背景だ、という
 さきほど話していた、理性に拠らない、自然選択的な進化をし続けている文化です

 「想像力や創造性は、人間にあり他の種にはない、とても高度な能力です。
  絵筆を鼻でつかんで絵を描く象や、
  飾りつけをするチンパンジーがいるという人もいるが
  それは本当の芸術でも科学でもない。
  私たちの種の創造性は、ほぼ完全に文化的背景に依存している、
  それは論理ではなく、ある文化の体系(コード)に埋め込まれてきたものです」

(ナレーション)
 「論理で分からないざわめき、
  理屈とは違う胸騒ぎ、
  芸術の本質は主体の分裂?」

 「人間は文化のなかで育ち、言葉を覚える。
  文化はOS、言葉はトップ(脳)に入れられたアプリのようなもの。
  そのアプリのお陰で人間には創造性がある。
  脳内の特殊な物質のお陰ではない。
  人間の脳は、魚やチンパンジーと同じ物質でできています」

 「そして脳内の物質ではなく
  脳内にある情報こそが人間を創造的にしている。
  ですから、原理的には創造性をもつAIを作ることは可能です」

 文化というOS上で、言語などのアプリがインストールされ
 情報がそのアプリに入り、
 そこから創造性が生まれる、とデネットさんはいう。

 この文化は何千年もかけて進化してきたもので、
 そこから生まれる創造性は人間という種に特有なもの、と彼はいうが
 AIの創造性も評価する人もいる

 ケヴィン・ケリーさん(次回の主役)
 「AIは非常に創造的になる。
  ポイントは人間の創造性とは異なること。
  「Think different」
  発想を変えることこそが、富と進歩のエンジンだからです。」

 「いかなる文化でも、成功のポイントは
  他と異なるやり方ができること。
  違う考え方をし、異なるアイデアをもつこと」

 「70億の人間がスマホで繋がれている現状では、
  異なる考え方をもつのは大変です
  でもAIの創造性は全く別で
  アルファ碁(ディープマインド社が開発した囲碁AI)に負けた囲碁チャンピオンのイ・セドル
  第3局の37手を「素晴らしく創造的な手」といった
  この対局はその後の人々の囲碁の打ち方を全く変えた。
  発想の違いを生かすチームとして、AIの創造性は活用できる」

 人間との違いを多様性と見れば、ポジティブになる

 (うーん、ここは両者に同意する。
  人間は精神だけが知性を生んでいるのではない。
  自分個人の身体経験もそうだし、
  過去の人間、他の人の経験も含まれた文化や知識がすべてあわさって創造性が育まれる、
  そういう、五感から、あるいは過去から得た情報を統合して何かをアウトプットする、
  というのは人間にしかない能力だと思う。
  AIの創造性、と言っても、そういう人間が育んだ情報をインプットしないことには
  何も生み出せないわけですし…

  一方でAIは、人間よりもはるかに多い情報を処理し、別の進化の仕方をしているとも言える。
  人間の場合、情報の洪水に飲み込まれないよう、
  必要ない情報は無意識のうちに忘れたり、除外してしまうけれど
  それを全くしないAIは、それはそれで全く別の進化をして別のものを作るのだろうと思う。
 
  互いにできないことを互いに補い合うことで
  全く別の発想が生まれる、というのは考えられることだと思う)

 (ナレーション)
「AIの出現は
 コンピューターの発展の道筋が人間と進化論と似ていることを教えてくれた、
 とデネットさんはいう。
 脳だけ、精神だけが身体をコントロールしているわけではないとしたら
 創造性とはどう位置付けられるのか?」

チャプター3「創造性はコントロールできない」
 (ナレーション)
「映画、小説、ゲーム、音楽
 クリエイティブの成果を人間はなぜ求めるのか?」

 デネットさんは
 「小説家は、自分とは異なる性別の視点から作品を書ける能力を誇りとしていますよね」

  たとえば女性小説家が男性の視点を持ったり
  男性小説家が女性の視点を持ったり…

 「こういう試みは常に行われている、現状では機械にもできる。
  もし男性が出産にまつわる不安や喜びなどをきちんと想像し、言葉にできれば、
  世界中の母親から称賛を浴びる。
  それは経験を意味しない。
  相手のことを想像しただけなのです」

 小説における創造、とは虚構を作ること、
 経験の有無は必要ない
 創造性をもつとは、読者を欺くことでもある?

 そこから、デネットさんの話はちょっと怖い方向に…
 「AIの能力レベルによっては、
  主体性を持っていようといまいと、
  人間の世論や個人の考え方を扇動政治家、デマゴークよりも
  うまく操作するテクニックを発見することはあり得る」

 つまり、小説家は、実際は経験していないことにリアリティを持たせる能力があり、
 それを我々は小説家の創造性と呼ぶが
 それがもしAIにも生まれたら
 人間の心に、ありもしない被害妄想などを植え付けたり
 誰かに対する憎しみなどもリアルに呼び起こしたりできるかもしれない、ということか?

 「重大な可能性です。
  激しい競争が始まっている。
  親は、子供に警戒するよう促す。
  それでも新たな悪者は常に現れ、新たな詐欺や裏で糸を引く黒幕が登場する」

 「だからこそ、常に油断せず
  批判的な考え方をもち、
  まっとうな視点をもつ人間になろうとせねばならない。
  今も防御につとめているが
  し烈な競争下では、たいてい防御より攻撃の方が
  安価に素早く手に入れやすいのです」

 「我々は負けるかもしれません、
  AIイノベーションの次のラウンドでは、
  AIの人を操る力が破滅的になるかもしれない。
  その可能性はある、用心しなければなりません」

 自律性と欺く能力は表裏一体、
 我々はAIに騙されても意識を作ろうとするのか?
 心の探求は続く…というナレーションで終わっていました

○感想など
デネットさんの考え方は概ね同意できるなぁと思ったんですが
 最後の「AIの人を操る力」というのが
 少々納得いかない、というか…。
 人間対AIの対決、という印象になってしまう。

 でもこれはAI自体の問題というよりは
 使う人間側の問題になるのでは、と私は思う。
 悪意をもつのも、裏で糸を引くのも
 全部人間がやることで
 AIは道具としてそういう悪党に利用されるだけなのではないか、と。

 もし自主的に破壊的な意思をもつAIができるにしても
 それはそのように育てる人間の悪党がいるからなのでは?
 AIに、というより
 そういう人間自身の悪にこそ警戒すべき、
 ハッカーと同じで、むしろ人間の取り締まりや対策を考えるべきだと思う。

 そしてその可能性があるから、
 私自身、デネットさんが最初の方で言っておられたように
 「安易にAIに意識を持たせるべきではない」
 とも思っています

 もちろんデネットさんがおっしゃっていたように
 AIが仕事やだ、て言い出したらめんどくさい、
 というのもあるけど。。

・というか、AIに意識を持たせられるのかなぁとも思う。
 デネットさんは、脳内の情報が意識を作るとおっしゃっていたが
 私は意識はもっと複雑なものだと思う。

 意識は脳内の情報だけではなく
 手足など身体が受けたり、身体が持っている情報からも作られると思う。
 臓器からの情報伝達物質が、脳に影響を与えるという研究もありますし…

 さらに感情も意識に大きな影響を与える。
 そしてその感情を作るのは本能、根源的には人間の切実な生存欲で、
 それは限りある命をもつからこそ生まれるものだと思う。

 つまり人間の意識というのは
 もちろんデネットさんのいう、文化とか歴史なども関わるのだが
 人間が身体や命を持っている、
 という特徴にも大いに関わっていると思う。

 だから意識をもしAIが獲得するとしても
 人間のビッグデータをコピーした結果でしかないのではないかと。
 逆に言えば、いつまでも人間の教師データを入れてやらない限り、
 つまり人間なしには、
 彼らに意識(といっても疑似意識というべきものだろうけど)
 は生まれないのではないかと思います。

 意識を持たせるとしたら、何か体験がないとダメだろうなぁ。
 頭でっかちで本読んでばかりの人間がつまづくことがあるのと同じで、
 体(AIならセンサー?)を使った体験はどうしても必要かなと思います

 それでも、人間みたいにあらゆる情報を捉えるセンサーを備え付け
 そこから必要な情報のみを抜き出して統合する能力、
 を獲得させるのはかなり難しいと思う、
 それこそデネットさんのおっしゃるように、
 その能力は進化の賜物だから。

 私自身は、あくまでAIは人間とは別の種、みたいな扱いにしていく方がいいと思う。
 AIを人間に似せる必要はなくて、
 AIにしかできないこと、
 人間にしかできないことを
 互いに補いあう関係でいいんじゃないかなぁと思っています。

 私は意識を持たせるとかよりも
 ケヴィン・ケリーさんのおっしゃるように
 AIならではの発想を、人間の新しい創造への刺激として使う、
 というやり方にワクワク感を感じます。

 絵を描くAIとか作曲するAI、小説AI、
 職人の仕事をするAIなども出てきていますが
 そこを人間が仕事を奪われる、とネガティブに捉えるんじゃなくて
 新しい発想を提供してもらうとか、
 人間のできない作業工程
 (工作なら複雑な彫刻、小説なら裏付けとなるデータ集めなど)
 を一部AIにしてもらって、人間はその結果を見てまた新しい発想を作る、
 など、もっとポジティブに使っていければいいかなと思います。

 AIと人間、たまに間違いも起こすけど
 思いもよらない発明をしあう同士として
 仲良く共存できればいいなぁ。

 それでも人間には悪が同居していると認識はしておくべきだと思う。
 自分の利益のためだけに使いたくなる場合もある、
 それが問題を起こすことがある。
 そこにこそ対策すべきかなと思いました。

色々考えさせられました。
というわけで今回はこの辺で。

NHKBS1「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」(後編)

NHKBS1「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」(後編)

「欲望の資本主義」スピンオフ番組の貨幣論、後半です。

後半の最初は、今回の主役、岩井克人さんの言葉から始まる。
 「貨幣は自己循環論法によって、価値が支えられている」

 「制約が無くなった現代社会は自己崩壊する、
  不純物のない市場経済は崩壊する危機がある」

その次に紹介されたのは、今までこのシリーズで登場しなかった意外な偉人の話でした。
「第6章 古代の男が見抜いたパラドックス
 2300年以上の昔、貨幣の不思議に気づいたのが
 アリストテレスだそうです
 紀元前までさかのぼるのね…。

 岩井さんは
 「古代ギリシャは、長いこと相互交換社会(貨幣のない社会)と思われていた」

 しかし最近の研究では、
 アテネなど大都市ができてからは
 貨幣経済だったことが明らかになっているらしい

 岩井さんによれば
 アテネのような大きな共同体では
 いろんな人が共存しなくてはいけない、
 「そのために共通の尺度が絶対に必要だ、とアリストテレスは考えた」

 「ニコマコス倫理学」では
 「貨幣は人と人との違いを超えて、共同関係を可能にする」
 「交易されるものを比較し、その差を量として計ることもできる」
 と書いているそうです

 岩井さんは貨幣がアテネに民主主義をもたらした、という。
 「それ以前の共同体は、様々な束縛のなかで生きていた、
  そのなかでは内と外があり
  内の社会ではお互いに顔を知っている」
 
 「しかし貨幣は、人間を共同体の束縛から逃れさせる
  貨幣さえ持てば、独立した人格を保てる」

 マルクスの有名な言葉に
  「貨幣は主人を持たない」
  「貨幣は急進的な平等主義者」とあるそうで

 「貨幣は人間を共同体の規制から外せる、
  貨幣さえ持てば、人は独立して生活を営める。
  それが一種の民主主義、
  一人一人が票を持った市民の自由なんですね」

 つまり個人に自由をもたらしたのが貨幣だった、と。

 アリストテレスはまた、この自由のはらむ危険についても指摘している
 「貨幣による財獲得から生まれる富は際限がない、
  なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲するからだ。
  生きる欲望に果てはないのだから、
  彼らは満たされない際限のない財を欲することになる」
  (「政治学」)

 岩井さんは
 「お金さえあれば、世の中全てのものを変える可能性を与えてくれる。
  貨幣は人間に可能性を与えてくれる存在なんですね。
  可能性は限りがないので、人間に無限の欲望を引き出す。
  これを最初に指摘したのがアリストテレス

 貨幣が人間の欲望を引き出してしまうと、どうなるか。
 「本来手段だった貨幣が、
  可能性を与えてくれるものとして目的化し、
  目的と手段が逆転し
  無限の蓄積を産んでしまう」

 お金は、人間が欲する自由、可能性を与えてくれるので
 お金をためることが目的化してしまう、と…

 「貨幣は元々交換のための手段、
  しかし次第にそれをためること自体が目的化する」
  (「政治学」)

 岩井さん
 「「無限の蓄積を産み出すと、必ず共同体の秩序を壊してしまう」
  この洞察は、ある意味人類最大の洞察です。
  無限の欲望に取りつかれた存在は
  当然、自分が生まれた共同体の規範や秩序を壊す」

 「ある意味人類がお金を初めて使った、
  貨幣が近代を産み出したが
  それが近代にとっての脅威として現れる」

 貨幣が人々に平等、自由、可能性を与えてくれた。
 だからこそ人々の欲望の対象となってしまう。
 共同体、社会すらも破壊するようになる…

さて、次はその欲望に免罪符を与えた、アダム・スミスの話です
「第7章 経済学の父の過ち?」
 チェコの経済学者、セドラチェクさんは「2017」で
 (この辺は未放送の分?)
 「経済学の基本的な考えだが、
  二国間で貿易を行うときは
  異なる二国間であることが必要」

 「もしあなたと私が同じ人間なら、交換するものは何もない。
  お互い何を言ってもagreeというだけだ、
  初めはそれで満足するかもしれないが、
  2分もたてば自分の影か鏡と話をしている気分になるだろう」

 「理想的な交易は、全く異なる二国間で行うこと。
  私の欲しいものをあなたが持っていて、
  あなたがなし得ないことを私ができる」

 「それが基本的な経済の重力です、異なる2つのものを引き合わせる」

 「私に言わせれば、2つの国を繋ぐものは愛ではなく経済だ。
  60年代、ヒッピーは「戦争ではなく愛し合おう」と行っていた。
  これは理想的だが、あまりにナイーブすぎる。
  本当は「戦争より貿易しよう」だ、
  EUの最初の目的です」

 貿易、経済が国を結びつける。
 しかし、イギリスはEU離脱を決め、そのイギリスでは世論が真っ二つに分かれている
 1つの通貨による国同士の連合は崩壊するのか…

 ここで登場するのが、経済学の父、アダム・スミス
 「国富論」(1776)
 人々が利益を求めれば、見えざる手に導かれ、社会全体の富が達成される、と唱え
 資本の自由、交易の自由に免罪符を与えた

 岩井さんは
 「アダム・スミスは、貨幣については深く思考していない。
  どちらかというと実物を重視した。
  アダム・スミスにとっては貨幣は中立なもので、
  潤滑油のようなものと捉えていた」

 アダム・スミスは貨幣について
 「貨幣はモノを買うこと以外には何の役にも立たない、
  貨幣の力を証明しようとするのはバカげている」
 と書いている
 つまり、貨幣が持つ、欲望を誘引する力を考えていなかったフシがある。

 岩井さんは
 「私は、スミスについては尊敬もしているが
  貨幣に関する思考を止めてしまったので、
  自由放任主義思想的な理論を打ち立てることができた、と思っている」

 彼は貨幣のはらむ欲望について気づかなかったのか、あえて無視したのか…

 (この辺はナレーション)
  アダム・スミスの理論で
  会社は利益、国家はGDPという数字を追いかけるようになる、
  80年代に入り、モノから情報に付加価値が移ったのに
  皮肉なことに新自由主義が起こり、資本の自由に脚光が浴びた

  市場の自由な競争に委ねる論理は
  フリードリヒ・ハイエクの理論により支えられたといわれる

  スミスとハイエクは、市場は自由のためにこそある、と考えていた
  しかし数字のゲームが人々の心をとらえ、翻弄していくことは予期していなかった…

  絶え間ない数字の競争は
  社会主義の崩壊により拍車がかかる
  資本はグローバル化し、貨幣のみが勝利する

  欲望のバブルは2008年にはじける

 ジョセフ・スティグリッツさんは「2017」でこう言う
 「アダム・スミスには間違っていたことがあった」

  スミスのいた18世紀の社会は、本格的に資本主義が始動していなかった、
  だから彼は現代の経済の姿は予想出来なかった、
  彼が資本主義の行く末まで理解していたわけではない、と。

 そして、
  2008年のリーマンショックの手前まで
  経済学者はアダム・スミスに頼りすぎ
  市場の自己調整機能があるからバブルは心配するな、
  と喧伝していた罪がある、と話す。

 「自己利益の追求、
  経済学者が「インセンティブ」と呼ぶものは
  たしかに現代の市場経済では中心にあるものかもしれない」

 しかし彼は言う、
 「見えざる手はいつも見えない、
  そんなものは存在していなかった」

そのような資本主義の不安定さ、
自由放任主義の欠陥を見抜き、指摘したのがケインズ
岩井さんは
ケインズは正に、アリストテレスの再来だと思います」

第8章「美人投票」が生む偶像
 岩井さんは
 「ケインズは株式市場の投機がなぜ不安定なのかについて
  株式市場は「美人投票のようだ」と言った」

 イギリスの紙面で1936年の「一般理論」の中で
 イギリス紙上に60人の女性の顔写真を掲載した記述があるようですが
 この美人コンテストにはヒネリがある
 「最も美人だと思う人に投票をしてください、
  ただし、賞金は最も票を集めた女性に投票した人に差し上げます」

 この結果どうなるかは
 「2017」でセドラチェクさんが解説していて
 「自分はほかの人の投票先を予想して、
  他人はほかの誰かの投票先を予想して、…の無限ゲーム、
  つまり自分の好みを選んでいるわけではない」

 ここには多くの意味があり
 ・株式市場もこれと同じ、
  そこでは自分の好きな会社ではなく、沢山の人が好きであろう会社に投資する
 ・誰の好みでもない女性が選ばれる
 ・このとき、審査員はこれが好きだろう、という「固定観念」を用いる

 「固定観念はこだましていき
  誰の好みでもない女性が選ばれてももう誰止められない」と。

 岩井さんは
 「ケインズは、貨幣は資本主義では必要だが、
  様々な資本主義の問題を起こすと言った」

 「ケインズが描こうとしていたのは
  投機市場というのは、
  非合理的な人間かいるから不安定になるのではない、全く逆だ、と。
  人々は合理的に行動している、
  他人の心を読もうとする意味では合理的に行動している。
  それが逆に不安定さを生むと言っている」

 「これは自由放任思想に対する根源的な批判です。
  合理性が不安定性を生む」

 その問題は現代にも増幅されていて
 「AIがほかのAIと競争して価格が形成されて、
  今モノの価格がすごく乱高下している。
  AIはある意味、人間の合理性を越えた合理性を持つ人たち」

 「ケインズ美人投票の理論は、正に現代に起きている。
  ネット上で起きていること全てに通じている。
  それは美人投票の茶番で
  「いいね!」が集まれば人々の評判になっていく、
  これはある面で最も不安定です。
  勝ち馬に乗ってたら勝つだけの話で、
  「いいね!」が集まる根拠はない」

 うーん、なんかここは深い話だなと思う。
 理性的、合理的などと我々は言うが
 合理的だ、と思い込んでいるだけで
 実は人の行動は、もっと感情に左右された、
 曖昧なものなのかも…

 特に、相手の気持ちや周りの空気を読むなどという作業は、
 もともと合理的でない人間の気持ちを推測するわけだから
 本当に合理的に考えちゃったら不可能で、
 その証拠に、AIは人の心が読めない。

 合理的に行動しているつもりでできていない、
 それは感情を持つ人間の根源的な性質なのかもしれない。

第9章 テクノロジーは数字の夢を見るのか?
 スティグリッツさんは「2017」で
 「市場とは、ある日誕生したのではなく、進化し続けてきたものだ」という

  彼によれば昔の市場はとてもシンプルだが
  「産業革命」が大変革をもたらした、という

 「人々のマインドセットを変化させた、
  科学的方法論により生産効率を上げ、生産方法を変えた」
 つまり産業革命が、市場を複雑化させた、と。

 しかし岩井さんはこれとは別の意見で、
 「技術の進歩と消費との関係は、
  蒸気機関ができたから産業革命が起き
  それで産業資本主義が生まれた、と言われる
  しかし私は因果関係は逆だと思う」

 「資本主義はもはや、重厚長大の機械制工場を利潤の源泉としない時代。
  資本主義は、収入から票を引いた引き算により計算される「利潤」を求める。
  収入が費用を上回るという引き算に差がありさえすれば、
  そこにお金を投資すべき、となる」

 「何でもいいから違いを作ることが資本主義の行動基準で、
  何しろ違いを作る。
  つまり、新しい技術を作るということは、
  費用を下げることで差異を生む、ということ。
  新しい技術革新を生むことは、
  それ自体、結果的に資本主義の無限の利潤を追求する
  プロセスの中に組み込まれている、ということ」

 利潤、差異を生むために産業革命が起きた、と。

 「2018」でマルクス・ガブリエルさんも似たような話をしていました
 「資本主義は何処までも拡大し続ける性質だからね」
 「「has to」(~でなければならない)だ、
  資本主義は成功という概念の上に成り立っているシステム、
  成功は非常に重要だ」

  …そしてひとたび成功するとしても
   その後も成功者であり続けるには
   新しいことをし、
   成功し続けなければ自己を維持できない、と。

  そのために
 「見えていなかったものに目をつける、
  新たに存在を見つけ、価格をつける
  それが資本主義の特性だ」と。
 なんでもいいから値段を付けられる、新しい差異を探しつづけなければならない。

 ガブリエルさんは資本主義について
 「商品生産に伴う活動全体」と定義するが
 現代の資本主義は
 「商品の生産そのもの」 になっている、という

 「そもそも生産する(produce)とは
  前に(pro)持ってくる(duce)だ。
  つまり商品の生産とは、
  言わばモノを見せるショウなのだ」

 値段の付く物や差異を見せるショウと化しているのが最近の資本主義。
 そして、そのバーチャルなショウを演出しているのが
 GAFAGoogleAppleFacebookAmazon)と呼ばれるプラットフォーム会社。
 
第10章 外部を消費し尽くした先に
 ニューヨーク大学のスコット・ギャロウェイさん
 彼はGAFAを批判する本を書いている

 「2019」でもGAFAを批判していて
 「彼らがあまりに強大になったことは、
  今の経済の深い病を意味する」と話す。

 彼はGAFA時価総額はドイツのGDPに匹敵する、といい
 「ヨーロッパても日本でもアメリカでも
  もはや人間性は賛美されない、
  その代わり英雄として賛美されるのはテクノロジーの億万長者」

 「利益が彼らの目的で
  彼らは我々の老後の面倒も見てくれないし、
  我々がどう感じるかも関心がない」

 彼らの覇権を「技術による独裁」とも表現し
 「巨大になりすぎた醜さもある」
 「ビッグデータの売り上げと中産階級の賃金は正反対を示している」
 「ビッグテックの利益が増えるほど、
  中産階級の賃金は横ばいか減少する」

 「勝者が一人勝ちする経済ができはじめている、
  何万人の億万長者と一人の一兆長者、
  私たちが望んでいるのはどっちだ?
  アメリカ社会は300万人の地主のために、3.5億人の奴隷が仕えているようなものだ、
  それは我々が生きたい社会なのか?」
 と痛烈に批判する

 岩井さんは今の資本主義の問題について
 「私のやっている研究では、
  不純物のない市場経済は常に崩壊する危険がある、と考える」

 今の資本主義は、アリストテレスのいた古代ギリシャの資本主義と何が違うか?

 「(今の社会は)資本主義が普遍化して
  資本主義は点が線となって貿易となり
  線が面となってグローバル化している」

 「今我々が直面している資本主義は
  グローバル化して、もはや外部がなくなってしまった」

 貨幣の増殖がますます増加し、
 ますます自由になり、ますます世界が広がり…
 「純粋な資本主義になってしまった。
  資本主義は基本、それ自身で自己完結し得ない。
  従来の資本主義では
  古代ギリシャは地中海やインド洋など、
  常に外があって不純物があった、
  それにより資本主義の持っているいろんな問題がチェックされた」

 「しかし今は資本主義が純粋化されることで
  資本主義の持っている本来的な不安定、破壊性が
  全面的に出てきてしまった」

 「貨幣は無限に蓄積される。
  しかも無限に人間に自由を与える。
  自由を与えるということは、必ず格差ができる、
  格差というのは、成功する人もいる、失敗する人もいる…
  貨幣ができた世界は
  人々を金持ちから貧乏人までランク付けしてしまう」

 「この、資本主義の不平等…
  資本主義の自由に必然的に結び付く、不平等や金融危機や環境破壊だとかが
  地球を覆うようになってしまって、制御できなくなってしまった」

 「それに対して、民主主義の側の国家が弱くなってしまった、
  法の支配が十分効かなくなって
  従来の自由と民主主義のバランスが大きく崩れてしまった」

 (…「かつて外部があった時代」は比喩なので、具体的に何を指しているのかが分かりにくいが
  私なりに考えますと

  たとえばアテネ奴隷制度や
  大航海時代のヨーロッパによる植民地支配などは、資本主義の歪んだ形。

  この時代の資本主義は、搾取される人たちの存在で維持されていたが
  搾取される人たち(奴隷や植民地の人)が資本主義世界の外部にいたから、
  その存在は顕在化したともいえる。

  逆に今は、搾取される人たちは内部にはいるけど、
  自由とか競争の結果の自己責任、
  という名の元に置き去りにされている。

  また、社会主義
  資本主義において、貧しい人、社会的弱者など、
  競争に入れない、生き残れない人たちへの生活保障が
  なおざりにされていることへのアンチテーゼとして生まれたわけで、

  逆に言えば、社会主義が生まれたからこそ、
  資本主義での社会保障の問題が顕在化したとも言える。
  だから当時の資本主義(戦後~60年代)では
  金持ちへの課税を増やすなどの政策も取られた。

  しかし、今はトリクルダウン理論(金持ちが儲かれば結果的に貧乏人も潤うはず、という理論)の元に、
  金持ちへの課税が減らされ、ますます貧富の差は拡大している。

  つまり問題は内在化して見えにくくなっている

  さらに、お金を持つ人が、政治家への献金を通じ、政治力も持つようになっている。
  彼らに有利な税制しか残らなくなっていて、
  法の平等も脅かされつつある…

 この辺の話は、「2018」でガブリエルさんとセドラチェクさんが議論していた「悪」の本質
 つまり哲学者シェリングが言う
 「システムが自己を維持し続けるためには
  他を排除し続けなければならない。
  システムの拡大の果てに外部が無くなったら、
  内部に異質なものを作り、排除し続けなければならない。
  …それが悪の本質である」
 という話を少し思い出しました。
 資本主義も拡大し続け、外部が無くなったとたん
 内なる敵というか、
 排除される人たち、虐げられる人たちを内部に生み出している…)

ここで、新しい視点が登場する。
歴史家ユヴァル・ノア・ハラリさん
 「通貨のない資本主義を想像してください」

第11章 「差異」果ての光景
 ハラリさんは「2019」で(たぶんカットされた分?)
 「資本主義は合理的で効率的、コストをカットするシステムです、
  だが人々の欲望はそうではない。
  顧客の欲望はもっともっと非効率で贅沢です」

 「資本主義のシステムは、必ずしも人々の幸福を増やすわけではない。
  なぜなら人間の満足度は、所有や達成の量に比例するわけではない、
  これは資本主義の問題ではなく、人間性に関わる問題です」

 「歴史的に人間の欲望は、絶え間なく続く膨張しか見られない。
  欲望を満たせばそれで終わりではなく、果てしなく次が続く…」

 「それが人類の歴史の原動力となってきた、
  そのお陰で私たちが石器時代と比べて
  何千倍もの大きな力を得ている」

 「たしかに人間は強くなったが、
  もっともっと欲しがり、満足しているわけではない」

 資本主義は、欲望を増大させたが
 その欲望はいつまでたっても満たされることはない、
 というか満たされないからこそ、人間は進歩してきたんだ、と。

 一方アメリカの経済学者スティグリッツさんは、
 資本主義は欲望だけではドライブできない、という
 「「お金は資本主義の源泉」と人々は言うが、
  私が思うに資本主義がきちんと機能する理由は
  お金に動機付けされない人々の存在があるからだ」

 「究極の皮肉は、
  資本主義は人のお金の追求により支えられているのに
  それだけでは前進しないということだ」

 「資本主義に必要なのは新しいアイデアを発明して、それを試したり、やり方を考えたり
  社会貢献しない資本家を追求したり
  社会に危害を及ぼすような銀行家たちを是正するために働く人たちだ、
  彼らはお金のために戦っているわけではない」

 …ハラリさん、スティグリッツさんによれば
 ・欲望は破壊的なだけでなく、人間の進歩も促す創造的なものでもある
 ・資本主義は欲望だけでもない

 つまり資本主義にはいい面もありそうです。
 となるとますますわけが分からなくなるが

 ハラリさんは資本主義が崩壊した世界も予想する
 「未来の経済では、通貨は消えてしまうかもしれない」

 「今後数十年の間に、
  ドルや円やユーロなど、従来の貨幣の重要性は低くなっていくはずです。
  なぜなら、通貨よりもトランザクション(データ)に基づく売買の比重が
  高くなっていく可能性があるからです」

 「私たちの社会は、長い間リンゴの代わりに10円を渡す貨幣経済だった、
  つまり通貨を介した取引だった。
  政府も、通貨で税金を取っていた」

 「しかし今世紀には、多くの取引が通貨ではなく
  データの取引となる可能性がある、
  対価としてデータを交換しあうような経済になるかもしれない」

 「だからお金ではなく、
  データを前提とした新しい経済制度を設計しなければならない」

 世界を制するのは貨幣よりデータなのか?

 岩井さんも、資本主義の果ての「評価経済」の到来を予想し、彼はそれを危惧する
 「私たちは本来ならば自分で自分達の目的を設定できる、
  我々に自由があるはずの内面を
  GAFAはいつのまにか浸透してきている」

 「私たちは、自分で自分の目的を決定できる尊厳を持っているように思うが、
  GAFAはそれをマニピュレイト(操作)している可能性が出来ている、
  インターネットの社会において、これは最も怖いことの1つです」

 「評価経済とか、いわゆる信用経済が貨幣のない経済を産み出す、という主張があるが、
  私は評価経済は最も恐ろしいディストピアだと思う。
  つまり私たちの行動が全て評価されるのは、
  ある意味でジョージ・オーウェルの世界です、
  いま中国社会が向かっている監視経済は、まさにジョージ・オーウェルの世界」

 ジョージ・オーウェルは小説「1984」で
 ビッグブラザーと支配階級による監視社会を描いている
 そこでは言論の自由は無く、
 監視システムで常に見られている社会…
 評価経済はそれを具現化している?

 岩井さんは続ける。
 「ブロックチェーンの技術を使って、人々の取引、行動すべてを記録している、
  しかもそれによって人を評価しようとする 
  …それは悪夢です。」

 「評価経済になると、
  人々は評価に対して点数をあげようと、競争を始める。
  点数をあげるのに一番いいのは他人をスパイして、他人を悪いと密告すること…。
  ある意味ゼロサムゲームです」

 「問題は、評価すれば、必ず半分は平均以下になる。
  みんなが平均から上がろうとするプロセスは、
  際限ない評価の競争になる」

 人間性すら評価されるとしたら…

 (とナレーションでは言ってますが

  私が一番こわいと思うのは、
  その評価社会を、ネットの利用者が喜んで選んでいるフシがある、ということ。
  評価される人は、ビッグブラザーに敵対してるわけじゃないんですよね。
  「素敵な私を見て!」
  「もっと評価して!」
  「いいね!がもっとほしい、お金を出してでもほしい」と、
  むしろ好んで見られたがっている。

  プラットフォーマーからすれば、
  みんながやりたがるから提供するんだ、これこそ自由だという話になる
  どうしても無くてはならないサービスでもないのに、
  利用に駆り立てられるというのが怖い。

  中国の場合はもっと極端で
  評価に参加しないと、商品の売買にも参加させてやらないよ、となっているので
  自主的な参加の形を取りながら、
  ほぼ強制的なんですよね…)

最終章 欲望に拮抗する言葉
 この評価社会にどうやって太刀打ちするのか?
 岩井さんの処方箋は「尊厳」を守ること
 「どうやって人間の尊厳を守るか、
  まさに欲望の資本主義の時代に起きる最大の問題です」

 「貨幣を生んだ資本主義は非常に普遍的な存在で
  ほとんど引き算の問題でしかない
  この普遍性に対抗するには、やっぱり普遍的な原理が必要です、
  同情、共感、連帯、愛情などに依存しない普遍的な原理が…
  それを最もちゃんと考えたのは、イマヌエル・カント

 「カントがいうのは、人間とは尊厳を持っている、と」

 カント
 「すべての人間は、心の迷いと欲望を抱えているものであり
  これに関わるものは、すべて市場価格を持っている。
  それに対して、ある者がある目的をかなえようとするとき、
  相対的な価値である価格ではなく、
  内的な価値である「尊厳」を持つ」
 (「道徳形而上学言論」)

 「尊厳に、すべてを超越した高い地位を与える。
  尊厳は、価格と比べ、見積もることなど絶対にできない」
 (「道徳形而上学言論」)

 岩井さん
 「尊厳はほかのものに交換できない何か。
  カントは、物は価格を持っている、それは交換できるからで
  人間だけは交換できない、といった」

 「貨幣は人間を匿名にする、名無しの存在にする。
  これが貨幣の最も重要なところ」

 「匿名にするということは、
  (普段は匿名でない)人間が、
  ほかの人に評価されない領域を、自分でちゃんと持っているということ。
  それが人間の自由なんです」

 「自分自身の領域を持っていることが人間の自由だ、と思う。
  自分で自分の目的が決定できる存在(人間)は、
  その中に他の人間が入り込めない余地がある。
  それが、人間の尊厳の根源になるのです」

(ナレーション)
  共同体の呪縛から逃れ、自由を求めて貨幣を獲得した存在、人間。
  しかし幻想の貨幣愛がすべてを飲み込む。
  自由の足場である市場が、
  すべてを破壊しようとしているとしたら…
  貨幣はいつも、目的と手段を逆転させる…

 アリストテレスはこんな言葉を残している
 「いつわりの善からは、
  時がたつにつれて、いつか必ず本物の悪が現れる」

 欲望が、欲望を生む、欲望の資本主義。
 貨幣の重力から解放されるために
 貨幣のはらむパラドックスを見つめて…

○感想など
で、結局どーすんの?というもやもやが少し残ったが
私なりに色々考えてみました

・貨幣や資本主義、民主主義とは、
 人間の自由を拡大した、
 それまでの共同体のしがらみから個人を解放した、
 というアリストテレスの指摘が興味深かったです
 
 資本主義は現在、拡大しすぎて問題が色々出てきているが
 しがらみから解放されたい、自由でありたい、という人間の欲がある以上、
 必然的に必要とされるものなのかな、と感じる。

 先日読んだ「光の子、闇の子」という本では
 (民主主義や資本主義、共産主義が起きた理由、うまくいかなかった理由を
  人間の欲、善悪から考察した本) 

 人間には「自由、自己の拡大を求める欲」がある、とありました
 その欲望は、創造的な性質もあり、
 個人を血縁などの既存の共同体から解放し、社会や文化や芸術を作ってきた、と。
 一方で破壊的な性質もあり、
 自己の拡大欲が他人の拡大欲とぶつかることで秩序を乱してきた、と。
 
 そこで悲観的な人たちは
 個人の拡大欲を政府などの権力で抑え込むやり方を取ってきた(社会主義独裁制など)
 しかしそれは創造性も抑え込むことになってしまった、と。
 
 一方この拡大欲は理性で抑えられる、と楽観する人たちは
 個人の自由を放任してきた(自由資本主義など)が
 特定の権力を持つ個人が拡大しすぎ、格差や搾取などの問題を生み出してきた、と。

 だからこの創造性を抑えすぎないようにしつつ、
 破壊的な面を上手に抑制していくことが大事だ、と書いているのですが

 その話を今回当てはめてみると
 自由、自己の拡大の欲望がもたらす創造的な面というのは、
 ・アリストテレスのいう、個人の共同体からの解放、個人の独立
 ・それは資本主義、民主主義を作る
 ・カントのいう人間の尊厳にもつながる
 ・ハラリさんの指摘する、歴史上の人類の進歩
 ・スティグリッツさんの指摘する
  新しいアイデアの創造、
  強欲な銀行家を批判したり、社会貢献を資本家に求める精神 …など

 一方でこの自己拡大欲のもたらす破壊的な面は、
 ・アリストテレスのいう、共同体や秩序の破壊
 ・ケインズが指摘した、不況時に必要以上にお金を得ようとする行為
 (未来への不安、自分を維持したいという思い)。
 それから岩井さんのいうような、
 ・評価社会における、他人を蹴落としてまで平均以上でありたい欲、など…

 これらを眺めてみると
 単純に権力で個人の拡大欲を抑える、
 つまり資本主義に過剰な規制を与える、
 という処方箋は無理だし、ダメだろうと思う。
 個人が自由でありたい欲は止められないし
 その欲が生み出すものは果てしなく価値がある。
 個人を抑える権力自体が欲を持つ、という弊害もある。
 
 岩井さんは、「個人の尊厳を守る」という処方箋を出しておられて
 具体的にどうするの?というのが分かりにくいのですけど
 私の解釈では、

 「私の自由と共にあなたの自由も守る」

 ということかなと思いました
  
 例えば、評価社会、貨幣の無い社会を選びたいと思う人はそうすればいいが
 選ばない人の選択も尊重すること。
 (そういう意味で、評価社会を選ばねばならない中国は、よろしくないケースだと思う)

 資本主義が行き過ぎて、特定の個人(資本家)の権力が大きすぎて
 貧しい人や競争の敗者の自由が確保できないとなったら
 弱者や敗者を救済する手段も考えること。

 自由がない人が「自由をくれ」という手段を確保すること、…

 なかなか制度としては設計しにくいのかもしれないけど
 その辺は政府などが中立になって考えることも必要だし 
 競争の強者も、自分が勝てたのは負けた人がいるおかげだ、ということを思い出して
 考えねばならんことなのではないか、と思います

 というか、ダントツに勝ってばっかりって、そんなに楽しいか?と思う。
 勝者が一人勝ちするよりも
 貧しい人にも豊かになってもらって、
 どんどん物を買ってもらう方が、みんなにとっていいと思うんだけどね。
 
・ハラリさんは、「貨幣の無い時代が来るかも」という話をしていました。
 代わりにデータ貨幣が来る、と。

 私も貨幣の無い世界が来るのか、
 と少し考えてみたのですが
 私の今のところの結論では、
 貨幣は何らかの形で残るのではないか、と思います
 
 理由は三つほどあり、
 一つは前半でも話があったが
 人間は五感、身体を持つ生き物なので
 価値あるものに対する実感や体験を求める生き物だと思うからです。

 前半で、お金とは、みんなが信じていると思うから成り立つ幻想のようなもの、と言われていたが
 なぜみんなが信じられるかと言えば、お札なりコインなりの実体があったからだと思う。
 データ社会になり、お金の幻想性にみんなうすうす気づいてきたにしても
 実感できる形がないと、金融危機などの非常事態になれば自分が何も持っていないと感じ、
 一気に不安に陥るような気がするのです。

 誰かに支払い、もらう、そういう在り方は残るんじゃないかと思う。
 
 そしてもう一つは、データは実体がないがゆえに消える、ということ。
 もちろん今では中国など、電子マネーが普及しているが
 あれは危ういものかなあと個人的には思う。
 データがハッキングされたり、データが消えたらどうするのか。
 データ貨幣やばい、となってみんな手を引いたらどうするのか。
 そうするとデータ貨幣の価値は無くなってしまう。

 それからもう一つは、
 貨幣での支払いシステムははシンプルで分かりやすく、誰にとってもルールが平等なこと。
 データ貨幣の場合、システムを作るには複雑な知識が必要で
 構築する人、利用するだけの人で知識が違う。
 そのシステムが信頼できればいいが
 システムを作る側が、自分たちに有利なようにシステムを作ることだってできる。
 また、複雑ゆえにシステムに問題があった時、復旧に時間がかかるかもしれない。

 要するにシステムが複雑ゆえに不安定だし、
 まあこれは私が古い人間だからかもしれんが、実感がないから今一つ信頼しづらい。
 だから主流になるのか、疑問が残る。

 一番大事なのは、
 現金がいい、という人が現金を使えるように
 またデータマネーの方が早くていい、という人もそれが使えるように
 いろんな選択肢が残されている、
 選ぶ自由も確保されている、ということなのかな。

・資本主義や民主主義が何でこんなに長いこと生き残ってきたのか…
 それは、人間の自由、開放をもたらす手段だからだ、と感じました
 自由を求める、というのは根源的な欲求だと思う。
 だからこそ、今後も形やルールを少しずつ変えつつも
 これらのシステムは生き残っていくのではないか、とも感じました

 その中で、「人間に自由を与える」という本来の資本主義、民主主義の意義に立ち返りつつ
 さらに「人間は自由を許されれば、どこまでも自由を拡大したがる強欲な生き物だ」という認識もしつつ、
 貧者の自由も弱者の自由も保証する仕組みを
 今後担保し、保っていくことが大事だ、と思いました

 色々考えさせられました
 というわけで今回はこの辺で。
 

NHKBS1「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」(前編)

NHKBS1「欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019」(前編)

2017年から、お正月に放送されている「欲望の資本主義」
今回はスピンオフ番組ということで
貨幣論」についてだそうです

「2019」では仮想通貨の話も出てきましたし、その流れかなぁと思いますが
今回の主役は日本で貨幣論を研究してきた経済学者、
岩井克人さんでした。

ざっくり内容を言うと
前半は「なぜ我々は、ただの紙切れのお金自体に価値を見るのか」
後半は「今後の資本主義はどうなっていくのか」
についての岩井さんの理論を展開しています

それに合わせて、今まで放送された(あるいはカットされた)
「欲望の資本主義2017」「2018」「2019」
での知識人たちのインタビューも盛り込まれていました

では前編から。

冒頭、岩井さんの、貨幣についての言葉から。
「それ自体何の価値のないものが
 世にある全ての商品と交換可能な価値を持つ。
 無から有が生まれる、
 貨幣の神秘がここにある」

岩井さんは、半世紀にわたり資本主義と見つめあい
貨幣論」などの本を書いているそうです

「第1章 仮想の夢が世界を駆ける」
 最初は、仮想通貨の話から。

 「欲望の資本主義2019」に登場した数学者、チャールズ・ホスキンソンさん
 彼は3つの暗号資産(仮想通貨)の立ち上げに関わっているそうで
 「2019」でも仮想通貨の素晴らしさを語っていました

 「中央集権制のシステムから分散型システムに移行し、世界に広がる。
  世界が1つになる」

 彼は、
  仮想通貨システムは、
  お金というものが、国や政府の保証は必要ないことを示した、
  自分たちでシステムを決めればいい、
 ということを話す。
 
  今のシステムではクレジットカードを作れなかったり融資を受けられない人がいるが
  新しいシステムなら、だれもが同じ市場にアクセスできる、と。

 岩井さんは仮想通貨について、
 「1万円札や500円玉を使うとき、紙幣やコインを使って支払う。
  ビットコインは相手に渡したあとも、
  数字として自分の手元にコピーできる」
 これを「2重支払い問題」といい
 「支払いとして数字を使うときの最大の問題」
 と岩井さんは言う。

 その2重支払い問題を解決するのに考えられたのが
 ブロックチェーンの仕組み。

 この仕組みを世に出したのが、
 リーマンショックのあと、サトシ・ナカムラという名前で発表された
 わずか9ページの論文
 「ビットコインP2P電子通貨システム」

 …ブロックチェーンシステムでは
  取引データがある程度まとめたものを1つのブロックとする
  取引ごとにブロックがたまっていき、チェーンのようにつながる
  この結果、誰も改竄できなくなり
  貨幣としての信頼性を得る
  信頼性を保つのは国家の保証ではなく
  採掘(マイニング)と呼ばれる、コンピューターの計算競争
  マイニングには、ネット上で色んな人が参加できる

 岩井さんは
 「計算競争で、2重支払いではない、と最初にチェックできた人が報酬をもらえる、
  お金が偽金じゃないことのチェックを、
  市場参加者に任せている、
  それだけではなく自己利益を追求している」

 「これは、アダムスミスの自由市場の理論をお金に応用している、
  そこがビットコインの面白いところです。
  というか徹底した自由市場ですね」

 「アダムスミスの「見えざる手」の働きを、
  ハイエクの「貨幣非国有化論」の助けを借りて
  お金の発行、チェックまで自由を及ぼして、
  純粋な自由放任主義の仕組みを作ろうとしたのがビットコイン

 ハイエクは自由競争を追求し
 「通貨自由化論」で、
 通貨は自由に発行されるべき、として国家の貨幣の特権性を批判した
 彼の議論は、仮想通貨の出現を予言したとも言われているそうです。

 先ほどのチャールズ・ホスキンソンさんは、この仮想通貨について
 「国家の介入無しに競争できる、夢の時代が到来した」と表現する。
 
 「今は円やドルなどでモノやサービスの価値を測っている
  しかし今度は、資産価値で考えるようになる。
  通貨、サービス、商品、土地、労働力、知的財産、マイレージなど
  価値を持ちうるなら何でもいい、
  正にハイエクが考えていたものだ」

 では、仮想通貨は未来の貨幣なのか?

 仮想通貨ついて、
 フランスの経済学者、ジャン・ティロールさんは「2018」で
 「私は仮想通貨は成功しないと思う」と否定的。

 「一つの理由は、仮想通貨は純粋なバブル、
  資産価格のバブルだ」
 「もし誰もビットコインに信用しなくなったら
  価値はゼロになる」

 「もう一つの理由は、仮想通貨は社会の役には立たない」
 「ベネズエラのように経済が混乱している国なら別だが
  先進国では無駄だ」
 なぜ無駄か、については3つ理由があり
 ・マネーロンダリングや違法経済に使われる
 ・シニュレッジ(seigniorage、通貨発行益)の問題
  民間銀行が通貨を発行すると、中央銀行の利益にならない
 ・金融政策を破壊する危険がある
  2008年のリーマン危機のようなことが起きたとき
  各国の中央銀行は通貨を大量に発行し、流動性を増やしたが
  仮想通貨の場合、金融政策が働かない

 岩井さんも
 「2016年までは、
  ひょっとしたら仮想通貨も貨幣になるかもと思いましたが
  今は貨幣になる可能性は完全に捨てた」

 「何故ならその頃から
  ビットコインの値段はどんどん上がり、投機資産になった」

 グラフを見ても、2016~17にかけてJ字カーブを描き、価格は急上昇。

 「いったん投機目的として使われると、
  値上がりすると思って買われる。
  そうすると誰もビットコインをお金として使わないので、
  お金になる可能性はそこで消える」

 そのあと、岩井さんは「お金」とはそもそも何か、の話を始める
 「我々が生きている資本主義の背後には、貨幣がある」

 その資本主義とは何かというと、
 「資本主義は蓄積で、
  蓄積するには利潤、利益を生まないといけない。
  利益は引き算で産み出される」

  収入-費用=利益

 「単純にこの原理で動いている。
  全てのものをお金で一元化して
  全てのものを引き算で計算し、
  プラスならゴー、マイナスなら撤退、というモデルで動く」

 「これはどんな文明も文化でも理解できるもっともシンプルな原理で
  私はこれ以上単純化できないと思っている。
  だから必然的にグローバル化する」

「第2章 なぜ貨幣は貨幣なのか?」
「2017」で、我々のお金への欲望を
 カビールセガール氏は生々しく表現する。

 彼はリーマン危機の前にゴールドマン・サックスに勤め、
 大口客のみを相手にしてきた、
 だから人がお金に目をくらませる瞬間をたくさん目撃してきた

 「あなたが何かを買うとき、
  欲望が何かを手にいれたいとサインしている」
 「お金という言葉を聞くだけで、身体中に電気が走る。
  冷静な感覚でいられなくなる」
 私たちは、絶えず何かを買いたい、という欲望に駆られていく…
 「お金を使うのではなく、使われている。
  人生を左右するほどの強い力です」

 そもそも、お金はどうしてお金として信用されているのか?
 なぜ我々はただの紙切れを欲しがるのか?

 岩井さんは一つの金貨を取り出してカメラに見せる。
 「これはギリシャで流通していたドラクマ金貨です
  紀元前6年頃、この金貨がお金として使われていた」

 「お金はそれ自身、価値を持つ。
  みんなが欲しがるものをお金として使われるのは、
  それで多くの人が価値を見いだすからだ、と考えられてきた。
  「お金はそれ自身が希少価値を持つから、お金として流通する」
  これは経済学上では「貨幣商品説」という」

 貝やチョコレート、香辛料など、当時の貴重品も
 お金の代わりとして交換されてきたから、
 これは正しいように感じられるが

 岩井さんは
 「長年信じられてきたが、これはとんでもない間違いです」

 その反証として、
 「1ドラクマ金貨が、ゴールドとしては2ドラクマの価値があったら
  つまり
   「モノとしての価値>お金としての価値」
  のときは、
  みんなこのドラクマ金貨を溶かし、他のものにして使う。
  誰もこの1ドラクマ金貨を
  1ドラクマの価値を持つ商品、つまりお金としては使わない」

 「今はもう、貨幣商品説を信じている人はいない。
  500円玉は銀とニッケルの混じった銅のかけらで、
  製造費用としても、50円くらいしかかからない」

 「しかしこれが500円として流通しているのは
  50円が500円の価値を持つからで
  これは一種の、無から有が生まれる、
  不思議なことが起こっている」

 岩井さんは、なぜお金が価値を持つか、について別の説を説明する
 「「政府と中央銀行が保証しているから
   お金としての価値を持つ」
  という考え方
  これを「貨幣法制説」という」
 貨幣法定説、とも言うそうだが

 「これが今の通説だが
  貨幣論から見たらこれも間違いだ」
 その証拠に
 「歴史では、国家の裏付けのないお金が流通したことがある」

 岩井さんは、別の銀貨を取り出し
 「これは1741年に発行されたマリア・テレジア銀貨だ」と見せる。

 マリア・テレジアは、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の女帝だが
 この銀貨自体は、アメリカ、中近東、アフリカでも使われたそうです
 それもなんと1970年代まで、
 エチオピアのカファ地方(コーヒーの原産地)では流通していたらしい

 「つまりお金が流通するのに、
  国王や国の裏付けが要らない歴史的証拠なんですね」

 「ということで、問題は元に戻った」

 500円玉が500円として価値を持つのは、
 モノとして価値を持つのでも
 国が定めているのでもない…

 では、どこに価値があるのか?

「第3章 根拠なき錯覚」
 お金がそれ自体、なぜ価値を持つか?
 岩井さんの説は
 「貨幣とは、本質的に投機である」というもの

 投機、てトレーダーだけの遠いもののように感じますが…
 「我々は、お金を日々使うとき投機とは考えていない、
  でも深いところで考えると、我々は投機をしている。」

 「投機とはなにかというと、
  たとえば不動産に投機するのは、
  自分がその土地を使うためではなく
  他の人に売る(手渡す)ために買う」

 「この投機の定義を当てはめると、
  この500円玉は、私たちが500円玉を食べるためではなく
  私たちがそれで何か物を買って、
  その代わりに他の人に手渡すためにある。
  もっとも純粋な投機です」

 「なぜ純粋かというと、
  不動産は他の人に転売できなくても別の人に貸すことはできる、
  つまり実体としても役に立つ。
  しかしお金は定義上、全く役に立たない」

 「お金は、ほかの人が受け取ってくれる、
  ということに「賭け」をして使っている」
 
 つまり、500円玉という金属の塊に対し
 みんなが価値を見出すはずだ、と思うから
 例えば魚屋さんも、自分が食べてもいいはずの魚を差し出し、
 代わりに500円玉を受け取る、と…

 では、我々はなぜ安心して他人にお金を受け取り、渡せるのか?

 ロンドン、
 ファンドマネージャーのフェリックス・マーティンさん
 彼は「2019」でロックの貨幣論を踏まえつつ、
 お金はモノではなく、経済は貸し借りの信用関係で成り立つ、という話をしていました

 「一体なぜ仮想通貨はこれほど人気なのか?
  これは、ロックの貨幣論への皮肉な回帰だと思う」

 ロックは社会契約論で有名な人ですが
 彼は人々は自分たちの生存や自由、財産などを守るため
 国家に対して契約を結ぶ、と考えた
 そして、貨幣についても契約に基づく厳密なルールを作るべきだ、と言った

 マーティンさんの解説によれば
  ロックは「貨幣も厳密かつシンプルなルールに従うべき」と考え
  具体的には
  「通貨の発行量は、中央銀行にあるゴールドの量に依存すべし」と主張した
  中央銀行の政策決定者の考えで
  貨幣の価値や通貨量が決まるのはいい加減すぎる、と考えたようです

 「彼の貨幣論は知らない間に我々に染み付いている」とマーティンさんは言う。

 それはロックの主張が我々の本能に沿うものだからで、
 その本能とは
 「貨幣とは人々の間の取り決めではなく、モノだ」というもの。
 どちらかというと、「貨幣商品説」に近い感覚。

 マーティンさんは
 「実は仮想通貨も同じで
  特徴的なのは、発行できるコインの数に厳格な上限があることだ」
 ビットコインはマイニングに2100万BTCの上限がある

 「ある意味、金本位制より厳しい基準だ、
  経済の成立や不平等の拡大には対応できない。
  一国の通貨にはなり得ないと私が思う理由の1つだ」

 マーティンさんによれば 
 現在の国々で主流なのは不換制度
 (政府の信用により発行された紙幣で、他の金銀との財産との交換を認めない)
 これにより金融政策が柔軟になる、と。

 「それ以来、貨幣制度を管理するために、
  様々な対象にあらゆる規則が使われた。
  金融政策が比較的柔軟な国では、
  2008年のような異常な危機の時には
  貨幣制度において初めて試すような、実験的な政策が取られた」

 しかし、もし人々が政府や中央銀行に不信感を抱き
 「不平等を広げているだけ」
 「インフレのし過ぎ」「インフレが足りない」などと思うようになれば、

 「ロックが主張する、厳格な貨幣制度に戻る可能性がある」
 「政府によりコントロールされている貨幣制度は信用されなくなり、
  安定して実体のあるモノを求めるようになるでしょう」

 しかし彼によれば、
 「お金はモノではない、実際には「債権関係」だ」

 例えば財布の中のお札とは、
 持ってる自分のバランスシートでは「資産」に入るが
 担保を与えた銀行側からすれば「負債」
 お札はその貸し借りの債券だ、と。

 「お金はモノだという取り違えは、
  人々のお金の扱い方や
  政策立案者の考え方に影響する。
  貨幣の発明以来、人々はこの混乱を生きてきた」

 …そもそも紙幣とは、政府や中央銀行へのお金の貸し借りの証書で
 それには政府や中央銀行への信頼が無いと成り立たない。
 だからこそ、金融危機のとき
 政府が貨幣の量をコントロールして調整する政策が有効に働く。

 しかし我々は「お金はモノ」と思ってしまいがちで
 だから政府への不信が募ると、仮想通貨のようなものを考えてしまう、
 それは結果的にうまくいかない、ということか?
 
 しかしながら先ほど岩井さんは
 「通貨法定説」(お金は政府の保証があるから価値がある)は違う、と話していた、
 じゃあ貨幣の価値とは一体何なのか…
 
それを考えたのがマルクス
「第4章 「命がけの飛躍」を越える」
 チェコの経済学者、トマス・セドラチェクさん
 彼は「2017」で
 「価格は分かりやすいが価値は難しい、
  そもそも取引というのが不可解」と、以下のような話をする

  例えば取引の際は
  互いに同じ価格でOK、
  という同意が無いと売買が成立しない

  一方で、売り手にとっては
  「自分が商品に見いだす価値<付けられた価格」
  でないと売らない、
  買い手はその逆
 
  価格を付けるというのは、
  物を比べられ、順番ができる、ということ
  しかし価格は比べられるが、価値は比べられない。
  例えば100円のトマトと200円のリンゴは価格としては比べられるが
  だからといって、自分がリンゴをトマトの2倍好きだとは限らない

 「価値は主観的、価格は客観的だ
  このダイナミクスについて答えるのは困難だ」

 貨幣は、「価値」を「価格」に置き換えた、と考えたのがマルクス

 岩井さんは
 「貨幣は非常に不思議なもので、
  マルクスは「形而上学的な不思議さに満ち満ちた存在」と言っている」
 「マルクスは、
  「お金は物と同じような価値がある」と思っていた、
  彼はそれを労働価値説で説明しようとしている」

 労働価値説とは
 「全てのモノの価値は労働価値
  (そのモノを作るために投入された労働量)により決定される」
 というもので

 「彼の頭のなかでは、
  お金は純粋な投機という理論は、ぜったいに出てこないでしょうね」

 マルクスは「人間の労働こそが価値を生む」としていた
 マルクスにとって、モノの価値が同じということは
 そこに投入された労働量が同じということ、

 貨幣の価値もまた、金山の労働者の労働量、と考えた
 「彼の形態論は、商品と貨幣を区別できなかった」

 「資本主義社会における全ての商品、
  世の中全ての商品の価値は、社会的に決まる。
  この500円玉も、私が価値があると思うのではなく、
  みんなが価値があると決める」

 「お金の価値は他人、他人でなく社会が決める。
  という考え方が、マルクスの価値形態貨幣論の到達点であると同時に、限界でもある」

 マルクスは、貨幣の価値は社会が決める、
 と書いて終わっているそうです

 岩井さんは資本論を批判的に読みつつ、
 マルクスが見逃した貨幣の本質を書いている

 「なぜあなたが500円玉を受け取ってくれるかというと
  ほかの人も受け取ってくれるから受け取る、
  という答えにしかならない。
  これは永遠に続く」

 「誰もがお金として受け取ってくれるから渡せる、
  自己循環論法によってのみ価値が得られる。
  これが貨幣に対するもっとも基本的な命題になる」

 貨幣の価値は根拠がない、
 だからこそ価値がある、と。

 「マルクスは貨幣の自己循環論法を無視したことで、
  貨幣の持つ本当の意味の不安定性に到達しなかった、
  と私には思える」

 マルクスはその代わり
 価値から価格への変化を「命がけの跳躍」と書いている
 交換の神秘をそうして表現することしか出来なかったのだろう、と。

 岩井さんは「貨幣論」の後書きで
 「貨幣にもし本質があるとしたならば、
  それは貨幣には本質がない、
  という考え方なのである」
 と書いているそうです

 「お金とは人々が受け入れてくれる、自己循環論法の産物と言える
  お金がどんどんデジタル化、電子化、記号化しているのは自然の流れです。
  お金がモノという形を必要としないことが
  みんなに分かるようになってきたんだと思う」

 …マルクスの見逃した点、というのがいまいちわかりにくかったんですが
 私の解釈だと、マルクスはあくまでも貨幣の価値とは
 なにか客観的に社会で決められるもの、と考えていたのかなと思う。

 しかしながら、岩井さんの理論だと
 実は貨幣の価値とは、「きっと他人も信用するだろう」
 という空気、幻想、根拠のない信仰みたいなもの、、
 つまり実体のないものが貨幣の価値を支えていたんだ、と。

 貨幣の価値は妄想の世界の話で、妄想はどんどん膨らんでいく。
 だから貨幣は、マルクスの労働価値説で考えられるよりもはるかに多くの価値を獲得した、
 それが「命がけの跳躍」と表現されるものなのだろう。
 そして元々妄想で実体がないから、
 モノとして形のある貨幣は必要とされなくなってきたんだ、と…

 でも先ほどのマーティンさんの理論でいえば
 仮想通貨は厳格な金本位制ともいえる。
 貨幣の価値は、みんなが政府を信用するだろうという妄想が産み出すものだが
 その信用ができなくなってくると
 根拠が欲しいという気持ちも出てくる、
 それが仮想通貨になったのかもしれない。

さて、マルクスには分からなかったが
その後の時代にお金は心理が支えている、と見抜いた男がケインズ
「第5章 幻想の貨幣論
 ケインズは貨幣を月に例えた
 「みな月を欲するのだ、
  月を欲するため失業が生まれるのだ。
  欲望の対象、すなわち貨幣。
  それを生むことができず、欲しがる心を押さえられないのなら
  失業の問題など解決しないだろう」

 第2章でお金の欲望について話していたカビールセガールさんは
 「ウォール街では持つ人は「もっと」を求める」
 彼は、
  人々がお金を求めるのは、不確定な未来から逃れるためで、
  お金を持てば未来は安心すると思ってしまう、
  それで人は時々過剰な安心を求め、恐慌に走ってしまう…
 という話をする

 「私たちは恐怖と欲望で出来ている、
  だから「もっと」「もっと」となってしまうんだ」

 岩井さんはこのことについて、
 「お金というのは純粋な投機で、
  普通の時は大丈夫だが
  我々は何かのきっかけでお金が欲しくなり
  それがデフレや不況となる」

 「逆に、私たちはお金に対して信頼を少しでも失うと、
  お金を手放そうとしてインフレになる」

 「お金への欲望>モノへの欲望」→デフレ
 「モノの欲望>>お金への欲望」→ハイパーインフレ

 「資本主義はお金を基礎としている。
  お金が純粋な投機だということは
  実は潜在的には物凄く不安定だ、
  ケインズ理論のエッセンスはそこにある」

 1929年の大恐慌
 「利子、及び貨幣の一般性理論」(いわゆる「一般性理論」)で
 ケインズは、国がお金を出し、失業を減らす処方箋を出した

 彼の理論は、大衆心理への洞察が支えていた

 岩井さんは
 世の中が不安だと、人は可能性を求めてしまう、と話す。
 これはケインズのいう「流動性選考」(流動性とは、何にでも交換できる性質)
 「不安になると、
  いろんなモノを手に入れられる手段であるお金の方を好んで貯めてしまう」

 モノを買うより貨幣を貯蓄する流動性選考は、
 いつも可能性を欲する人の欲望から来るのだ、と。

 「お金を貯めるということは、モノを買わない。
  これが不況となる」

 セドラチェクさんは「2017」でこのように話す
 「ケインズ以前の時代は、マネーは交換のための道具に過ぎなかったが
  ケインズはマネーの交換以上の機能に気づいた」
 「お金自体が価値を持ち、
  貯蓄が目的となる」
 「人は流動性選考のせいでお金を貯めてしまう。
  それゆえお金は効率的に回らず、経済に大きな問題が起きる」

 つまり、貨幣の価値とは、そもそも実体があるわけではなく
 人の心理が支えているものなのですね…

 だから自国の貨幣への信頼が無くなれば、お金が余ってインフレになり(ベネズエラとかはそうですね)
 将来不安になり、お金しか資産として信用できなくなったらデフレになる(日本がそうですね)、
 心理により経済が混乱する。

 (ナレーション)
 「使うためのお金が、貯めるためのお金になる、
  可能性を、お金に託して…」
 (後半に続く)

○感想など
・岩井さんの結論では、
 お金はそれ自体に価値があるから(貨幣商品説)でもなく
 政府が保証を与えているから(貨幣法制説)でもなく
 みんなお金に価値があると思っているはず、とみんなが思うから
 という話になっていましたが

 歴史をひもとけば
 貨幣商品説や貨幣法制説が真実だった時代もあったのだろう、と思います

 例えば原始的な貨幣では
 物々交換社会から、だんだん不便になってきたので(食べ物が腐るとか食べきれないとか)
 何の品物とも交換可能な媒体(貝や石、金など)を貨幣として使いだした。
 この時代では、おそらく「何とも交換できる万能性」を示すシンボルとして
 貴重品が貨幣として使われていたのだろう、と思う。
 そこらへんにあるものが貨幣となっていたら
 みんなが貨幣を作れる無法地帯になってしまうから。
 だからその時代は「貨幣商品説」は真実だった。

 しかし交易が広い範囲になり、いちいち貴重品に交換していたら効率が悪いので
 政府が「この札は貴重品の代わりだよ」というお墨付きを与え、紙幣とした。
 「何とも交換できるシンボル」は、貴重品から政府のお墨付きに変わった。
 誰もが発行できるとなると、
 みんなが貨幣を作れる無法地帯になってしまうから
 政府のお墨付きがない紙切れは、何の価値も持たなかった。
 だからその時代は、「貨幣法制説」が真実だった。

 しかし、政府のお墨付きの札に、みんながだんだん幻想を抱くようになってきた
 このお札さえあればなんでも買うことができる、と。
 たぶんその結果、資本主義が生まれたのだろう、と私は思う。

 資本主義ってそもそも何かを定義すると
 「資本家が投資して、工場や労働力を雇って何かを作ってもらって、
  それを売ることで利益を得る仕組み」
 なのだろうけど

 「2018」で経済ジャーナリスト、ウルリケ・ヘルマンさんが
 「資本主義は18世紀のイギリスで生まれた、
  それ以前の時代や国では生まれなかった」
 と話していて、その理由として彼女の支持する説は
 「労働者の賃金が上がって、投資できるお金ができたから」
 だ、と話していました

 つまり、それ以前の経済では、自分が物を作って(あるいは別の他人から買って)売る、ということはしたが
 投資をして他人を雇って作ってもらう、
 ということはあまりしていなかった、ということなのだろう。
 (経済の歴史について詳しくないので、間違っていたらすみません…)

 この時代になると、紙切れ自体に魔力を感じるようになったので
 みんな汗水たらして働く代わりに、
 紙切れをありがたがってもらうようになった、
 そして、この余った紙切れを他人にたくさん渡せば
 大きな工場もできるしたくさんの労働力を得られる、
 とみんなが信じたから、
 資本を投じて利益を得る、という資本主義が成立したのだろうと思う。

 逆に言えば、お金への妄想が無ければ 
 ここまで資本主義は拡大しなかったのだろう。
 だからこそ、不況になるとお金への妄想がゆらぎ、生活が不安定になる。
 人の妄想が持つ力はすごいと感じました。

・一方で、ロックの貨幣論の話を聞くと
 人間には幻想だけではなく、何か確かな現実のもの
 五感で価値を感じられるもの、
 も本能的に必要なのかなとも思いました

 よく、金持ちになりたい人のための本とかを読むと
 お金を愛しなさいとかいうんですけど
 (紙幣を折らずに財布にいれる、とか…)

 実際は、岩井さんの話からしても
 貨幣は貴重品だとか、労働力だとか食べ物だとか、
 何か価値あるもののシンボルでしかない。

 でもなぜお金を愛せというかと言えば、
 たぶんそれは神様を信じるときに
 神社やお札などが必要なのと同じことで
 価値が宿る「場」というものが必要で
 それを大切にすることで、そこに宿るエネルギーというか役割というか価値というか
 そういうものを大切にできる
 それが、身体や五感を持つ人間の特徴なのかな、と思います

 お金は妄想からできたのに
 実感あるものとして感じたいという人間の不可思議さ…
 なぜお金がそこまで魔力を持つのか、
 は後半で分析されていました(後半に続く)

NHKスペシャル「夢を掴みには来たけれど ~ルポ 外国人労働者150万人時代~」

NHKスペシャル「夢を掴みには来たけれど ~ルポ 外国人労働者150万人時代~」

今年4月、改正入国管理法が施行され
今後外国人労働者が増加することが予想される。

日本にいる外国人には、留学生や技能実習生、不法滞在者などがいるが
彼らのなかには、
不本意ながら危険な労働に従事せざるを得なくない人も少なくない。
そんな外国人労働者の現状を描いたルポ番組です。

私自身、外国人労働者かどうか分からないが
スーパーなんかでは外国人はよく見かけます。
しかし、ここで紹介されているのは
そういう人たちよりももっと隠された人たちではないか、
と感じました

日本人でも、
氷河期就職難のあおりを受けて、
シングル、非正規の人たちがいて
その人たちは「自分たちのような境遇の人はどこにいるの」と言っている。
それくらい孤独を感じている、ということなんだろうけど

ここで紹介されている外国人たちも
私自身があまり見かけないということは
どこかで孤独を感じているのかな…
と思ってしまいました

今回のルポは、ベトナム人の人たちのお話しです。
○日本人で働くベトナム人たち
 冒頭出演されていたのは
 ベトナム人の僧侶、ティック・タム・チーさん

 タム・チーさんはベトナム人労働者たちの相談にのったり、
 日本で亡くなったベトナム人を供養してきたそうです
 ベトナムは8割が仏教徒
 タム・チーさんのお寺にはベトナム人が集まっていて
 心の支えです、という方もいました

 日本で働くベトナム人は、
 31万人、5年で8倍になっていて
 日本の外国人労働者の中でも増加率が多いようです。

 しかし、亡くなる方は少なくない。

 タム・チーさんによれば、
 この5年で150人も供養してきたが
 半数は20代から30代の若者で
 死因は突然死や自殺、事故などだそうです。
 半数が若者、というのは
 普通に考えたら異常なことですね…

 タム・チーさんは
 「どうして元気な若者が突然亡くなったのか、
  突然死には理由があるはず。
  このことを日本人にもベトナム人にも伝えてほしい。
  外国人労働者の現状を知ってほしい」
 と訴えていました
 タム・チーさんは
 日本で亡くなった方々の記録を保管しているそうです

 このあと、取材班は
 日本で亡くなった20代の若者の足取りを調べている

○希望が失望に変わる留学生
 最初のケースは
 日本に留学し、就職することを夢見て来日したものの
 退学して滞在資格を失い、
 不法労働者になって転落していく…
 という道をたどった方でした

 取材していたのはアインさんという若者。
 彼は銚子沖で船に乗っている最中、26歳という若さで亡くなっている
 死因は真夜中に起きた船の転覆事故で、
 密漁の疑いもあるらしい

 彼のことを知るいとこのトゥンさんに取材すると

 彼は貧しい農村の出の人で
 日本で留学して日本語を覚え
 日本の企業で働くことを夢見ていた

 「日本で学位をとれば日本で就職もできる、
  帰国しても収入の良い日系企業に就職できる、と」

 そして、彼は日本の学校で日本語を勉強し始める
 トゥンさんも同じ事情で来日していて
 アインさんは一緒に買い物に行ったり、とても親切にしてくれたそうです

 留学生は借金して来日している人が多いので
 二人はコンビニ弁当の工場でバイトを始める
 夜の勤務なのに、時給880円だったそうです…

 「それでもなかなか借金を返せず、プレッシャーがあった」

 半年ほどたつと、だんだんアインさんは学校に失望し始める
 「授業を受けていても悲しい」
 というのは、彼と同じような事情を持つ学生は多く
 授業中寝てる人がほとんどだったらしい
 しかし、先生はそれに注意しない

 トゥンさんによると
 「学費さえ払えば、ビザの更新時に出席したことにしてやる」
 と先生に言われたらしい
 入学説明の時にはそんな話はなかった、と。

 実はこのような利益目的だけでろくな授業をせず、
 行政指導を受ける学校は少なくないらしい
 政府が留学生の受け入れ拡大の方針を出したので
 ビジネスチャンスと見て
 取り合えず学校の形をとり、お金もうけをする人もいる

 アインさんの学校も指導を受けていて
 定員の3倍の学生を受け入れていたそうです

 日本語学校関係者の覆面インタビューによると
 「一番はお金」とハッキリ言っている
 「経営者からしたら、留学生は金づるみたいなもの、
  上の人はいつお金を払うのか、ということだけ聞いてきて
  学習達成度や授業の質など考えていない。
  最初希望をもってキラキラした目をしていた子が
  だんだん色褪せてくるのもよくある話」

 アインさんもこの学校に通うモチベーションが低下し、
 次の学費を求められたときに退学してしまう

 留学生ではなくなったため、彼は在留資格を失ってしまう
 トゥンさんも
 「私も借金を抱えていて、励ますしかなかった、
  彼は色んな人に連絡して
  不法滞在者でもできる仕事を探していた」

 アインさんが亡くなった銚子港には
 似たような不法労働者が10人ほど住んでいるアパートがある
 同じように失望して退学した人、
 技能実習先の労働環境があまりに劣悪でやめた人などがいる

 そこで話をしてくれた方の言葉が生々しい。
 「みんな来日したときに借金を抱えている、
  自分が払えないと、故郷の家族に請求が行くんです」

 「私たちはいくところまでいくしかない、
  お金が入るなら危険な仕事もやらなければならない、
  家族のために働かなくてはいけない」

 「我々は日雇いなので、お金をもらえるなら労働力を提供する、
  それが合法か違法かはもはや関係ない。
  不法滞在している時点で違法なのだから。
  それが家族を離れて、日雇いで働く者のさだめなのです」

 アインさんは
 「お金のためにキャリアを失った、
  自分の行為は自分に返ってくる。
  許してください、取り戻すチャンスを与えてください」
 と書いているそうです

 トゥンさんの言葉も重い。
 「彼の死後、しばらく彼の夢ばかり見た。
  いく先々に彼がついてくる夢だ。
  友人に話したらみんな同じ夢を見たらしい」

 「多かれ少なかれお金は稼ぎたい、
  でも違法な仕事は誰も望んでない。
  ましてやそのために命を落とすべきではない」

 ベトナムでは、日本を目指す若者は少なくない
 ベトナムの平均月収は17000円。
 日本で働けばその十倍稼げる、
 成功すれば家がたつ、
 と紹介業者はいうそうですが
 実際どのくらい成功するの?と聞いてみると
 「2割ですかね」…それも、留学先や仕事先の運しだい。

 アインさんは、両親には
 「ベトナムでお店を作って両親を楽させてあげたい」
 と夢を語っていたそうです
 しかし帰ってきたのは彼の遺体だけ…

 父親は彼のお墓参りをしながら
 「不法滞在になったとき、帰国するよう説得したが、
  息子は帰ってこなかった」
 何も達成せずに、借金だけして家に帰るのが
 彼には耐えられなかったのかもしれない。

「お金を稼いでも、息子が帰ってこなければ意味がない。
 息子を失った悲しみは、
 私たちが死ぬまで続くでしょう…」

○いいように使われる技能実習
 僧侶のタム・チーさんは
 埼玉のお寺で技能実習生の悩みを聞いている

 技能実習制度は1993年に始まる
  日本で技能を教え、
  自国にスキルを持ち帰り、自国の発展に生かしてもらおう
 と始まった制度だが
 実際は補助的な作業しかさせてもらえなかったり
 日本人がやりたがらない仕事をするための
 安価な労働手段として使われていることも少なくない

 タム・チーさんのもとに相談する人々も
 「残業は断れないのに時給400円。
  1ヶ月120時間残業しても4万円しか稼げない
  でも寮に帰るともっと酷くて
  シャワーは順番待ちで寝るのは深夜2時」

 「社長に借金費用を聞かれて、100万円と答えたら
  反抗できないと思ったのか、
  その日から首をつかみ、暴言を吐かれるようになった」

 その中で、神奈川で首をつって亡くなった
 技能実習生のホアンさん25歳
 タム・チーさんは彼の遺書を保管している

 それによると
 「お父さん、お母さん、怖いです。
  職場の人は、私がどれくらい頑張っているかを理解してくれない、
  ボロボロになって体を引きずって働いても、軽蔑される」

 ホアンさんは亡くなる数ヵ月前
 技能実習生を仲介、監視する団体に
 働き先を変えてほしいと訴えていたが
 「会社には言うから頑張れ」
 としか言ってもらえなかったらしい

 基本的に実習先の職場の変更は国に認められていないそうで
 タム・チーさんは
 「職業選択の自由すらない」

 「日本の便利な社会やサービスは
  外国人労働者の犠牲が有るのです。
  しかし、その犠牲に光が当たることはない」

 「私たちはみんな誰かと繋がっています、
  無関係ではいられないのです
  社会を維持するためにお互い協力する必要がある」
 と訴える。

○不法労働者の過酷な環境
 不法労働をしていたとき
 脳梗塞で倒れた方もいました
 グェンさん34歳

 彼は不法労働で寝泊まりしていた所で突然脳梗塞になり
 2度の手術をし、一命はとりとめたものの
 400万円の医療費を請求されている
 しかも半身不随で車イス、言語障害も残ってしまう…

 グェンさんは技能実習生として来日したが
 実習先から逃亡し、そのまま滞在資格を失い
 不法滞在して3年間行方不明だったそうです

 技能実習生で失踪する人はこの5年(2013~17年)で2万4千人
 失踪先で、より過酷な労働を強いられる人もいる

 タム・チーさんによると
 技能実習生で失踪し、不法滞在者になった人は怪我や病気が多いらしい
 「仕事しないと生活できないから、
  危険な仕事もやる」

 グェンさんは逃亡後、出国するよう求められていたが、逃亡したままで
 タム・チーさんが
 「どうして帰国しなかったの?」と聞くと
 彼はたどたどしい言葉で
 「実習生として働いていたが
  給料を計算すると、2年半働いて来日費用を返済できるだけ、
  それなら来日した意味がない」と。

 「逃げたあとどんな仕事をしていたの?」と聞くと
 「岐阜で工事の仕事、
  名古屋で農業、滋賀で梱包…」

 実習先では
 15時間働いても7時間分の給料しかもらえていなかったそうです
 実習先では、法例違反や賃金の未払いをする企業も少なくない

 グェンさんは
 「実習生の10人のうち5、6人は良い仕事を続けられるが
  残りはそうでもない」
  その違いは、実習先の企業がいいか悪いかの運次第らしい

 グェンさんは帰国することになり
 タム・チーさんは空港の出国ゲートまで見送りに行く
 「しっかり帰るのよ」と言われると
 グェンさんは
 「できれば、日本に残りたかった…」と涙を流していました
 タム・チーさんは
 「この3年一体なんだったのか、
  という気持ちだったんでしょうね」と彼の気持ちを察していました

○親身になる経営者もいる
 最後に、この状況を乗り越えられないのか、
 とスタッフが聞いて、
 タム・チーさんが紹介してくれたケースを取材していました

 盛岡で、建設現場の足場を保守管理する会社
 ここは東日本大震災後に仕事が増え、
 3人の技能実習生を受け入れた

 社長がインタビューを受けていましたが
 実習生の一人、クェットさんが
 寮で寝ている間に突然死してしまったそうです

 ここの会社は法令を守る雇用をしていたそうです
 しかし原因は分からず…
 社長はベトナムの家族の元を訪れ、
 彼の母国でのお葬式にも出席して、涙を流している
 「ご家族にもお会いして、
  彼が何を大事にしていたのかを知りました」

 クェットさんは家族が大好きだったそうです。
 社長はクェットさんと交換日記をしていて
 それを読み返すと
 「家族のために働きたい」
 「子供がいなくて寂しい」
 と書いている

 クエットさんは妻子がいるが
 実習生は家族同伴を認められていないそうで、
 彼も単身赴任していた

「寂しさのストレスとか
 思うように稼げないプレッシャーがあったのかなぁ。
 家族や子供に会えないのは一番辛かったんじゃないかな、
 本人も無念だったんじゃないかと…」と社長は言う。

 残りの実習生たちにスタッフが取材に行くと
 「家族や友達や御近所さんがいないのが寂しい、
  私たちは職場と寮を往復するだけなので…」

 クェットさんの死後4か月後、
 社長は二人とも交換日記を再開する
 そこにはクェットさんを失った悲しみが書かれていて
 彼らの心にも傷が残っている、と社長は感じる

 そして、
 「彼と社長と魚釣りする約束をまだ果たしていない」
 という言葉を見つける

 そこで社長はすぐに二人を誘い、魚釣りに出掛けたそうです
 来月にはまた新しい実習生を受け入れるのだそうです

…改正入国管理法が4月に施行され、
 外国人労働者は150万人を突破すると言われている
 我々の隣にその労働者さんたちはいるかもしれない、
 というナレーションで終わっていました

〇感想など
 そもそも外国人労働者についてあまり知らなかったのですが
 外国人で日本での労働を認められている人は 
 在留資格というのが必要なのだそうです
 (就労の内容により資格が定められており、
  仕事が変わったらそれ用の資格を取得する必要がある)
 
 その中で、唯一単純労働が認められているのが「技能実習生」で
 最長5年、日本の企業で技術を学ぶことが許されている
 ただし彼らは転職できず、家族の同伴もできない
 5年たったら帰国しないといけない

 今回新しく改正されたルールでは
 この技能実習生の続きが加えられた、ということらしい
 技能実習生でテストに合格したら、
 「特定技能」という資格が与えられるようになる

 この「特定技能」は「1種」「2種」があり
 「1種」の人たちは
 ・さらに最長5年働くことができる
 ・決まった職種の中なら転職はできる
 ・ただし5年(技能実習の期間と足すと最長10年)たてば帰国せねばならず
 ・家族の同伴もできない

 一方「2種」の人たちは熟練した技術を持つ人たちで
 ・家族の同伴は可能
 ・滞在期間の更新もできる

 という風に変わるのだそうです
 ただ、今までの技能実習生の制度は残されたままなので
 彼らの人権侵害がどれほど解決されるかは未知数なようです…
 
 番組を見ていると
 来日した時点で、いい学校あるいはいい企業に当たるか外れるかで
 だいぶ運命が変わってしまう、 
 そこになんだか理不尽を感じました。
 というか、弱者を狙って不正を平気でする人が少なくないことが
 同じ日本人として恥ずかしいとも思いました。

 私の母親は工場で東南アジアの子たちと働いていたことがあって
 「素直でまじめでいい子たちだよ」と言っていました
 たぶん、アインさんなどもまじめに日本語を学び
 日本にも母国にも貢献したい、と思っていたんだろうと思う。
 そういう若者たちを失望させてはならない。
 
 最近、日本のいいところを紹介する番組が多いと思うのだが
 表面的にそういうことを見せていたところで、
 日本にも悪質な企業や学校があることが分かれば、
 日本に失望し、嫌ってしまう外国人が増えてしまうんじゃないか…と思います
 
 「一生懸命、ボロボロになるまで働いているのに軽蔑される…」
 と言って亡くなっていた方には胸が痛みました
 貧しくて日本語があまり上手でない、というだけで
 見下してしまう人がいるのだろうか。
 慣れない国に来て、慣れない言葉で働いているだけでも
 すごいことだと思うのだが…

 私自身はあんまり外国人と接点はないのですが
 (見かけはするけど、知り合う機会はないので)
 何か日本語が分からなくて困っていることがあったら、
 道案内とか、そういうことくらいはしてあげたいなぁ…などと思ってしまいました

 ただ、新聞の記事を読んでいると
 日本語学校でアインさんみたいにまじめな人もいるが
 授業中遊んで話を聞かない、という学生もいるそうです

 日本の学校も、それを管轄する国も、
 彼らがお金を払うかどうかではなくて
 優秀か、やる気があるかどうかで選別する、
 それで優秀な人にはバンバン頑張って、日本を支えてもらう、
 くらいの気概、戦略が必要かな、と感じました

 色々考えさせられました

 というわけで今回はこの辺で。

 

 

Eテレ「世界の哲学者に人生相談 人生の壁と行き詰づまり~ヘーゲル~」

Eテレ「世界の哲学者に人生相談 人生の壁と行き詰づまり~ヘーゲル~」

 哲学者に人生相談する形式で哲学を学ぶ番組です。
 司会は高田純次さん、みちょぱさん、
 解説は小川仁志先生。

 今回のゲストは女優の高畑淳子さん、
 哲学者はヘーゲル
 ヘーゲルってよく名前は出てくるけど、あんまり知らないので見てみました

○今回のお悩み相談
 相談者は40代女性のかた。

  仕事で管理職になったが
  部下には慕われずなめられている、
  上司ともうまくいかず、
  社長はワンマンで人の話を聞いてくれない…といもの。

 高畑さんは
 「私は会社勤めの経験はないから分からないんですが、
  無茶を言う演出家さんはいますね」だそうです

 うーん、でも実力を認められての管理職だと思います。
 私は管理職したことないから偉そうなことは言えないが、
 与えられた役割を全うするしかないかなぁと思うが。

 ただ、自分は変えられるが、他人は変えられない。

 部下に対しては、
 ナメられてると思ってビクビクしてると余計ナメてくるので、
 権限があるのは自分、と割りきって、
 毅然と正しいことを言っていたら聞く人は聞いてくれるのではないかと。
 (それでも聞かないやつは、そういう人なんだと割りきるしかないような気がする)

 あとは、ナメられてるのは自分に尊敬されない部分があるからと受け止めて
 当たり前のことをちゃんとやるしかない気がする。

 話を聞かない上司と社長は
まぁそういう体質の会社かもしれないですね…
 同じように感じていて、話を聞いてくれそうな人を探すか、
 諦めて距離を置くか、
 見切りをつけて別の生き方を探すか(転職でも趣味でもいいが)

○今回の哲学者ヘーゲル
 さて回答者の哲学者はヘーゲル
 18世紀~19世紀ドイツで活躍した人、
 仕事で苦労した人で、人生の難題について考察した

 彼の考え方は近代哲学に影響を与えたといわれる
 マルクスも彼の影響を受けていると聞いたことがあります。

 ヘーゲルは大学入学後、哲学に没頭するが、
 教師には評価されず、大学の仕事は得られない
 ようやく31歳で臨時講師になる

 経済的に不安定な生活だったこともあり
 なぜ人は壁にぶつかるかなどを研究した
 37歳のときに「精神現象学」という本を出したそうです

○精神の成長段階
 彼は精神は3段階で成長すると考えた
 壁とそれに向かう人の視点で考えてみると

 1意識
  壁に向かう人は、前に立ちはだかる壁しか見えない
  周りの人も、壁の様子も分からない
  つまり、目の前の課題しか見えていない状態

 2自己意識
  自分が壁に向かっていることを客観的に見られる状態
  つまり、どんな壁か、自分はどんな様子かが見えてきている

 3理性
  壁も自分も周りの状況も客観的に見られる状態
  つまり、世の中を俯瞰して対処法も考えられる

○高畑さんの体験談
 高畑さんがこれに関連する体験談を紹介してくれました

 高畑さんは女優を目指したが
 母親からは「30歳までだよ」と言われていたそうです
 いつまでも夢を追ってないで現実も見なさいよ、と。

 しかし彼女はそこまで鳴かず飛ばず
 29歳の時に、加藤健一さんと二人芝居をすることになる

 しかし、初日の前日加藤さんに
 「君の演技は、どこも悪くないんだけど、面白くないんだよね」
 と言われてとてもショックを受けたそうです
 たしかにここが悪いとか言われりゃ直しようがあるけど
 面白くない、て、なんか根本から否定されてる感じですね…

 しかしそこで高畑さんは考えた。
 今までは演出家さんのいうことを忠実に守っているだけの自分に気づいた

 加藤さんはそのとき
 「稽古場は遊び場だよ、芝居は祭りだよ」
 もっと楽しんでやれ、とおっしゃったそうです

 そこで高畑さんは舞台に立ったとき、もっと楽しんでみたところ、世界が変わったそうです

 小川先生がこれをヘーゲルの精神成長に当てはめていましたが
 1意識
  演出家の話だけを守り、目の前の自分の演技しかみえてない状態
 2自己意識
  自分が自分の演技しか考えてないことを客観的に見られるようになった状態
  加藤さんに
  「嘘つきで欠落を内包してるのが人間だ、
   間違ってもいいから愛すべきものを表現するのが芝居だ」
  と言われて目の前が晴れたそうです
  高田さんは「ある意味余裕を持つことですかね」と話していました

 3理性
  周りを見られるようになった状態
  高畑さん自身は
  「幕があいたときも、お客さんがキラキラして見えた、
   お芝居ってこんなに楽しかったのか、と。
   自分が楽しんでいたらお客さんも楽しんでいただけてるんだ、と。
   なんか解き放たれた感じ」

 そのあとも芝居に対する姿勢がすっかりかわり
 何が悪いのかなどを素直に他人に聞けるようになったそうです

ヘーゲルのお言葉
 ここでヘーゲルのお言葉
 「始まりが本当に展開するには
  否定の矢が放たれねばならない」

 高畑さんは
 「正に加藤さんから現実への否定の矢が放たれたから自分が始まったのかな」
 「加藤さんもあえて放ってくださったのかな」

 小川先生の解説では
 ここでいう始まり、とは精神の成長、
 否定とは行き詰まり、壁のこと

 相談者さんも壁にぶつかっている、ということですが
 高畑さんみたいに気づけばいいけど
 相談者さんみたいにどうしたらいいか分からん人はどうしたらいいのか?

○壁を乗り越える「アウフヘーベン
 実はヘーゲルは壁を乗り越え、成長する方法を考えていたそうです

 ヘーゲルが生きたのはフランス革命の頃
 彼が18歳の時で、その知らせを聞いて彼も関心を持った

 フランス革命は、それまでの絶対王政を市民が倒したもの
 しかしヘーゲルが注目したのはそのあとのことで、
 市民は自由を謳歌したものの、
 秩序もない世界になってしまった
 正式な裁判もないまま熱狂的に処刑が行われたり
 市民同士の暴力を解決する法律も失われた…

 そこでヘーゲルが考えたのは「アウフヘーベン」という概念
 Auf=上に、heben=持ち上げる、という意味
 ヘーゲルはこの言葉を、問題を切り捨てるのではなく、
 むしろ取り込んで成長すべき、と考えた

 これは弁証法という考え方だそうですが
 正(物事の現象、人の考え)
 反(正を邪魔するもの)
 の2つがあって、
 反を切り捨てず、反から逃げずに両方を足し、「全」(問題の解決法)を持ち上げるイメージ

 この持ち上げる行為をアウフヘーベン、というそうです

 例えばフランス革命で言えば
 「合」は自由を求める気持ち
 「反」は絶対王政
 フランス革命の場合、合を実現させるため、反を切り捨ててしまった
 そのため反のいい部分(秩序を守る)も切り捨てられてしまった

 そこで反を排除することなく取り入れていれば
 無秩序ではない、自由を守る法律のある世界になったはずだ、と。

 高畑さんは
 「ことを起こすときの人のパワーは熱狂的ですものね、
  先程の上から見る理性が必要なのかもしれないですね」

 またまた高畑さんの経験。
 二人芝居のあとお仕事が来るようにはなったが
 来たのは人間ではない悪役。
 正義の役が欲しかったのにガッカリしたそうです

 「でもやってよかったですね、
  今でもコアなファンのかたはは覚えてくださいますよ」

 小川先生によれば
 このときの「正」は「正義役をやりたい気持ち」
 「反」は「悪役のオファー」
 しかしこれを取り入れてアウフヘーベンしたから
 役者としての演技の幅が広がったんじゃないか、と。

 ヘーゲルを踏まえて、高畑さんに相談者さんに一言言ってもらうと
 「何か見落としているいいことがあるんじゃないですか。
  今はワンマン社長とか悪いところしか見えてないけど…」

 「たとえば部下になめられてるんだったら
  誰か捕まえて聞いてみたら、
  誰か一人はなんかいってくれますよ」
 「親しみやすい上司を目指すということですかね」

要約すると
・精神は3段階で進化する
・壁が自分を成長させてくれるが
 そのためにはアウフヘーベン(壁となるものを避けるのではなく、自分に取り込む)すること

 という感じで終わっていました

○感想など
ヘーゲルの精神論は、スポーツとか勉強、仕事など
 何か1つの目標があって、明確な壁があるという人には有効な理論なのかなと思いました

 目の前のことだけにとらわれずに
 もっと大きな視点で自分の問題を見てみると
 やるべきことが見えてくる。

 その壁から逃げずに、自分の成長へのステップだと考えることだ、と。

 私は壁に関しては
 「壁は乗り越えられる人にしか現れない」
 という言葉が好きで、
 たしかに能力や実力がないうちは
 壁って認識すらできないんじゃないかと思う。

 相談者さんも、管理職という壁を与えられたのは、
 自分が乗り越えられる力があるからだ、と受け止めて
 立場の不幸を嘆くよりも
 そこから何かを学んでやる、くらいの気持ちでいることかなと思います。

 私なんかは子育てもだし
 同居する義父母さんとの関係も壁だらけだったなと思います。

 思うに、だんな一家の常識に縛られて
 自分が常識がないんじゃないか
 おかしいんじゃないかと思って悩んでいました

 しかし本を読んだり、他の人と話したりしているうちに
 いやだんな一家の常識が世の中の常識じゃない
 私も別に間違ってない、
 子供のことを第一に考えて
 子供の気持ちを理解しようとする気持ちさえあれば
 誰がなんと言おうと関係ない
と思えるようになってきました

 まぁでもこの経験は良かったと思います、辛かったけど。
 そのあと義父さんに何か言われても、あまり気にならなくなったし
 誰かに何か言われても、
 なんでこの人こういう風にいうんだろう、と客観的に考えられるようになりました。
 どんな経験も無駄にはならないと思います。

 まぁでも、仕事に関しては
 場合によっては逃げてもいいかなとも思います。
 世の中ブラック企業もあるので
 余りに理不尽な状況は、客観的に見極めて逃げるべきです。
 どうやって逃げるかを考えるのも
 反を取り入れることになるのではと思う。


 …それでも
 成長するばかりじゃないのが人間の難しさなのよね…
 一時的にはヘーゲルの言うように成長するのが人間だけど
 別の分野で堕落することもある
 たとえば仕事で成長できても家庭を顧みない人もいるし…
 努力してオリンピックで金メダルとっても堕落する人もいるし…

 成長と堕落、
 これをいったり来たりして螺旋状に成長していくのが理想、なんですけど
 そうなれるかはその人次第なのかなー、とも思いました

別に成長する必要もないじゃーん、て考え方もあるんだろうけど
壁が来ちゃったらなんとかするしかないですしね。
ヘーゲルの考え方も心に留めておこうかなと思いました

というわけで今回はこの辺で。

NHKBS「欲望の資本主義 2017ルールが変わる時 2018闇の力が動く時 2019偽りの個人主義を超えて」(再視聴)

NHKBS「欲望の資本主義 2017ルールが変わる時 2018闇の力が動く時 2019偽りの個人主義を超えて」(再視聴)

最近、人間の光と闇、善と悪が気になっています。
そのタイミングでこの番組が再放送されていたので
改めて見てみました
(14日にスピンオフをやるので、その前座のための再放送みたいですが)

当時見たときは経済学の話としてみていましたが
私は先日、「光の子、闇の子」の本を読んでいて
そこでは資本主義(自由主義)も、社会主義
人間が生来持っている「悪」に気づいていない
だからうまくいっていない、
という指摘をしていて、
その視点から議論を改めて見ると面白かったんで
改めて気づいた点をいくつか書こうと思います。

その前に内容をざっくりおさらいすると

●「2017ルールが変わるとき」 
  (詳しい内容は過去記事に書きました
 https://amagomago.hatenablog.com/entry/446229691.html?_ga=2.162337535.2134262696.1562808294-2130177266.1562808294

 アダム・スミスケインズが主役
 ・アダム・スミス…中世「神の見えざる手」、つまり市場の自動調整機能を主張
 ・ケインズ…第二次大戦後、「財政出動による失業回避」

 スミスの理論は、資本主義において、
 人間の果てしない欲望を正当化するために使われてしまった。
 また、ケインズの理論は、リーマン危機の処方箋として使われたが
 経済がそこそこ回復した現在でも
 借金してでも成長を続けるために使われている。
 
 成長至上主義は、今や格差や環境問題などの問題を起こしている。
 今までの理論にとらわれない新しい資本主義を作っていくべき
 という話でした

 さらに格差の問題から出てきた現象として、
 経済格差に取り残された人たちの反抗、
 つまりアメリカでのトランプ大統領誕生、
 EUでの極右台頭、イギリスのブレグジット
 などが、当時としては衝撃的なこととして取り上げられていました

●「2018闇の力が動く時」
(詳しい内容書いた過去記事は
 https://amagomago.hatenablog.com/entry/456025638.html?_ga=2.101564226.2134262696.1562808294-2130177266.1562808294

 マルクスシュンペーターが主役
 マルクス…イギリスを中心とした資本主義を批判し、社会主義革命を呼び掛けた
 シュンペーター…資本主義へのマルクスの分析にリスペクトを払いつつ、資本主義の「創造的破壊」の役割を指摘した
 
 マルクスが指摘した
 ・お金への欲望や偏愛を生み出す資本主義システムの問題点、
 ・資本主義構造のもたらす「成長、成功への圧力」
 が主な主題かと思います

 マルクスは「資本主義は、その矛盾ゆえ滅びる」
 シュンペーターは「資本主義は、その成功ゆえ自壊する」(→社会主義が必要となる)
 と言っていて、
 ここでも前年と同じく、新しい資本主義が必要だ、
 という話になっていました

 それに加え、前年の格差への抵抗(極右の台頭やトランプ政権誕生)、
 GAFAの市場独占の問題も取り上げられていました

●「2019偽りの個人主義を超えて」
(詳しい内容は
 
https://amagomago.hatenablog.com/entry/2019/01/07/084910?_ga=2.73348563.1170958462.1563250699-811054090.1563250699
https://amagomago.hatenablog.com/entry/2019/01/07/152709?_ga=2.73348563.1170958462.1563250699-811054090.1563250699


 もう少し時代が後になり、ケインズハイエクが主役
 二人とも第二次大戦時の大恐慌の時の経済学者で
 ・ケインズ…政府の介入による失業の回避を主張
 ・ハイエク…政府の介入を批判し、自由市場による不況の解決を主張
 最後の方では自由資本主義の言う本当の「自由」とは何か
 という問いを投げかける形になっていました

 それから前年と同じくGAFA問題が取り上げられたり
 分散経済システム(仮想通貨)、オークション理論など
 新しい経済のアイデアも紹介かれています

ではいくつか気づいたことを書いてみます
・2017、アダムスミスの理論が悪用されたからくり
 「2017」では
 アダムスミスの理論で
 資本主義が手放しで容認され、
 個人の欲望がどんどん広がっていった、
 という議論が前半でなされています。

 これを見た時は、欲望を容認されたシステムを使っているうちに
 人間がいつの間にか欲望に引きずられていった…
 というようにも見えたのだが

 アダム・スミスや、資本主義を考えた人たちは
 そもそもなぜ、個人の欲望を容認してしまったのか?
 を考えると、
 それが暴走してしまった理由が見えるように思いました

 トマス・セドラチェクさんは前半の終わり、
 スミスは人間の欲望だけを指摘していたのではない、という。
 「国富論」だけではなく「道徳感情論」という本で
 「共感」も大事だ、と書いている、と。

 スミスについては「2019」で
 「人間とは元来怠惰で、無精で、軽率な浪費家である。
  時に善人になり、時に悪人になる。
  時に聡明だが、それ以上に愚かな存在だ」と書いている、
 とありましたし
 人間の悪は見抜いていたと思われる。

 つまりスミスは、手放しに人の欲望を容認していたわけではなく
 人は他人への共感もセットとして持ってほしい
 と期待していた、だから容認したのだと思う。

 しかし実際は、共感より人間の欲望は果てしなかった。

 それからこの回、フランスのエリート学校の学生たちの議論で
 「資本主義は、
  プロテスタントの禁欲の精神が人々に富の蓄積を許していた。
  しかし蓄積は際限がなく、
  今や元の禁欲の精神は失われた、
  禁欲の精神は、資本主義の欲望の精神で破壊された」

 という指摘もあって、これもなるほど、と思いました
 (これは前回見ていた時全くスルーしていた意見でした)

 つまりプロテスタントが利子や富の蓄積を容認したのは
 人間は禁欲精神をセットとして持っているはずだ、
 という期待があったからなのだろう。
 しかしそれは甘い話だった。

 だから、人間が欲に引きずられたのは
 そもそも設計が甘かったというか、
 アダムスミスの希望は希望でしかなかった。

 人間がどうしても持ってしまう「自分のものを増やしたい欲」が
 アダムスミスの理論を
 自分を正当化するための言い訳にすり替えてしまったのだ、と読み取れる。

・悪についての議論
 この人間の「悪」については、
 「2017」でのトマス・セドラチェクさんとルチル・シャルマさんの議論が気になりました。

 まず、シャルマさんが
 当時起きていた、ブレグジットアメリカ大統領選挙のことを話題にして
 「アンチ現役職員、アンチ現在の波」があると指摘する。
 既存のエリート層に対する批判が高まっている、と。

 これを受けてセドラチェクさんはこの現象を
 「スターウォーズの「フォースの覚醒」」になぞらえている
 「そのフォースは言葉にもならず、主張すらしない、
  知性的な表現は全くない
  とても静かなサイレントフォース、
  既成の権威の否定だけではなく、アンチ知性的なものにも感じる」だと。

 …この文脈からすると、セドラチェクさんは
 極右思想や、エリート層への反抗を
 「悪」と呼んでいるように受け取れるのですが
 (まあ、確かにイスラム教徒排斥とか
  差別主義的な人もいるので、そうなんでしょうが)
 
 しかし、私は今回見ていて、私はフォースは極右の人たちよりも、
 むしろ資本主義の中にある、と感じました
 正確に言うと、
 アダムスミスの理論や、利子の理論を悪用して
 儲けて権力をとった人たち。

 既に資本主義の中にフォースは存在していて、
 というか常にフォースは共存していて
 それが権力を持ち、肥大化してきたことに
 恐怖を感じて人々が立ち上がったのが
 極右の台頭であり、ブレグジットだったのではないか、と。

 この恐怖を感じて立ち上がった人たちの心の「悪」については、
 「2018」の時のマルクス・ガブリエルさんとセドラチェクさんとの対談が興味深い。

 このときガブリエルさんは
 極右ポピュリズムの台頭について
 「グローバリゼーションに対する一種の反抗ではないか、
  これは政治的な動きではなく、経済的な動きだ」
 「極右支持の人がいきなり政治意識に目覚めたのではなく
  むしろ世界のあちこちで
  不公平を目にするようになったからではないか」と言い、

 だからあなたは経済学者としてどう見るか、と尋ねられたセドラチェクさんは
 「フォースの覚醒のように思える」
 「もう人々がいい人でいられなくなったのではないか」
 という分析をしています。

 要するに悪が目覚めたんだ、というわけですが
 ガブリエルさんはその分析に対し
 悪について、シェリング(哲学者)の悪の分析を引き合いに出して解説する。
 「悪とは人間の心の中に存在するだけではなく
  実際に存在するポジティブなフォースだ、と言っている」

 「どんなシステムも、自分を維持するためには
  他の異質なシステムを排除しなくてはいけない。
  外部がないシステムでは、内部に異質なものを作り上げねばならない、
  これが悪の生まれるダイナミズムだ」

 「ローマ帝国のような巨大な帝国は、
  外部が無い感覚を感じた瞬間から、崩壊を始めた
  グローバリゼーションは経済の帝国だが
  内部から悪を作り出した、
  それがナショナリズムなどの背景かもしれない」
 という分析をされていました
 
 ここはなかなか深い話だなと思います
 シェリングの話によれば
 悪とは自分が生み出した、内部の異質なシステム。
 なぜ内部に異質なものを作り出さねばならないかというと、
 自分のアイデンティティを守るため。

 ニーバーさんの本には
 人間には自分を拡大したい欲望がある、とあったが

 おそらくこの「自分を拡大したい」「自分を自分として維持したい」
 というのは人間というか生き物の本能なのかな、
 と私は感じました。
 それは肉体を持って、他人とは別の個体として生まれてきた生き物の本能で
 他人を差し置いて、自分という遺伝子を残したいから
 他人との競争に勝ちたいと思うし
 自分の子孫を残したい、と感じる。

 みんなが善人の世界で心は1つ、って
 概念的にはとても素晴らしいと思うのだが
 しかし、みんなが同じ善人で1つに心が合わさっていたら、
 それぞれが個別の存在でいる必要はないわけで。

 自分が埋没するのは耐えられない、
 人は自分のアイデンティティを残したいと思うから、
 他人と自分との違いを見つけ、
 あまりに違う他人は排除しようとする。

 グローバル化ナショナリズムを生み出すのも、
 同じことなのだろう、と感じる

 ちなみにこの「2018」に出演されていたエマニュエル・トッドさんは
 グローバル化反対の人ですが
 (グローバル疲れ、という言葉も使っている)
 彼は別の本で
 「民族は独自性を持つ、アイデンティティを維持したがる。
  一つになることはない」というようなことを書いている。
 移民も性急に増やすと摩擦を起こす、
 ゆっくりその土地に共存していかねばならない、
 という話を書いていて、

 ニーバーさんの本にも
 人間には「民族的プライドが本質としてある」
 人間は自分を増やしたい欲があるので、
 自分の性質を基準として他人を判断するようになる
 (要するに自分と同じ民族には優しいが、全く異なる性質を持つ民族は嫌悪する)
 ということを書いている。

 人は「自分が拡大したい」欲があるので
 世界が広がりすぎて自分の生存が脅かされたとき
 そういう「民族的プライド」が刺激され
 ナショナリズムや民族的な差別心(=悪、フォース)
 が顕在化してしまうのかもしれない。

 グローバリズムを推し進めた、一部の富裕層やエリートたちの
 際限ない欲望が権力を集めて大きくなり、
 さらに大きくなりたいと世界も拡大し、
 残りの人々を圧迫し
 その恐怖から、自分を残したい欲が生まれ、それが排斥主義という悪を生み出したのだろうか、
 と思いました

 ちなみにセドラチェクさんとガブリエルさんの対談では
 この後「資本主義はゾンビ」の話になっていてこれも興味深い。

 セドラチェクさんが
 「資本主義はゾンビ、
  人を食べるとともに増殖する」
 「しかしゾンビは人の心も食べてしまうから、人間には好かれない」
 「資本主義の問題は、道徳が無くなって中が空洞になってしまうからだ
  と思っていたが、
  本当は中にフォースがあるせいかもしれない」
  そのフォースとは、「役に立つことをすべし」「やられたらやり返せ」
  という価値観だ、と…

 ガブリエルさんはそれに対し
 「資本主義はどこまでも拡大しないといけないシステム」
 「資本主義は成功という概念の上に成り立っている、
  しかも成功しても、ずっと成功し続けなければならない、
  そのために、目をつけていなかったものに値段をつける」

 この「拡大しないといけない」脅迫観念を
 マルクスは「資本主義の構造の圧力」と呼んでいた、
 と2018の後半では言っていました

 しかしながら、この文脈だと
 資本主義は人間に対して存在する構造体で、
 資本主義構造自体の内部にフォースを宿して
 人を食べてゾンビにする、みたいに聞こえるのですが

 しかし実はゾンビは人間の心の闇なのかもしれない、と思う。
 たぶん誰しも、他人を食べて自分が増えたい、というゾンビ的欲望があって
 資本主義はそれを理論的に正当化するだけのもの、
 という気がする。

 マルクスは資本主義を嫌い、資本主義構造の圧力、と言った
 マルクスは構造に圧力がある、と考えたんだと思うのだが
 構造自体に圧力はなく
 その中にいる人間たちが圧力を加えていたのではないか、と感じる。

 ちなみに私の善と悪のイメージは陰陽の図で
 何もない空から、
 物や人が生まれるために陰陽に世界が分裂した結果が善と悪なのかな、と。

 お金のシステムの世界で言えば
 陰も陽もない世界とは
 みんなが平等にものをわけあってたユートピアエデンの園みたいなところなんだろうけど
 他人より自分が増えたいという欲がある人間は
 そういう場所では生きられないのだろうと思う。

 つまり個体として体を持って生まれたために、善と悪ができた。

 でも見方を変えれば、
 悪や悲しみがあるから、善なる行いに感謝できる。
 幸せも喜びも味わえる、
 自分と違う他人に会えるから新しい発見もある。
 それが体を持って、感情を持って生きる醍醐味なのかな、とも思う。

・2018、マルクスシュンペーターの指摘する資本主義の問題点
 2018のとき、
 マルクスは「資本主義は、その矛盾ゆえ滅びる」
 シュンペーター
 「資本主義は、その成功ゆえ自壊する」
 「資本主義ははその成功ゆえ、
  土台である社会制度を揺さぶる、
  存続不能に陥り、社会主義へと向かう要求が必然的に訪れる」
 ということを言っている

 これはニーバーさんの本でいう
 「財産権の社会的な性質」の話かなと思いました。
 ニーバーさんの本では
  資本主義は個人の財産権を認めるが、
  実際は産業が拡大すると、財産は個人だけが築いたのではなく
  たくさんの他の労働者の働きによって築かれたものになる、
  だから財産とはみんなのものでもある、つまり社会性を帯びてくる、
 とあるのですが

 おそらく資本主義では、
 資本家は財産に社会性があるとは思っていない。
 全部自分のものだと思って、富を自分に集中させてしまう。
 だから労働の対価をちゃんと労働者に支払わず、
 マルクスの言う「搾取」が起きて格差が生まれるんだろう。
 
 この場合、資本家が財産の社会性を認めず
 みんなに分かち合わないから問題が起きるのだろう、と思う。

 もちろん資本主義は競争を生み、
 競争はより良いものを生むための推進力となる。
 勝者にご褒美が行くから、みんなのモチベーションが上がるんだろうけど、
 しかしそのご褒美は、他の人の労働もあってこそ
 という考えが、これからの資本家、経営者には必要だと思う。
 
 そして現在でも似たような話はあるように思う。
 例えばGAFA、と言われる人たち。
 利用者が情報をただで提供してくれたり
 インスタとかブログ、ツイッターなどで利用者がただ働きをしてくれるから
 自分たちが儲かっているわけで

 社会的に何か還元する、という考え方を持っておかないと
 いずれはどこかでフォースが爆発しちゃうんじゃないか…
 (今年はネット税などの議論もされていますね)

 中世のプロテスタント的資本主義では、
 儲けた人は、教会に寄付するなど、社会に還元するから
 蓄財が許されていた、と聞いたことがありますが
 そのような社会への還元の精神が欲しいと思う。

 2017で原丈人さんが
 「これからは「公益資本主義」があるべき資本主義ではないか」
 (株主だけではなく、社員や仕入れ先、地域社会、顧客などの「社中」に利益を還元する)
 とおっしゃっていましたが
 (このご意見はこの後、あんまり取り上げられていない気がするんだが)
 もしかしてこれこそが大事になるのかもしれない。
 
・「2019」本当の自由、個人主義について
 「2019」後半では、ハイエクの自由についての考え方が紹介されています。
 このとき、国家が個人を支配するのが問題だ…
 というように読み取れたのがちょっと気になりました

 このときは、
 第二次大戦時、大恐慌のとき
 失業が人々を不安に陥れると見抜き、それを最優先に防ぐために
 政府の介入を許したケインズ
 政府の介入は隷属への道だ、と反対したハイエクの論争が紹介されている。

 ケインズは必要悪的に、政府の介入を(一時的に)許したわけだけど
 それが批判されている。

 そのケインズは「2017」で
 セドラチェクさんに「リーマン後にケインズ理論が悪用されている」と言われています。
 つまりケインズがかつて主張した、政府介入による雇用捻出の政策が
 いまだに行われ、世界は借金してまで成長を至上命題にしている。

 さらにそのリーマンショック
 「2019」では、政府の介入により引き起こされたものだ、という説も紹介されている。
 政府が不良なサブプライムローンにお墨付きを与えていたので
 市場が健全に働かず、悪い不動産物件も市場に出回ってしまったんだ、と。

 一方でハイエクが自由から見出した価値については、
 評価されているように見える。

 「2019」後半で、セルギンさんは
 「ハイエクの要点は「自由な社会には価値があること」だ」
 と述べています。
 その自由とは
 「お互い自分の能力を生かしあい
  自分の意見を言い合える社会」
 「これらはGDPでは測れないが、人間の幸福にとって何より重要」だと。

 さらに、セドラチェクさんは 
 「ハイエクは資本主義の原点に立ち返っていた、
  モノを買う自由ではなく、他人を罵り合う自由でもなく
  もっと深い自由だ」
 そして
 「国家に個人が支配されない自由な社会です」と述べています。
 
 …これらを総合すると、
 ケインズ(失業を避けるための政府の介入策)の
 政府による悪用が
 今の成長至上主義を起こした、
 政府の介入が市場の自由をおかしくしている、
 というように感じました

 しかし私が思うに
 成長至上主義を産み出し、個人を縛るようになったのは
 政府の介入のためではなく、
 そもそもは自分の拡大を求める、人の欲望が起こしたのではないかと。
 政府の介入はそれを後押しした、というか悪用されただけで、原因ではない。

 結局、政府介入派のケインズ理論
 自由信奉派のハイエク理論も
 人間の欲望に悪用されたというのが事実なんだろう、と思う。

 ケインズの政府介入策は
 政府に結び付く人たちの私腹を肥やすために使われた。
 中央と結び付き、中央銀行の介入を許したフリードマンもその一人、
 不良債権に政府保証を与えて、リーマンを起こした人たちもそう。

 ハイエクの理論も同じで、
 セルギンさんは「ハイエク新自由主義、と言われるのは心外だ」
 というようなことをおっしゃっているが、
 新自由主義に悪用されたのだろう、と思う。
 ウォールストリートの人たちの財産を増やし
 今の短期的成長至上の風潮になってしまった。

 しかしながら
 国家が統制するにせよ
 自由を許すにせよ、
 人間の自分を増やしたいゾンビ的欲望は
 自分に有利になるように、いろんな理論を悪用する。
 それはどんな理論を社会が採用しようが同じで、
 このことは常に頭の隅に入れておかねばならないと思う。

 もちろん、国家による統制は、
 権力への抑制手段がない分、自由主義よりたちが悪い。
 とはいえ自由主義でも
 今のように格差が大きくなりすぎると、
 実質的に権力を集中させた人たちへの抑制力が働きにくい。
 経済力に関係なく
 互いをほどよく抑制できる仕組みが必要だろう。

 「2019」で、お金の分散管理システムである
 ブロックチェーンシステムが出てきたのもその流れなのかもしれない、と思う。
 ブロックチェーンの場合
 理論的にはですが参加者は権限が平等、
 互いを対等に監視するので
 不正は働かない仕組みになっていますよね…

 ただこのブロックチェーンシステムも
 理想はいいんだけど、現実にすると難ありというか。。
 これは、システムの仕組みを参加者それぞれが同等に理解しているのが前提だが
 しかし今の場合、
 システムが分かるのは知識のある一握りの人たちだけだし
 財産のマイニングができるのも、
 高性能のコンピューターを持つ一握りの人。
 また現実世界と繋げるために
 現実の通貨と交換する中央管理システムがやはり必要になる。
 という点で、誰かの権力に利用されてしまう可能性は、かなりあると感じる。  
 
 しかし、最後の方でセドラチェクさんはこうおっしゃっていました、
 「ハイエク
  「全ての悪を滅ぼそうとすると善も滅びる」
  というトマスアクィナスの言葉を引用している、
  これこそが本当の自由だ」

 まさにこれが忘れてはいけないことで、
 どのやり方も人間が悪用するとしても、
 それを全部否定していたら全部誰かへの丸投げになり、
 専制を許してしまう、それが一番恐ろしいことなんだろう。
 
 …しかし、自由って難しい。
 これこそが本当の自由だ、と思っていたら
 その名の元に、権力者に有利なシステムを、弱者が自発的に選ぶよう仕向けられてしまうこともあるし…
 
 自由は大事、自由を保証するシステムも大事。
 でもほんとにこれって自由なん?と問い続けていくことが、一番大事なのかも。

マルクスの近代精神についての分析
 最近読んだ「社会学史」という本(大澤真幸さんの本)で
 マルクスの「資本論」について、「近代精神の分析本」という見立てがされていて
 なるほどと思ったので、それについても少し。
 
 「2018」のけっこうな主役はマルクスだった、と思います。
 この中で、マルクスはお金について
 「王様のようなもの。
  みんなが家来のように傅くから
  自分は王様としてふるまう」
 という話をしています

 そして「社会学史」の中では
 マルクスは人々のお金への態度について、
 神への信仰のようなものと見ていた、
 という解説がされていました
 
 マルクスは、近代では、モノはすべて商品化され
 値段を付けられ、お金に価値が換算される。
 その価値の万能な物差しとしてお金が使われるから、
 お金がありがたいものとして
 みんな神のようにありがたがるようになる、と。
 お金がただの紙切れだとわかっているのに、
 知らず知らずのうちにそうなってしまう、と。

 そして、これは近代精神に通じるらしい。
 どういうことかというと、近代はモノの価値をすべてお金に置き換えた。
 それと同じく、物が動く現象をシンプルな数式に置き換えた。
 このように、数式や数字や単純な理論に物事を置き換えて理論的に考えるのが
 近代の精神である、と。

 「2017」のとき、セドラチェクさんは
 ケインズが「我々は不確実性という自然な感覚を失っている」とおっしゃいました。
 経済学でいう「リスク」(危険が起きる確率)と
 未来への「不確実性」(危険が実際に起きるかどうか)を混同してはいけない、と。
 「不確実性」を「リスク」という数字に置き換えて
 現実感を失わせてしまったのが
 もしかしたら近代の精神なのかもしれない。

 セドラチェクさんは 
 「2018」では、「価値と価格は一緒ではない」という話をしていました
 マルクスは価値を価格に変換してしまったのが近代の精神だ、と言っている。
 近代の精神が、価値と価格を混同させ、
 本来お金で測れない価値でさえも、数字で評価するようになってしまった…

 そしてこの数値化、数式化の近代精神は
 今の科学、テクノロジーに引き継がれていると感じる。

 「2019」ではガブリエルさん、ハラリさんが
 人間の体験をすべて機械化、数値化してしまうことを批判していました

 ガブリエルさんは
 「機械化、合理化をしていくと
  お金として変えない価値や意味が見過ごされる」
 「人間の体験には価格をつけることができない、
  体験の本質は「自由」や「偶然性」にあるからだ」
 「人間が経済学や数字のシステムに覆われてしまったら
  自らの手で自由や偶然性を破壊することになる」
 と述べている。
 
 近代化の精神、
 つまり価値を価格に置き換えたり
 物質の現象を数式に簡略化したのはなぜか、を
 そもそも考えてみると
 おそらくは理解したり、利用しやすくするため。

 それはあくまでもそれは便宜上のもので、
 現実そのものではない、
 ということを忘れてはいけないのだ、と思う。

 資本主義を作り出した精神もおそらく近代精神と同じで
 お金の仕組み、資本主義の仕組みは
 あくまでも人間が互いに分かりやすく、便利に生活するために
 便宜的に考え出したものであり
 それを目的化したり、絶対視するようになってはならない。

 まぁ、どんなシステムでもそうだと思うのですが
 システム、としてきちっと決められてしまうと
 我々はどうしてもそれが確立されたもので
 変えてはならない、というか変えられないもののように感じてしまう。
 
 でもそれは人間が自分たちの為に作ったんだから
 自分たちのためにルールを変えたり、見直すことも
 時には必要なのかもしれない。

 社会も変わるし、人間も変わるし
 それに伴って必要な制度も変わる。
 人間は機械じゃないから、システムの想定外の事態になることもあるし
 人間には悪があるので、制度が悪用される失敗も必ず起きる。

 時には弱者のために例外を設けたり
 見直しを許す余裕や優しさが
 社会にも人間にも欲しいかなと思います

 この制度時代に合わないんじゃない、なんかおかしくない?
 という疑問を出してもいい。

 しかもその疑問や否定も
 その人が、自分の利益を拡大するために利己的に産み出したものか
 それともみんなのことも考えたものなのかも
 常に問うていかねばならない、
 それを問いあえる自由も持てる社会にしていかなきゃならないんだと思う。

 なぜなら、人間は自分を増やしたい欲もあるが
 単体では「弱く愚かな存在」で
 他人と協力しあわないと生き延びていけない存在でもあるから。
 (進化論的にも、ヒトは弱いから社会性を身に付け、
  多様性を守ることで種としての存続を保ってきたし)

…私は理系出身の人間だったので
社会学とか哲学って、
時代がたつにつれいろんな説が出てきて
どれもどこかで現実には当てはまらないのに、
なぜいろんな人がこねくり回して考える必要があるんだろう、
と前々から疑問だったんですが(スミマセン)

それは人間も、社会も、制度も、
変わりうる生きたものなので
その時代に合うもの、
その中で普遍的に大事なものは何かを
ずーっと考え続けなければならないんだな、と今では思う。

今後は自然科学的な知識を持つ人も増えてますし、
それを取り込んだ哲学や社会学も発展するような予感がします。
人工知能脳科学者も哲学を話す時代になっていますし
哲学者が脳について語る時代でもある。
いろんな知識を持った人たちが
自由に集まって議論できる社会であれば
もっと面白い、もっと当を得た哲学というか普遍的真理みたいなものが
どんどん出てくるようになるのかなと思いました

…なんだかだらだら書いてしまいましたが
書きながら色々考えさせられました。
14日のスピンオフにも期待したいと思います

というわけで今回はこの辺で。

(3019.7.19追記)

ついでながら、
この番組のスピンオフの「欲望の民主主義」(2017年4月くらいに放送)についても書いておこうと思います

(詳しい内容は
 
https://amagomago.hatenablog.com/entry/449379095.html?_ga=2.84940121.1170958462.1563250699-811054090.1563250699

この番組は、
フランスで極右政権が支持を増やしていたタイミングで放送されたもので、
民主主義の本質について改めて考えている番組です。

前半は極右やアメリカのトランプ大統領の台頭の背景として
グローバル化で取り残された人たちがいる、という話、

後半の最初の方はフランスの民主主義の歴史についての話でした。

後半になると民主主義の価値とは何か、
という話になってきたんですが

その時出演していた一人、
哲学者のマルクス・ガブリエルさんの話がいまいち理解できてなかった。

今この文脈で読み返して、
ようやく分かってきた気がするので、メモしておきます

彼は民主主義について、
「民主主義とは情報処理の特定の形」
と独特の表現をしている

そして
民主主義が
「1つの感情処理システムの形、人間の行動を組織する活動」
に過ぎないのに
人々が民主主義により
「真実を得られる」
「嘘つきの政治家を暴ける」
「誰かがこの大きなシステムを理解している」
と幻想を抱くので混乱を招く、と言っている。

一方で番組の最後の方で彼は
「民主主義が崩壊したら、かつてない戦争に陥ることを忘れないで欲しい。
 民主主義は守らねばならない、
 それはみんなで生きるための唯一の選択肢だから」
とも言っている。

…民主主義とはしょせん幻想さ、と言いながら
 守らねばならないくらい価値がある、てのは
なんだか矛盾しているようにも受け取れるが、

しかし私が今思うに
彼の言いたかったのは、
  民主主義自体はただのシステムに過ぎなくて
  価値あるものになるか否かは使う人間次第。
  であるのにみんなは、
  民主主義というシステム自体に力があるかのように勘違いしている、
ということかなと思います。

彼はただのシステムである民主主義に対してどういう態度であるべきか、について
 「中立的になり、
  感情的にならないこと」
と言っています。
つまりありがたがらないこと、と解釈できる。

また、
「民主主義とは制度の中で普遍的価値観を実現させるものだが、
 今はまだ実現されていない。
 これから実現されるものだ」とも言う。

 民主主義は箱としては素晴らしいシステムだが、
 そこに普遍的価値観を宿して有効なものにできるかは我々次第だ、
と述べているように思える。

ではどうすれば民主主義は有効に働くのか?

彼は
 「民主主義とは多数派が少数派の意見を尊重すること」
とも前半で述べていて、
後半でも
 「民主主義とは、「反対派の共同体」です。
  異なる意見を認められれば、あなたは民主主義だといえる」と言っている

ただし、「「普遍的な価値」を尊重することが前提」だとも話しています

つまり、
・同じ普遍的価値観を持った上で
・自分とは違う相手の意見を尊重しあうこと
が大事だ、と。

しかしこれを邪魔するものが人間の欲望や恐怖。

この番組では
恐怖から逃れるための専制を容認したホッブズの話がでてきて、
彼のホッブズの解釈もまたユニーク。

一般的にはホッブズの理論は
人間は自然状態だと殺しあいになって野蛮なので、
リヴァイアサンのような権力に統治してもらうべきだ
という解釈なのですが

彼の場合は
リヴァイアサンは政治理論ではなく、
  先住民に対する虐殺を正当化するもの」
と述べている
 西洋社会がアメリカ大陸の先住民を支配するための論理として使った、と。

 そしてこの理論に従い、
 西洋社会は先住民を支配したものの、
 己の残虐さを自覚し、
 この残虐性は政府が管理すべきだと考えたのだ、と。

しかしながらガブリエルさんはこのとき
「政府は残虐さを管理もするが、増加もさせる、
 政府は自然状態を克服できていない」
「というか、もともと自然状態には善人も悪人もない」
とも述べている。

これは、西洋社会は、
ホッブズの理論を二重三重に悪用してきた、
と言っているように聞こえる。

 つまり、最初は西洋社会が、
 先住民への支配を正当化するためにリヴァイアサンを持ち出し、
 その次は、政府による民の支配を正当化するために使った。

 しかしそもそも、自然状態というのは、
 自分が生きたいという、生き物としての本能同士の生存競争で、
 そこには善も悪もないのに勝手に悪と名付けている。
 そうして、本当の悪である「他人への支配」を正当化しているわけです。

人間の欲望は果てしない。
生存したい、というのは正当な本能の欲求だが
他人を支配して思い通りにしたい、
となると欲望のもたらす悪になる。

彼はこの欲望を克服することが大事だ、
と言っているように思える。
というのは最後に
 「民主主義は、明らかに欲望の経済と関係している
  この恐怖の経済は乗り越えなればならない、
  民主主義の最大の価値を思い起こせば、乗り越えられるはず」と述べています。

 制度としては素晴らしい民主主義だが
 みんなが恐怖や欲望をのり越えて、
 普遍的価値観を忘れない努力が必要なのだ、
というように聞こえる。

全体をまとめると、
 我々は民主主義というシステムを作りさえすれば
 みんなが善人になってそこに従う、という幻想を抱いてしまう。

 でも本当は、システムを使う一人一人が、
 他人の辛さを思いやるだとか、
 他人を傷つけないだとか、
 人間として大事なことを、誰もが普遍的価値として共有すること。

 そうすれば民主主義という制度の中で
 普遍的価値を実現することができる。
 少数派の意見にも謙虚に耳を傾けることができる、
ということかなと感じました

「光の子と闇の子 デモクラシーの批判と擁護」ラインホールド・ニーバー

「光の子と闇の子 デモクラシーの批判と擁護」ラインホールド・ニーバー

1944年出版本の復刊、という古い本ですが、
「ブッシュ親子やオバマ氏などの歴代アメリカ大統領も影響を受けた」
との宣伝文句に釣られて?読んでみた本です。

しかし文章が難しく、読むのに時間かかりました…

この本のテーマはデモクラシーですが
裏のテーマは人間の二重性かな、という印象を受けました

筆者は第二次大戦くらいの時代の神学者
性悪説的な社会の見方をしている人です。
民主主義をはじめ、
それまで作られてきた社会制度が
高い理想を掲げながら完全にはうまくいっていない理由は
人間に備わる生来的な「悪」に気づかなかったからだ、
としている。

そして、その生来的な「悪」を見抜いていたのが
キリスト教の「原罪」という考え方だ、と。
このキリスト教的な道徳観を基盤とした、世界共同体の設立を目指す
という感じの考え方だったようです

この考え方は、当時のキリスト教からもリベラルすぎる、とされ
危険視されてもいたそうなのですが

翻訳者の方が終戦前くらいに筆者のもとで学んだとき
当時筆者の講義を聞くために、
若者がたくさん詰めかけていた
という話もあとがきには書かれていて
それだけ、彼の原罪説的な考え方は、多くの人の心をとらえたのだろう、と思う。

民主主義(というか近代自由主義)では
人間の悪は人間の本能的な欲望のせいだ、
人間の善なる理性がそれを抑える、とする。
しかし筆者は理性も本能も欲望に根差すものだから、そんなに簡単に分けられない。
それが戦争などの間違いを引き起こしてきたんだ、
と考えている。

その視点は、科学の発展でますます理性が重視されている現在、
よりいっそう見直されていい視点だ、と感じました

それから余談ながら、作家の佐藤優さんの長めの解説もなかなか異色でした
佐藤さんはニーバーのこの本に刺激され
大学で神学部を専攻したそうで、
その意味では彼の人生に影響を与えてくれた本だそう

ところがニーバーの思想自体には「全く共感できない」と書いています。

この本のあと、ニーバーは共産主義批判、
アメリカの資本主義や民主主義の押しつけ政策を擁護してしまったらしい
この本に関しても、マルクス主義ソ連共産主義との違いを分かってない、
みたいな批判を書いている。

解説に批判ってどうなんだろう、とは思うのだが(笑)
たしかにこの時代の方ならではの偏見が少しあるかなぁとは思うし、
そこを差し引いて読めるのはいいかなと思いました

さて前置きが長くなりましたが、
内容について私の理解の範囲で書いてみたいと思います

○「光の子」と「闇の子」 
 最初に筆者はデモクラシー(民主主義)について 
 「理想的には、永久に有効な社会的、政治的組織の形態」と書いていて
 個人の自由や多様性に公正なもの、と肯定的に評価している
 
 一方で民主主義は
 人間がもともと光と闇をともに抱え込むことに気づいていない点で問題がある、とし、
 それを題名でいう「光の子」「闇の子」にたとえて論じています

 この言葉自体は聖書からの引用だそうですが

 筆者のいう「光の子」とは、
 自分の私利私欲よりも上に、普遍的道徳がある、
 人はそれを守るようになる存在だ、と信じる理想主義者。
 具体的には、中世の敬虔なカトリック
 人間の理性を信じ、個人の自由を重んじた近代デモクラシー、
 富の平等分配をすれば、争いのない理想的な社会ができる、としたマルクス主義者など。

 一方「闇の子」は、そういう普遍的価値など幻想だ、
 しょせんこの世は弱肉強食だ、と考える人たち。
 具体的にはナチスや独裁者など。

 一般には闇の子が悪者で、光の子は正しいとされるが
 人間は、光も闇も同時に併せ持つので、誰もが闇の子になりうる。
 しかし光の子は自分が闇の子になることもあると気づいていない、
 それを筆者は「愚か」と呼ぶ。

 例えば中世のカトリックの聖職者。
 元来カトリックでは、この人間の闇に気づいていていて、
 これを「原罪」と呼び、
 過度の欲望を、宗教的な規律で抑えようとしていたそうです。

 しかし、中世カトリックの「光の子」たちは
 それらのキリスト教の教義を
 特権階級の権威付けの為に使った、つまり彼らは堕落した
 そこに近代デモクラシー運動は反抗したのだけど、
 自分たちの堕落に気づかず、反抗者たちを「不信心者」として嫌った。
 その気づかなさを「愚か」だと筆者は呼ぶ。

 しかし、そのカトリック世界に反抗したデモクラシーも「愚かな光の子」だと。
 
 というのは、近代思想は、人間について
 悪の根源を人間の本能的な欲望にある、と考えた
 そして、理性がそれを自然に抑えるので、
 人間は本来的に無害な善なる存在だ、と考えた

 だから、欲望を起こさせる制度や組織、欲望の抑え方を教えない教育が悪い、
 としてそれらの改革を目指した。
 封建的なカトリック社会に対しても
 彼らの心の悪が悪いのではなく、封建社会のシステムが悪いんだと考え
 それらを破壊することに熱心になった。

 しかし筆者によると、人間は本質的に無害ではない。
 理性も本能も人間の欲望に根差しているので、
 理性が本能を抑えるだけではなく、
 本能を正当化してしまうこともある。

 またこの欲望自体も矛盾しており、
 筆者によれば人間には以下の二つの欲がある
 ・生存欲→自己の増大欲→他人への支配欲
 ・自己実現(真実の追求)欲→他人への貢献、他人との協調、社会を作る
 
 これらは対立するだけではなく結合もしていて、
 たとえば他人と協力してコミュニティを作るが、
 そのコミュニティが一大勢力になって、
 他のコミュニティを支配する、ということも起きる
 このため、自己実現(真実の追求)、という名のもとに
 他人への支配欲が容認されてしまう、という事態も起きる
 (その極端な例が、民族浄化を目指したナチス

 筆者によれば、
 人間の支配欲は抑制がないとどんどん増大してしまうもの、なのだそう
 それだけ人間は利己的で堕落しやすい存在なのだそうだ
 しかし、近代デモクラシーの時代のいろんな社会哲学は
 理性とか政府などの力でどうにかできる、と考えていた点で「愚か」だという。

 ざっくり書くと
 ・功利主義的考え方…私利私欲の追求を重ねていけば、やがて公益と一致する
  →私利私欲の増大は公益とは一致せず、
   むしろ歴史によれば、個人に権力がますます集中している

 ・ホッブズリヴァイアサンマルクス主義的考え方…政府や強力な権力が私利私欲を統制すればよい
  →権力をゆだねられた政府が独裁に走る

 ・ドイツロマン主義…人間はやがて善なる方向に進化するから問題ない
  (国家間の争いも論じていて、ドイツ帝国がそれを統治する存在になる、みたいな考え方で
   それがナチスを容認することにもなった、と後に批判されたようだ)
  →人間はかならずしも善にはいかず、悪に行くこともある

 だから筆者は、人間の私利私欲の力の強さ、人間の悪の強さを知るべきだ、
 ということを書いている

 …ふーん、ここまで読んでいて、
 人間の悪が根源的にあることに気づいていないのが、いろんな制度がうまくいかない原因なのだな、
 とは分かったのだが、
 さらに筆者は、以下の章でそのことを詳細に論じていたのが見事でした

 次に挙げるデモクラシーの思想が本当に正しいの?みたいな分析をしている
 ・人間は社会の制約から解放され、自由になるべきである(社会と個人との関係)
 ・人間は自分の財産を所有する権利がある(財産権の個人的所有)
 ・人は多様性に対して寛容になるべきである

○社会と個人との関係
 筆者は近代デモクラシーは
 個人を縛り付けていた封建社会からの解放運動から始まっている、としている 

 なので、社会は「個人を縛る存在」と考えられがちだが
 それは封建社会の特殊な社会形態に限るもので、
 本来は社会は個人を縛るものではないし
 単なる個人同士の争いの調停役でもない、とする

 我々も「社会」対「個人」じゃないの?と思いがちなんですが
 実際はそうじゃないよ、ということを以下の三点から論じている

 ・1つ目は、個人は社会と対立関係ではなく、相関関係にある、ということ
 
  個人は社会や歴史の中で生まれる。
  芸術や思想などの個性の表現も、その時代や場所、社会に依存していて
  その表現から普遍的な真理が生まれることもある

  個人が個性とか自由を増し、既存の社会の枠を超えてどんどん大きくなっていくと
  既存の社会を壊す一方、
  新しい社会を作ることもある

  個人は、社会を壊しもするが、社会的な秩序も必要なのだそうです。
  それは、社会的秩序が無いと、個人同士のぶつかり合いの無秩序な世界になってしまうため。
  
  つまり、個人は社会から自由になりたがる一方で
  そもそも個人は社会から生まれたものだし、個人は社会を必要とし、個人は社会を作る。

  近代の個人自由主義では、個人の独立や自由の面を強調していて、
  個人が社会を必要としている側面を見ていない、と筆者は批判する

  この点キリスト教では、個人が自由過ぎることは戒められているそうです
  「自己愛」は、他人を支配したり、
  孤立主義に陥ったりする、と。
  
  それから、マルクス主義は近代個人自由主義への批判から生まれたが
  彼らは個人が社会を必要とすることを分かっている点では正しい、という。
  ただ、彼らは、個人が社会から自由にもなりたがることには気づかず、
  個人を社会と完全に調和できると考えている、
  そこが間違っているそうです
 
  つまり、筆者は、個人と社会とはもっと奥行きが深く豊かな関係を持っているよ、
  ということを言っている

 ・2つめは、個人の持つバイタリティ(欲望)は創造性も破壊性も持つので、
  そこをうまく容認し、抑制していかねばならない、ということ
  
  筆者によれば、個人の自由を求める力は
  本能的な欲求(食欲、生存欲、性欲など)に由来するもので、
  支配欲なども同じく本能的なもの
  
  この自由を求める力は創造力という素晴らしいものを作り出すので、
  近代の個人自由主義では、
  無限の自由を許すロジックを色々考えている

  たとえばダーウィンは、自然淘汰で他者により自分の衝動が抑えられる、とする
  しかし筆者は、人間社会は自然とは違い、社会の結合力も範囲の広さも違うので
  自然には抑えられることはできない、
  社会による抑制は必要だ、と言う。

  そこで、個人の理性や、理性を持つ集団や政府に仲裁役を求める、
  という考えが起きる(自由主義マルクス主義

  しかし筆者によれば、理性自身も本能と同じく欲望と結びついたものなので、
  理性が本能を抑えることもあるが、
  自分の本能を正当化し他人を攻撃することもある、
  だからこの方法で完全に秩序を保つことはできない、とする。

  じゃあどうすりゃいいの?となるんですが
  筆者が言う「歴史が出した答え」とは、
  カトリックで言う自然法
  (人間は自分のことのように他人のことも考えるべきだよ、という考え)
  あるいはデモクラシー自由主義でいう「普遍的正義」「真理」
  を考えること、

  しかもその普遍的正義とはガチガチに決めたもんではなくて
  「私的判断に徹底的な自由を与える」というもの。

  つまり、個人の自由を制限する基準として、普遍的な真理を考えるが、
  その普遍的な真理すらも、時代や社会により柔軟に変えられる自由なものにすべき、
  という考えなんだそうです
  
  筆者はその考えを採用する理由を幾つか挙げていて
  ・どんな理性も、純粋に個人や集団の欲からフリーな客観的なものにはならない
  ・どんな正義も、後の時代にもっといいものが出てくる可能性は否定できない
  ・特に政治の道徳では、その時の社会や歴史に制限される
  ・平等に対する概念は、その時代の支配階級を弁護するものとなりがち
  ・社会の変化で、思いがけず新しい真理がもたらされることがある …など

  筆者は、人間のバイタリティは創造性を持つから、
  それを容認する自由な社会が必要だが
  個人のバイタリティには破壊性もあるから抑制も必要だ、とする

  この抑制と容認のバランスが必要で、
  制約の仕方自体も絶えず検討されねばならない、ということを述べている

 …なかなかアクロバティックな考え方だな、と思いました。
 個人のパワーは創造的だが、破壊力もある。
 そして、その個人が作る社会もダイナミックなもの。 
 だから、それらを制御する決まり自体もダイナミックなものでないと、
 対処できないのだな、と感じました

 ・3つ目は、個人は社会や歴史を超越することもある、
  崇高な宗教的な道徳を創造できる、ということ

  ここは民主主義と関係あるんか?とも思わんでもないが、
  神学者ならではの筆者の意見かなと思う

  筆者によれば
  個人の宗教心や良心は、社会や公共的責任と結び付いている一方で、
  それらは社会や公共的責任から完全に超越しているとも言える

  というのは、個人の良心は社会に由来するものだが、
  一方で社会に逆らう良心もある。
  また、社会は個人を制約する存在でもあるが、
  個人にとって社会は、自然や時間から縛られた存在とも言える

  社会や歴史を越えた個人の自由が、新たな歴史を作ることもあるんだそうです。
  個人は人生の意味を自由に問うが、
  そのとき個人は、社会とのつながりでは満たされない
  究極の崇高な目的を持っている、と。

  個人としては、この普遍的な崇高な宗教心と
  社会の道徳と区別する精神の高さを持つことが必要だ、とし、
  社会はそのような高い精神を摘み取ってはならない、
  と筆者はのべている

 …個人は社会に物理的には制限されている存在だが
 考えたり表現するのは自由な分、
 歴史や社会を超えられる。
 そこに新たな歴史や思想を創造し、
 そこから真理に突き当たる可能性も持っている、と感じました

○財産権
 次に、個人の財産権について。
 民主主義や自由主義では、個人の権利として認められています。

 筆者は、財産権は、自分と他人の所有物の区別がついて以来の争いの種だが、
 社会的には、財産権は個人の正当な権利なのか
 社会的なもの(みんなのもの)でもあるのか
 が争いを起こしてきた、という

 この闘争は昔からあるそうで
 キリスト教学説では
 本当はなんでもみんなで分け与え合わないといけないんだけど、
 財産権は必要悪として、自然法の中で認めているそうです
 人間は利己的なので、他人を侵そうとしてしまう。
 そこから自己を守るための当然の権力として必要だ、と。

 そののち、プロテスタント、特に予定説では
 財産権は神から託されたものとして継承された

 一方16、7世紀のセクト派のキリスト教では
 (おそらく教会や貴族の権力が強くなり、財産を独占するようになってきたので
  その批判としてだと思うが)
 自分の財産は公のもの、
 隣人の助けにより得られたものだから他人ともわけあわねばならない、
 と主張したそうです

 筆者はこの論争がさらに近代で引き継がれ
 先鋭化したのが自由主義マルクス主義の論争だ、とする

 自由主義は、もともと個人を政治や宗教の縛りから解放しようとする思想。
 だから財産に関しても、あらゆる政治的管理や道徳的抑制から、個人を解放しようと考えた
 一方マルクス主義は、あらゆる悪は私有財産の所有だ、と考えた

 結論的には、
 筆者はこの考え方はどちらもある意味「光の子」の愚かさを持っている、という

 自由主義については
 ・財産権が個人に集中することを想定しなかった
 ・個人に集中する財産権が、キリストの自然法でいう「防御」の意味合いだけでなく
  他人への支配欲になる、ということを想定しなかった

 マルクス主義については
 ・財産権のみが経済的な権力だ、と思い
  財産権さえみんなに均一に分配すれば平等になると考えた
 ・財産をみんなに分配する権力(政府)が支配欲を持つことを想定していなかった

 詳しく書くと、
 ・自由主義
  財産権を個人のもの、と考えたが
  実際にこの時代では工業化、商業化が進んで
  商業財産とは、資本家だけではなく労働者の力で作られるものだった
  つまり商業財産は個人的というより、社会的なものになった
  なのに商業財産は資本家のもの、となった

  さらに、商業財産は、持ち歩きや貸し借りしやすい証券や株式の形になっているので
  余計に資本家が自分のものだと勘違いしやすい。

  こうして、資本家に富が集中するが
  その権力は、もはや防御ではなく、他人を支配する権力になっている

  近代民主主義は政治によりそれを解決しようとしてきたが
  その不均衡は解決できていない、と筆者は書く

  さらに、この時代の思想では、この個人の財産権は適当に制限される、と考えた
  ロックの場合は、自然状態では適当に収まる、と考えた
  筆者によれば、彼の場合、原始社会を想定して議論していたので
  近代社会ほど財産が社会的なものになるとは想像していなかった、とする

  そのあと現れた自由放任主義理論では
  自由市場と自由競争により均衡を保つと考えられた
  しかし筆者によればこれも幻想で、
  そもそも経済活動は経済の不均衡から始まる、と指摘する
  (たとえば、財産を持つ人でないと商売できない)

  そして歴史を見れば、産業の発達は、この不均衡を増大させている
  個人の財産が均衡する、というのは単なる夢想だと筆者は考える

 ・マルクス主義
  筆者によれば、マルクス主義
  財産の社会性を見抜いたのは正しいが、
  財産権のみを経済力と考えたのが誤り、とする
  実際は、管理者階級や生産技術者なども権力を持ちうる、と。

  さらに、財産が分配されれば
  みんな争わなくなる、と考えたのも夢想だ、とする
  みんな平等な世の中になれば争わない、というのは
  人間の進化を夢見たロマン主義の一つである、と。
  また、平等に分配する権力を持つ政府が
  支配欲を持つ可能性も見過ごしている、と。

 つまり近代自由主義にしろ、マルクス主義にしろ、
 権力をたくさん持った人が支配欲にかられる、
 という人間の悪を見過ごしている点で楽観的すぎる、と。

 筆者は、財産問題に関する解決策は単純でない、という

 経済力は適度なら他人への防御になるが、
 強大になれば他人への支配欲が起きる
 均衡がありすぎても、なさ過ぎても難しい、と。

 自由主義のように、自由競争で財産の均衡化を行うのが1つの手段だが、
 無制限な競争は、無秩序な世界を生む。

 また、一概に権力の集中や財産権の個人所有が悪いわけじゃない、とも言っている。
 産業社会が相互依存を深めたとき
 効率化のため、便宜上一か所に権力を集める方がいい場合もある。
 また、財産には土地のように個人の安全保証の意味合いのものもある、と。

 このため筆者は、
 デモクラシーの社会では
 財産に関しては絶えず論争が続けられ、
 新しい展開に対して絶えず適応していくことが必要、と書いている。

 そのためには、自由主義マルクス主義の持つ考え方の誤りを持たないこと、と書いている
 例えば
 ・財産権だけが経済的な権力ではないので、
  財産だけ社会化しても、経済権力が均一化するわけじゃない
 ・権力が均一化したところで、支配欲が無くなるわけでもない
 ・経済的な権力は、防御的な権利の意味合いを持つものもある(土地による安全保障など)
  そして、そういう防御的な権利のはずが、支配のためのものにいつの間にか変わることもある
 ・過度の権力の集中は、支配欲を起こす …など

 筆者は、正義の為に権力を最善に分配し、
 秩序を保つための財産の管理を最善に行うことが必要で、
 これらをデモクラシーの手続きで行うことが大事だ、
 としている

 …富の分配を理想としてそれを目指したはずなのに、
  自由主義は産業化の増大により、結果的に個人へ権力を集中させ、
  マルクス主義は分配権の政府への委託により、政府に権力を集中させてしまった、
  というからくりを示しているのが見事だと思いました。

  また、自由主義マルクス主義のやり方は批判しつつ、
  産業社会では効率化のため、権力集中が望ましいこともあるし
  土地の所有は個人の安全確保のためでもある、
  と財産権自体の規制に対しては柔軟な考え方を示しているのも
  なるほどと感じました。

  先ほどの個人と社会との関係でもそうですが
  財産権や経済の権力も
  人間同士のダイナミックな関係から発生している以上、
  それを規制する決まりなどもダイナミックに変化する必要がある、と感じる。

○社会の多様性への寛容について
 筆者は、そもそも民主主義は、
 多様な文化や宗教の人たちをまとめていくために生まれた、という
 
 伝統的コミュニティにおいては文化も宗教も均一だったが、
 ルネサンス宗教改革などが起きると、多様性が生まれた
 その後も社会は、経済、文化、民族などが多様化し、拡張した
 そこで多様な人の意見をまとめるために、
 民主主義が生まれ、必要とされてきたのだ、と。

 一方ナチスはこの民主主義に逆行して、原始的な統一をもたらそうとした
 これは後退、偽の普遍的表現だと筆者はいう。
 真の普遍的表現は、多様性の豊かさを破壊せずに、
 宗教、民族、経済のグループを統合していくことだ、と。

 だから民主主義における多様性の思想はとても大事なんですが
 実行はなかなか難しいのだそうです
 それはなぜか、どうすればいいのかを、宗教、民族、経済の面から論じている

 ・宗教
  筆者は宗教を、価値体系や政治的原理を産み出す道徳的基準の究極の源とする
  なので、西洋では、宗教が多様化すると
 (基準がバラバラになるので)統一の妨げになるとされた。
  そこで、3つの対処法がされてきたそうです
  (カトリック的寛容、非宗教的な寛容、宗教の多様性を認めるやり方)

 ・カトリック的寛容
  カトリックの場合、正しいのは自分たち、と思いつつ
  一時的に、便宜上他の宗教にも寛容になる、というやり方をとったそうです
  プロテスタントや非宗教者は不条理と考える

 ・非宗教的な寛容
  これは自由主義社会の無神論者が増えてからのもので
  宗教を時代遅れの文化形態で、いずれ消滅すると考える
  宗教に無関心であるゆえに、どの宗教にも寛容な態度をとる、というもの
 
  しかし筆者によれば彼らの考え方も一種の宗教だという。
  彼らは宗教の代わりに、
  人間の善、理性で真理を統一できると考える
  しかし、人間の文化や宗教的信念は相対的なものなので、普遍的なものにはならない

  また彼らは「自分たちは民主主義社会を実現する、という宗教だ」ともいうが
  筆者は民主主義社会だけが真実ではない、という
  人間は、自分のいる時代の社会や政治を越えて
  究極の問いを追求する能力と必然性を持っている、と。

  さらに筆者は近代思想の中でも、
  相対主義(どんな人間の見方もありとする主義)を危険視する。
  これは「道徳的虚無の深淵」
  「無意味感をもって全生活を脅かすもの」「精神的空白をつくる」
  ヨーロッパではその絶望をナチズムが埋めた、と筆者はいう。

 ・宗教の多様性を認める
  たぶんこれが筆者にとって一番望ましいと思う考え方だと思うが、
  「文化の宗教的深所を破壊することなく
   自由社会の限界内で
   宗教的、文化的多様性を認めること」と書いている

  つまり、
  ・どの文化や宗教の道徳的な部分をも大事にして
   その多様性を認めること。
  ・それらの文化や宗教とは
   時代や社会に制限を受けていることも謙虚に認識しておくこと
  ・どの宗教も、
   正当性も主張したり独占権を要求しないこと。

  筆者は、宗教とは、
  人間が真理を見つけたと思っても、しょせんそれは相対的で、誤り、罪、有限性、偶然性もある。
  つまり一人の人間が悟ることなんてちっぽけだ、ということを
  人間に悟らせることだ、とする。
 
  そして、このような「宗教的な謙遜」は「デモクラシーの前提」と同じだ、とする

  このくだりの最後らへんは分かりにくかったので私の解釈で書くと、
  多分筆者としては、宗教者がこのような道徳観を持って世界を作ることを望んでいるのだが
  神を信じない自由主義の世界でも、
  宗教の持つ深淵さを大事にして、どの宗教の真理も大事にする姿勢がとられてほしい、
  と思っているのだろうと思う。
   
 ・民族
  アメリカは人種のるつぼ、と呼ばれ、
  民族的な多様性は最も顕著だ、と筆者は書く。

  しかし同時に、人種的偏見は啓蒙により消えると考えるのは誤り、
  とも書いている
  筆者によれば、人種的偏見は不合理なものではあるけども、
  気まぐれでもなくて、これは人間の生存欲から発する生来的なものだとする。

  つまり、人間には生来的に差別の心を持つようになっている、
  それを自覚すべきなんだ、と。
 
  人間は自分の生存欲から、
  自分の基準を人間存在の基準として、
  それに従わない他者を(非合理ですが)裁こうとする傾向があるんだそうです。
  (これを民族的プライド、と呼んでいる)

  具体的には、黒人差別などのマイノリティ迫害は
  マジョリティと身体的な特徴が違うから、という理由だけで起きる。
  さらにそういう偏見は、マイノリティの能力を認めなかったり
  彼らの至らなさについて、マジョリティに対してよりも厳しい態度をとるようにさせる。

  ユダヤ人はさらに難しい問題で
  ユダヤ人は世界に分散していて、
  文化的にも民族的にも、その土地の人と同化できない
  という二重の意味で差別しているのだそうです

  そもそもユダヤ人の離散は近代社会により起きたもので、
  人間同士の有機的な関係よりも、お金の取引関係が優先になった
  それによりユダヤ人はゲットーから世界各地へ解放されたんだ、と。

  だからナチスのやり方は非合理的なはずなのだが
  ドイツでの民族的なプライドがあったから、ナチスは支持された

  民族的多様性を認めましょう、というのは民主主義の理想だが、
  人間は民族的プライドをどうしても持つので、
  それと矛盾する差別の心を持ってしまうんだ、と。
  「理想を言うだけで悪が滅ぼせると思うのは、光の子の幻想」と筆者は言う
  
  この民族的プライド、というのは結構厄介で、
  これを野蛮だからやめろ、というだけではダメなのだそうです。
  
  粘り強く、少数派の美徳や善行を認識させ、
  彼らに対して博愛の心、謙遜の心を持つようにしなくてはいけない。
  彼らとコミュニケーションをとって、知らないことによる差別の心を生まないようにしないといけない、と。
  そして、マジョリティが正しい、という考えを捨て、
  自分の中にある偏見の心を見つめることも大事だ、と筆者は言う。

 …ここも偏見に関する人間の洞察が鋭くて驚いた。
 以前別の本で、アメリカ人の黒人差別意識は隠されているだけで減ってはいない
 みたいな話が書いてあったのだけど
 うーん。それは自分とは異質なものに対する嫌悪感で
 誰もが持つ本能的な感覚だ、と言われるとなんだかちょっとショックです。

 でも、自分の中にそんな気持ちがどうしても生まれる、そのことを知っておくことが大事なのだろう。
 そして、それでも教育や相手を知る努力でどうにかなる、
 と思えれば希望があるのかなとも思う。
 
 ・経済
  ここは結構さらっと書いてあって、
  世の中の階級は、マルクス主義が言うような
  資本家対労働者という単純なもんじゃないよ、ということを書いている

  世の中にはいろんな階級があるので、
  成長と発展のためには
  階級勢力間の均衡が保たれ
  経済状態や社会状態の発展に応じて権力の交代がしやすいことが大事だ、と。

  このためには、いろんな政治理論について、
  この理論は自分の利益を正当化するためだな、という自覚を持っておくことだ、と。
  自由主義者が主張する、自由の必要さも 
  マルクス主義者がいう社会統制の必要さも、どちらも正しいし間違っている、と。

  筆者としては、民主主義は「宗教的な謙遜さ」が必要なのだそうです
  そしてこれは、無神論者には達することができない境地だ、ということも言っている
 (ここは同意しがたいが、筆者の考え方なんでしょうね)


 …民主主義は多様性を認めるべし、とはあるが
 実際は人種とか経済格差、宗教などで分断されているのはなぜだろう、
 と思っていたのだが
 人間の本質として、分断されるのが当たり前なんだな、と思いました。
 そして、民主主義という制度を作るだけじゃなくて
 使う我々がそこを乗り越える努力を常にしていかないといけないんだな、と。

 宗教に関しては、どの宗教にも真理があるからこそ信じる人もいるんだ、と思うべきだし
 人種や民族差別については、自分も持っていると認めつつ
 互いを知る努力をすること。
 経済格差については、どの立場でも、政権交代の自由があること、
 が大事なのだなと思う。

○国民的共同体
 最後に筆者は「世界共同体」構想を描いているんですが
 ここは私がこの本に見出す価値とはちょっと外れる気がするのでさらっと書いてみます

 筆者によると、いよいよ世界共同体が現実味を帯びてきた、と。
 というのは、
 ・今までに地理的、民族的な制約を超越した、道徳的普遍性(要するに宗教で結びついた団体)
  が生まれてきた…キリスト教のほか、孔子の思想、ヒンズー教なども挙げられている
 ・一方で産業や科学の発達で相互依存度が増し(要するにグローバル化し)た
 二度の大戦も、世界共同体の必要性を後押ししている、と。

 筆者によれば世界共同体構想自体は昔からあって、
 それは理想論的アプローチと、現実論的アプローチがあった、という。

 理想論というのは、実際に憲法などを作って世界共同体政府を作ること。
 ただしこの場合、
 文化や宗教、地理的条件などが違う人たちが憲法だけで集まるのは無理がある。
 国同士が自国の利益を優先してしまう傾向もある。
 もしするとしても、法の強制のようになってしまう、と。

 現実論は、国家を保ちつつ同盟を結ぶというやり方
 ただこのやり方は、各国の利害があり、それが前面に出されると均衡を乱す
 しかしこの時代としてはこれが現実的で、
 英国、米国、ソ連の三つが同盟を結びつつ、危うい均衡を保っていくのでは
 というようなことを書いている

 とはいえ、いずれも法律とか決まりによる世界共同体の設立になって
 それはあまり強い結束をもたらさないので、
 最終的には、道徳的な力で結束することが必要、としている

 筆者としては、そこで理想的なのがキリスト教で結びつく世界政府
 (ロシアについては、革命のかなたに理想郷ができると考えるのは間違い、としている)
 
 そのような世界共同体は
 「人間の究極的な必要性、可能性ではあるが、
  究極の不可能性」と書いています。
 それができると希望を持ちつつ、でも永遠にかなわない、目指していく目標だ、と。

 なぜ人間にとって必要で可能かというと、
 人間は、歴史の中で、時代や国を超越した、
 普遍的真理を目指してどんどん自由を拡大していけるような存在だから
 なぜ不可能かというと、
 人間の自由は拡大していくが、人間自身は時空に縛られた存在で
 その時の時代、場所、文化、文明などに制約を受けるから
  
 キリスト教は、人間の原罪を指摘することで
 人間がどんなに高みに到達しても、堕落しちゃう存在だよ、
 だから失敗もあるよ、ということを言ってくれるのだそうだ。
 だから、神がそういう人間を温かく見守っていてくれて
 いつか真理にたどり着かせてくれる、
 ということを信じて歩んでいくことで
 人間は、自分たちの努力を神に否定されることなく
 自分たちの業を克服できるんだ、

 ということを書いて筆者は終わっていました。

〇感想など
・個人的には性善説を信じたい人間だったので
 性悪説に立ったものの考え方には正直驚いたが
 うーん、歴史を振り返れば確かに当たってる、と唸ってしまいました。

 多分今後も、いろんな制度ができるが
 それでも抜け穴を探す人は存在するんだろうな。
 それを見越した諦観というか、覚悟というか、そういうのも必要なのかもしれない。

・社会と個人との関係の考察や
 財産の管理に対する考察は見事でした。

 社会学や経済学で、いろんな人間の分析がされているが
 どれもこれ!という決め手がないのはなぜか。
 それは人間も社会もダイナミックに変化する、生きているものだからなのだろう、
 と感じました
 だから、社会学の所説も経済学の所説も、時代により変化し、検討されていくのだろう。

 そしてこの、人間も社会もダイナミックだという事実を、
 常に頭に入れておくことも大事だと感じた。
 我々、どうしても、制度を作ればいいとか
 理想を決まりや文章にして、それをずっと守ればいい、と思いがち。
 (ていうか、同じことをずっと守っている方が楽ってのもある)
 
 でも人間って変わるもので
 自分も変わるし、他人も変わる。
 社会も時代によって変化していく。
 そこに対応した決まりとか道徳、やり方をとっていくのが大事なんだな、と。

 もちろん古いものを壊せばいいというものではないが
 何を守り、何を壊して新しくしていくかを常に考えていかねばならない
 それが逆に普遍的な価値観や真理を守っていくことになるのかな
 と感じました

・最後の「世界共同体」に関しては正直ついてけないのだが
 国連やEUがなぜうまくいってないのか、の考察にも見えて興味深い。
 民族や文化が違うものが一緒になろうとすると
 どうしても強制の力が必要になり、長続きしないのかもしれない。

 筆者はキリスト教的価値観に基づいて、世界は一つになるべき、
 みたいな考え方をお持ちなようだが
 (まあ、キリスト教神学者だからそうなんでしょうが)
 私は宗教とか道徳的価値観を完全にみんな共通でもち、
 そのような国を作っていくのは
 難しいだろう、と思いました。

 それはまさにこの本が説明していることで、
 個人や社会がそれぞれ別のバイタリティを持っている限り
 みんなが一緒の考え方になれる、というのは幻想だろうと思う。

 途中で宗教の多様性に対する寛容、の議論があったが
 道徳とか宗教に関しては、「みんなそれぞれに真実がある」
 と互いに容認して、ゆるーく考えるのが一番いいような気がする。
 (もちろん、宗教の名のもとに違う宗教の人を傷つけるような宗教は良くない、と思うが)

・筆者の言う性悪説は、人間は悪い、という絶望よりは
 人間には善もあるけど、悪もある、両方あって人間だ、
 みたいな温かさを感じました。
 自分の中の悪も分かるから、相手にも寛容になれる、というか…

 原罪の考え方では、
 人間はどんなに高みに達しても、
 本来的に堕落しちゃう存在なので
 挫折することもあると神は教えてくれる、とある。
 なんだかそこに優しさを感じる。

 我々は人生の意味ってなんだ、とか
 どうやって生きたらいいんだ、とか真理を追究することもあるが
 ずーっとそう考えてるわけじゃなくて、
 自分の欲を優先しちゃうこともあるし、邪悪な考えで他人を陥れることもある。
 より良く生きたいと思いつつ、そうなれないこともある。
 それが人間の堕落する習性なんだけど、

 でも社会や歴史を超えた自由な心があるから
 どんなに困難でも、どんなに落ちぶれても
 また真実を探す旅に出られる。
 そう思えるのは希望かなと思う。
 
 この本は徹底的に人間の堕落とか悪を論じている。
 どんなに崇高な理想を持って、いい制度を作ったって
 それを守れないことがある、というか、守らなくても済むような抜け道を考えたがる
 という人間の本質を、これでもかこれでもかと書いている。
 
 でもそこに絶望を感じないのは
 それが人間なんだよ、だからいつでも理想に向かえるんだよ
 という温かさもあるからかなと思う。

 善しかない世界は理想に見えるけど、息苦しくも感じるし、どこか片手落ちに感じる。
 悪を知ったうえで、自分に悪の心がいつでもあることを知ったうえで
 善になるように努力していく、その道のりこそが
 人間として生きる意味を持つのかな、と思いました。

 …色々考えさせられました。
 また読み返すといいかもという本です。

 というわけで今回はこの辺で。