びぼうぶろぐ。

基本的に自分の備忘録のためですが、同時にどなたかのお役に立てればと思いながら書いています。

Eテレ 奇跡のレッスン「氷の上で「自由」になろう」

Eテレ 奇跡のレッスン「氷の上で「自由」になろう」

2016年11月にBSで放送されたものの再放送です。
子供たちが一週間、一流のコーチにレッスンをしてもらう番組ですが、
今回はフィギュアスケートのお話。
講師は元アイスダンス選手のシェイリーン・ボーンさんです。
現在はショーに出演されたり、振付師として活躍されています。
日本人の選手にも振り付けが多いですね…
特に羽生くん、「オペラ座の怪人」以降フリーでずっと組んでいらっしゃるので、感性が合うのかな?と思っていました。

私自身はシェイリーンさんの現役時代を知らないですが、
振付がのびやかできれいな印象をいつも受けます。
今回お話を伺っていて、
自分をのびのび表現する、その表現をみんなと分かち合う、という姿勢が貫かれている。
愛は与えれば回り巡るもの、という言葉が素晴らしく、
人間としてもとても尊敬できる方だなあと思いました。

彼女はレッスンの前のインタビューで
「子供たちには、夢を見る大切さに気付いてほしいと思っています。
 たった一人の夢が、周りに影響を与えて広がっていく。
 だからこそ、子供たちには、誰かに夢を伝える喜びを感じてほしい」
とおっしゃっていました。

今回訪れたのは、福岡県の飯塚市にあるスケートクラブ。
クラブとしては50人ほどいるそうですが、
その中の精鋭9人の子がレッスンを受ける。
彼らは難しいジャンプやスピンはこなすが、表現力に課題があるそうで
コーチも「ジャンプだけじゃないよ、というのだけど、照れくさいのかなかなか感情が出せない」と。

シェイリーンさんは
「今回、子供たちが内に秘めた思いを気持ちよく表現できるよう、手助けしたい。
 フィギュアで大切なのは愛。
 心を開けば、愛を受け取ることも広げることもできる。
 心の中が愛で満たされれば、その喜びも表現できる」
と話していました

○初日
 シェイリーンさんは、幼い息子さんと夫と3人で来日されていました。
 レッスンを受ける9人の子供たちと初対面の時。
 シェイリーンさんは、彼らに憧れの選手の名前を聞いたあとに
 「今回のレッスンでは、あこがれの選手のように
  自分の個性や感情を氷の上で表現していきましょう」
 と話していました

 シェイリーンさんは子供たちに興味津々で
 「かわいくてとってもシャイね。
  早くあの子たちのことを知りたくてたまらない」とうきうきしています。

 そして最初に、子供たちが音楽なしでプログラムの練習をしているところを見ていました
 みんなそれぞれ大会用のプログラムがあって、
 曲は先生が選び、振り付けは専門の方にお願いしているそうです
 「音楽なしの状態で見ると、状態が分かる。
  たとえば、タンゴの音楽がないのにタンゴであることを伝えなければならない…」

 しかし彼らの様子を見ていて、
 「ほとんどの子が、どんな音楽か分からないわね」と。

 早速リンクに飛び出して、
 「どんな状態で転んでも、演技の一部のように見せてほしい」と指導していました
 「試合では、転んでも見ている人にそれを忘れさせないといけない」からだそうです
 みんなはわざと転んだあと、
 カッコよく立ち上がって続きを滑る練習をしていました

 たしかに、転んでも演技する、というのは見ていても大事だな、と思います。
 「上手な転び方」というかね(たしか全日本で昌磨くんがそんな話してたな)…

 そのあと、曲かけして練習していましたが、
 シェイリーンさんは、中学生のりささん、という女の子に注目していました。
 彼女の曲は途中で明るい曲調になるが、
 彼女は表情がほとんど変わらない、と。
 たしかに彼女、まじめなのかな…表情が硬い。

 他の子たちも緊張気味で表現がうまくいかないようだったので、
 シェイリーンさんは自分の体験を話していました
 「緊張すると、たしかに自分のことしか考えられないわよね。
  誰かの為に力を発揮しよう、と思えば、もっと楽しい演技になるのよ」

 「私は、観客もコーチもお客さんも、みんな夜空のお星さまだ、と思っているの。
  私が演技することで、すべての星を輝かせるの」

 ふつうみんなの前で一人で滑る、って勇気が要るし緊張する。
 自分が輝かなきゃ、と思ってしまうけど、そうじゃなくて見ている人を輝かせるんだ、と。
 素敵な言葉ですね~。

 そして、シェイリーンさんは
 「毎回リンクに入るときは、必ず氷に感謝の気持ちを伝えてほしい」と話していました。
 「氷は友達。友達に優しくすれば、あなたも大切にしてもらえるの」

 「最終日に発表会をしましょう。
  お友達やご家族に、1週間でどれだけ成長したか見てもらいましょう」
 そして、一人一冊ずつノートを渡して
 「毎日ノートに感謝の気持ちを書いてほしいの。
  誰に対しても、何に対してでもいいから、ありがとう、という気持ちを書き留めてね」

 りささんは
 「感謝かあ…、自分はしているのか、しなくてはいけないのか…」と戸惑っていました。

 …氷に感謝、周りの人たちに感謝…
 技術云々の前にまず最初にこのことをお話される、というのが印象的でした。

○1日目
 いろんな滑り方をしていました
 最初は体を前後交互に傾けながら滑る練習。
 右足を軸にして左足を後ろに投げ出し、左手は前、右手は後ろに伸ばして頭はうつぶせにして滑り、
 途中で左足を前に切り替え、左手を後ろ、右を前に伸ばして頭を仰向けにする、
 という滑り方。
 なるべく手足を前後に伸ばす、とのことで、バランスをとるのがとても難しそうです。

 「怖いかもしれないけど、でもジャンプも最初はだれでも難しいわよね。
  子供のころからいろんな動きを挑戦することで、
  体の使い方がわかるの」

 ほか、片手を氷に着けて姿勢は低く保ち、足をなるべく後ろに伸ばしつつ、
 氷につけた片手を軸にしてスピンする動き、など(羽生くんがコレオシークエンスの見せ場で毎回やる動きに近い)

 「とにかく体はなるべく長く高く伸ばすこと、
  体を最大限使っていくことが大事」
 「子供たちには、自分の可能性を最大限見つけてほしい」と話していました

 シェイリーンさんの振り付けがのびやかなのは、
 体全体を目いっぱい使っているから、なんですね…

 次に、表現力を磨くために、
 二人で向かい合って、相手の目を鋭く見つめながら滑る練習(一人は後ろ向きに滑る)
 相手に挑む感じの表情で、
 さきほどのりささんは、
 「これは得意分野」と話していました。
 怒りや悲しみなどは得意で、
 楽しそう、うれしそうな表現は苦手なのだそうです

 彼女は、幼稚園で体験スケートをし、1年生からずっと続けている実力者。
 九州大会で優勝もしているそうです
 お母さまは
 「どんくさい子だったのに、スポーツで賞をもらうなんて」
 「輝ける場所を見つけられてよかった」と話しています

 彼女の夢は「オリンピックに行くこと」だそうで、
 8年間、旅行などもいかずまじめに練習している。
 でも、中学に入ってから表現ができず、
 成績も伸びない悩みを抱えているそうです

 シェイリーンさんは彼女について
 「人は誰でも喜びの感情を持っています。
  りさの心の何かが、彼女の喜びを出すのを邪魔している。
  仮面をかぶることで、傷つかないようにしているように見える」と話していました

 そのあとの練習では、炎になる、という表現の練習もしていました
 「心の中の炎を表現して」
 「大声を出すように滑って」
 「体の動きが、みんなの声なのよ」
 「大きな声よ!」
 とシェイリーンさんはどんどん盛り上げていく。

 しかしやはりりさんはためらいがち。
 2人のコーチは
 「恥ずかしがっているね。
  あとやることが難しいから、頭がそっちに行っちゃってる」
 「でも楽しそうだよ」と言いながら見守っていました。

 次に、個人のプログラムの練習をしていましたが、
 シェイリーンさんはつばさくんという小6の子を気にしていました
 「つばさはできるときとできないときがある。
  プログラムに入ると、とたんに自信のない世界に戻っているように見える」

 彼は2つ上のお姉さんと一緒に習っているそうで、
 お互いライバル意識も持っているそうです
 ただお母さまがつばさくんについて心配なのは
 「分からなくなると、私やお姉ちゃんの顔を見て助けを求めてくる」
 末っ子のせいか、ちょっと甘えん坊のところがあるようです…

 「ママがいいようにする、という。
  自分で決めなさい、っていうんだけど、
  自分がどう感じて、自分がどう表現するかを学んでほしい」と話していました

○2日目
 最初に、動物になる練習をしていました
 何の動物になるかは自分で決める。
 そのあと全員で思い思いの動物になりきるが、
 全身を使って表現してほしい、と言われつつ、子供たちはためらいがち…

 シェイリーンさんは
 「まだ人間にしか見えないわよ」
 「動物は常にどこかを動かしているわよね。
  目線を動かしたり、しっぽをまいたり、蛇なら木に巻き付いたり…
  ほかの動物にじゃれあってもいい。
  どんな動きでも言い、自分の世界に入り込んでね」

 そのあと「みんな私についてきて」と、
 みんなで輪になったり縦列に並んだりして、同じ動きをしていました
 壁を伝ったり、腕をくねくねながら滑ったり、両腕を上下に大きく動かしたり…
 本当に遊びのように、とても自由に動いていました

 「みんなには、新しい世界に入ってほしいの。
  選手が新しい世界に入る体験をすれば、観客も同じ世界に入れる。
  氷の上では自由なの。みんな心を開放しなさい」

 シェイリーンさんは、陸上でもステップの練習をしていました
 りささんも自分のプログラムを練習するが
 シェイリーンさんは「どんな表現なの?」と質問。
 りささん「楽しい感情…」
 シェイリーンさん「楽しい表現ね…音楽を楽しんでる?」
 りささん「わからない」
 シェイリーンさん
 「じゃ、いつもの生活で楽しいことを想像して表現して。
  あなたが想像出来たら、みんなに伝わるわ。
  楽しいふりだけじゃ伝わらないわ」

 りささんは練習日記で
 シェイリーンさんの「あなたは音楽を楽しんでる?」という質問について
 「痛いところを突かれた」と書いていました。
 そして、楽しいことを想像して、と言われたとき
 練習しているときみんなといて楽しい感情が浮かんできた、と書いていました

 シェイリーンさんは
 「ある人は感情を秘め、ある人は外に出せる。
  子供たちの内側にある声をちゃんとを引き出してあげたい」と話していました

 次に、2人組になって、
 「相手を笑わせてみて」という練習もしていました
 りささんも友人と組み、楽しそうな笑顔になっている
 「その笑顔よ」とシェイリーンさんに言われていました

○懇親会
 2日目の後、スケート場の会議室?談話室?みたいなところで、懇親会をしていました

 シェイリーンさんは
 「ここ数日、素敵なスケーターたちといい時間を過ごせています。
  実は私は、子供たちと同じ年頃の頃、シャイな子でした。
  外に感情を出せなかった」
 と挨拶。

 シェイリーンさんはカナダ生まれ、4歳でスケートを始めたそうです
 スケートは大好きでずっと続けていたそうですが、
 10代のころ両親が離婚してしまった
 しかし母親は3つの仕事を掛け持ちし、彼女のスケートを支えてくれたそうです
 「食事も物もギリギリの生活だったけど、
  でも大好きなスケートが続けられたから、
  ほかには何もいらなかった」と。

 そのあと、彼女はアイスダンスに出会い、才能が開花、
 世界選手権も優勝し、オリンピックにも3回出場する

 りささんは途中でシェイリーンさんに質問していました
 「世界で戦っている人は、なぜ勝負なのに笑顔で滑れるんでしょうか」

 シェイリーンさんは
 「私はオリンピックで金メダルを取った静香(荒川静香さん)に、競い合うのは好きかと聞いたことがあるの。
  彼女は競うのは好きじゃないと答えていた。私もよ。
  じゃあ、私はなぜスケートをやっているか、と考えたとき、
  私はただスケートが好きなんだ、演技を観客に届けたいんだ、と分かったの。
  それ以来、笑顔で演技ができるようになった。
  あなたも、あなたなりのスケートをする理由を見つけるといいわね」

 一方、保護者達だけとシェイリーンさんとで話す場もあり、
 りささんのお母様は、
 「娘が反抗期で、予定の話くらいしかできない…」という悩みを打ち明けていました
 お母さまはりささんのために、食事管理などをする一方、
 つい練習に口出ししてしまうそうです。

 練習のときの親子のやり取りが回想されていました。
  お母さまは「シェイリーン先生が、みんなを輝かせるためだ、って言ってたでしょ」
  りささんは「感情を出すのが難しいんだもん」
  お母さまは「自分のことばかり考えるから…」
  りささんは「ママのこと一番考えてるんだけど。ママが怒るから…」
  お母さま「ちゃんと練習するなら怒らないよ」
  りささん「もういいよ」

 シェイリーンさんは
 「彼女には、家族の支えが大切だ、ということを考えてもらう必要があると思います。
  レッスンを受けるのは当たり前じゃない、と思ってほしい。
  子供たちには、感謝について考えてもらっているので、今回はいい機会だと思います」

 そして、保護者の皆さんに向けて
 「みなさん、いつもお子さんを支えてくださってありがとうございます。
  私の母は看護師をしていて、患者さんの話もたくさんしてくれました…
  親は子供に関わることだけではなく、自分のことも子供に話すのが大事だと思います。
  子供は親を手本としてみています。
  親が仕事や何かに情熱を傾ける姿を見て、子供は生きる力を学ぶのですから」

 親は子供の背を見て育つ…。親として、胸に響きました。
 日本だとどうしても親(特に母親)は子供中心にしなさい、みたいな暗黙の圧力があり、
 仕事や趣味に打ち込むのは後ろめたさも感じてしまう。
 親も一人の人間として、自分の人生を充実させることの方がむしろ大事だ、と私も思います。

○3日目
 この日、シェイリーンさんは、ピンクと白のエプロンを着てリンクに立っていました。
 みんなにショーを見てほしい、と伝える
 彼女はウェイトレスの恰好をしていて、テーブルも置いてある
 そこへ男性コーチがコックの恰好をして現れました

 見ていると、コックさんは彼女のボスらしく、
 彼女にものすごい勢いで小言を言っている
 場面が進むと、彼女はやってられない、という表情でエプロンをテーブルにたたきつけ、店を飛び出す
 そして自分で自由に踊りだす
 ボスのコックも最初はおいおい、という感じでしたが、次第に彼女と一緒に楽しそうに踊りだす…
 というストーリーでした

 子供たちにも「どんなストーリーだった?」と尋ね、
 子供たちなりの解釈を聞くと、
 シェイリーンさんは子供たちに宿題を出していました

 「自分のプログラムを聞きなおして、想像力を膨らませて
  より詳しい物語を考えてほしいの。
  長くても短くてもいいから、自分なりの物語を書いてきてね」

 そのとき、中3のちゆきさん、という女の子が
 「私のプログラム(「ラ・カンパネラ」)なんですけど、
  「ロミオとジュリエット」の真似をしようと思っていて…
  関係はないけど、悲しい恋愛を重ねたい」
 と尋ねる。
 シェイリーンさんは
 「もちろんいいわよ。
  音楽にはいろんな解釈の仕方があるのよ。
  特にクラシックは歌詞が無いから、自由に解釈していい。
  想像の翼を自由に広げてみましょう」と。

 ちゆきさんはこのプログラムがいまいち掴みにくかったそうです。
 「哀楽の表現、と書いてあったので、
  悲しげに笑う、というイメージだったけど、
  それだけだと面白くないし、自分も納得していなかった。ずっと」と。
 彼女は、自分なりにロミジュリのストーリーを下敷きに、
 男女の出会いの喜び→別れの悲しさ→また天国で出会える希望、
 というストーリーを細かく書いていました

 彼女はお父さまが東京に単身赴任中、
 看護師のお母さまと、祖父母4人で暮らしているそうです
 どういうスケーターになりたいですか、と尋ねられ
 「次はどんな感じなんだろう、と思われるようなスケーターになりたい。
  一番好きなのは(ハビエル・)フェルナンデスなんです。
  踊りもすごく楽しいし、いろんな曲というか、毎回全然違う感じの曲をしているので」
 たしかにハビさん、コミカルなものからしっとりしたものまで
 幅広くこなす表現力が魅力です。

 彼女の衣装は、お母さまが毎回手作りしているそうです
 二人で曲からどんなイメージかを考え、
 デザインを一緒にスケッチして作り上げているのだそう。

 衣装って、プログラムの世界観を現す一つの道具だと私は思うので、
 自分でイメージを膨らませて作るのは素敵だなぁと思いました。

 ちゆきさんの中で今まで良かったのは「パリのアメリカ人」の衣装だそうで、
 たしかに白黒モダンカラーながらキュートな衣装、なんとなくパリっぽいしアメリカ人っぽい。
 今回の衣装も製作中で
 「時間がなかなか取れないので、まだ?っていつも聞かれてしまう」
 とお母様は言いながら飾りを縫い付けていました。

 演技のイメージはずっとわいていなかったそうですが、
 今回のシェイリーンさんのアドバイスで思い浮かんだようです
 「すぐにロミオとジュリエットがぱっと出てきて…」と。
 彼女のなかでいろいろとアイデアが膨らんでいるようでした。

 それから、先ほど出てきたつばさくん。
 今回の宿題に、やはりお母さんに「ママ~、、なんて書いていいか分からない…」(笑)
 「自分で考えや」と言われていて、
 結局夜中までかけて自分で書いたそうです

○4日目
 自分で考えたストーリー通りにプログラムを陸上で演じていました。
 つばさくんがまず指名されていました

 彼のストーリーは、いろんな動物が次々と出てくるお話。
 最初は鳥だそうで、シェイリーンさんは
 「最初の振り付けは、肩を思いっきり広げてはばたかせて」と。

 次のパートについて
 「このパート(鳥が飛び立つところ)はどんな感じ?何かに向かっていくの?」
 つばさくんが「…わくわくする感じ」と答えると
 「じゃあ、こういう表情ね(さあ行くぞ、と希望に満ちて前の上の方を見る表情)
  深刻な顔じゃだめよ」
 真似して凛とした演技をしているつばさくんに、
 「いいわよ!みんなも笑顔になってる」

 みんなの演技を見た後、シェイリーンさんは
 「物語を考えながら演技する方がやりやすいんじゃない?
  これからは、自分の物語を世界中に語り掛けてね」
 見ている方もストーリーに引き込まれました。

 次に氷の上でのレッスン。
 シェイリーンさんは赤い三角コーン(交通整理とか学校のグランドにあるような円錐形の物体)を出してきました。
 「これは人間です。
  この世で二つとない、特別なものとして大切に扱ってね」

 そして、彼女はそろそろとコーンに近づき、そっと触れて優しく持ち上げる
 「何だろう、とみて見たり、そっと持ち上げて見たり、
  とにかく大事なものとして扱ってね」
 魔法使いが、目に見えない何かを持っているみたい。演劇のパントマイムに近い。

 コーチは「これは難しいと思う」といいながら見守る

 みんなもぎこちない動きで「難しくてうまくいかない…」と話していました

 終わった後シェイリーンさんは
 「みんな、こんな練習初めて、と戸惑っているかもしれない。
  まだみんな頭で考えすぎてる。
  想像の世界に入り込めていない人たちが多い。
  人生をより豊かに、楽しむためには想像力が必要よ。
  自由な世界を描くのよ」
 と呼びかけていました。
 想像力の練習、なのですね。 

 シェイリーンさんは
 「子供たちは、だいぶ緊張が取れて、自由に表現できるようになってきました。
  子供たちには氷の上に立つことにワクワクし始めている」

○5日目
 この日は激しい音楽をかけて
 「この音楽を聴いてみて。とてもロックよね。
  クレイジーに、体の中から大声で叫ぶのよ」と。

 この前の日もアグレッシブな曲をかけて、1対1で戦う練習をしていました
 このときはみんな、だんだん音楽に合わせてボクシングのような動きをしていて、
 「殻を破り始めているわよ」と上々な様子。
 「何事もバカみたいになるのは必要かもね、
  プログラムにもこういうクレイジーなところを入れてもいい」

 しかし5日目のロック音楽はやりにくかったようで、
 動きが硬い子供たちにシェイリーンさんは「女の子は髪の毛をほどいて」と指示。
 「髪の毛の動きを体で感じるといいわ。
  男の子も髪の毛があると想像してやってみて」

 堅い動きの子たちも、髪型で気分が変わってきたのか、
 だんだん感情を出し始めてきました。
 衣装でも気分が変わりますよね。

 シェイリーンさんは
 「子供たちは、いつも直立不動で表情が硬かった。
  でも髪の毛を外してから、とてもリラックスした顔をしていた。
  氷の上では優等生じゃなくてもいい、
  と彼らの中で気が付き始めたのかもしれない。
  何かが彼らの中で変わったのです」と練習のあと話していました

 りささんは日記に
 「踊ってみてとても楽しかった」と書いていました。

 そして
 「そう思えたのは何年ぶりかだった」と。

 「小さい頃は遊びだったから楽しかったのに、
  だんだん勝負心が出てきて笑わなくなっていた。
  だから今日の演技は、初めてやった気がした。
  明日もできるといいな」

 彼女なりに、スケートが楽しい、という気持ちを思い出し始めたのかな…

 その日、練習の休憩中なのか練習の後か状況はよくわかりませんが、
 りささんはお母さまを探していました
 「お母さんどこ行った…」

 実はこの日はりささんの誕生日で、
 お母さまは見えないところでサプライズケーキを用意していました

 お母さまは、以前懇親会の時、シェイリーンさんに
 「親として口出ししていいのか、サポートはどれくらいしたらいいのか」と相談していて
 シェイリーンさんは直接その質問には答えず、
 「まず会話するとき、スケートだけではなく
  人生のいろいろな話をするようにしてほしいんです」と答えていました
 
 「そのとき、必ず愛している、と伝えてほしいのです。
  子供は愛されていることを確かめたいのです」
 この答えに対して、
 お母さまは
 「日本人って愛している、ってなかなか伝えにくいけどね…
  愛情はいつもかけているんですけど、
  やっぱり子供って目に見える愛情を求めているのかな…
  私も変わらないといけないですね。
  愛情を伝える努力をしたいと思います」とその時は話していました。

 サプライズケーキを持って現れたお母さまを見て、
 りささんは「まじ?ここでやる?」と。
 ずっと練習漬けで、バースデーパーティーなんてずっとやっていなかったそうです。

 シェイリーンさんも気づいて、みんなでハッピーバースデーを歌いだす。
 りささんは感激のあまり両手で顔を覆い、最後には大泣き…
 そこに駆け寄って彼女をハグするお母さま。

 シェイリーンさんもりささんにハグして、良かったわね~、と。

 後でこのときのことについて、
 「りさの誕生日は、誰もが感動したことです。
  今までのレッスンで、りさの仮面は少しずつ外れている。
  二人の人生が変わり始めたのです。
  だからあの瞬間はとても美しかった。
  りさは信頼され、愛されていることを感じたと思います」と話していました。

 …この場面、見ていて私もうるうるしてしまいました(笑)
 なかなか親からの愛情って表現するの難しいし、
 ここまで特別じゃなくてもいいのかもしれないけど、
 常に見ているよ~、どんな君でも大好きだよ~、ってことは、子供には伝えたいな、と私も思いました。

 この日、途中からシェイリーンさんは
 「子供たちと私だけでレッスンしたいです」と言い、
 保護者やコーチ達は戸惑いの表情を見せつつ退出。

 シェイリーンさんと通訳さんと子供たちだけが残り、
 シェイリーンさんは子供たちに
 「発表会に向けて、新しいプログラムを作ったの。
  新しいショーの準備よ」といたずらっぽく笑っていました。

 シェイリーンさんは子供たちと出会った後、
 何か素敵なプレゼントをしたい、と、宿泊先でオリジナルプログラムを作っていたそうです

 選んだ曲はジャズの「L-O-V-E」
 ナット・キング・コールの曲だそうです(題名は知らなかったけど、大概の人は聞いたことがある曲だと思います)
 「このプログラムはLOVE、愛でしょ。
  愛は人に与えれば与えられるもの、絶えることなく巡り巡るもの。
  だから愛を感じてほしい。楽しく滑ってね」

 シェイリーンさんは、この団体プログラムをすることで、
 楽しく滑ることの大切さも学んでほしい、と思っていたそうです
 懇親会の時、シェイリーンさんは、
 自身が振り付けた高橋大輔さんのマンボメドレーを上映し
 「どんな気持ちになった?」とみんなに尋ねていました。
 子供たち「楽しくなった」
 シェイリーンさん「試合とショー、どっちに見えた?」
 子供たち「ショー」

 「大輔は、一つひとつのステップを楽しんでいたでしょう?
  音楽を自分のものにしてた。
  そうなると、頭で考えずに感じるままに滑れるようになる。
  彼は観客に自分を捧げていた。
  内面を隠すことなくさらけ出す、それが彼を見てハッピーになれる理由なの」
 
 そういう風に、自分の内面を表現すること、楽しんで踊ること、
 それを観客の皆さんと分かち合うこと、その喜びを体験してほしい、と…
 
 子供たちはショーを演じるのが初めてですが、練習はとても楽しそうでした
 たつまくんは「L」の字、翼君は「V」の字を書いたり…

 この練習の夜、親たちに「何していたの?」と聞かれていましたが
 みんな「内緒」と答えていました(笑)

○6日目。
 シェイリーンさんは、氷の上でさらにオリジナルプログラムの振り付けを改良していました

 9人のうち男の子は2人だけなので、
 男の子にたくさんの女の子が夢中になるシーンでは、
 男の子が4人の女の子に囲まれていたり、
 帽子などの小道具も使ったり…

 「振り付けとは、真っ白なキャンバスに一つ一つ色を載せるようなもの。
  毎回新しいキャンバスに出会えるの。
  ワクワクするけど、少し怖い。
  それは観客たちの記憶に残るものを作っていきたいからです」

 シェイリーンさんが振り付けのお仕事をされるのも
 そのワクワクがあるからなのかな。

 子供たちの日記では
 りささんは
 「一生に一度しかないレッスンだから、最後まで精いっぱいやり、楽しみたい」
 つばさくんは
 「大げさに大きくすることに力を入れたい」と書いていました

○7日目
 とうとう最終日、プログラムの発表会でした。
 みんなメイクもして衣装も着けて、少し緊張気味…

 シェイリーンさんはそんな子供たちに向かって、
 「緊張してる?
  氷の上はみんなにとって神聖な場所。自由になれるのよ。
  私はリンクの上にいるから、しっかり顔を上げて。
  みんなの物語と目を見せてね。
  自由にはばたくのよ」と励ましていました。

 見に来てくれたお友達やご家族は、総勢40人ほど。

 甘えん坊だとお母様が心配していたつばさくんは、
 途中で転倒していましたが、下を向かずに最後まで堂々と滑っていました。

 ラ・カンパネラの解釈を自分で考えていたちゆきさん。
 物語をしっかり演じ切っていました

 しかし、次々とみんながプログラムを披露していくうちに、
 りささんは舞台脇で急に泣き出す…
 「不安で緊張してる」と。

 シェイリーンさんは彼女のそばに行き、
 「私の言ったこと覚えている?
  転んでもどう立てるかが大事よ。
  たとえどんな時でも、お母さんはあなたを愛しているわ」

 りささんのプログラムは「白鳥の湖」第二幕のブラックスワン
 王子様を誘惑する場面ですが、
 泣きはらした目で踊り始めながらも、
 彼女はどんどん曲の世界に入っていく
 「緊張と不安で焦ったけど、
  踊り始めたら緊張も不安も飛んでいて、
  精いっぱい滑った」と話していました

 みんなのプログラムが終わった後、
 子供たちは急いで着替え室へ…
 みんなおそろいの紺のブレザーを羽織り、
 男の子は帽子をかぶっていました

 みんなノリノリでダンスを踊っていく。
 競技を終えた選手のエキシビションのように、のびのびと滑っていました
 「心を開けば、愛を与えることも受け取ることもできる。
  心が愛で満たされれば、その愛を表現できる」
 とシェイリーンさんはいう。

 フィニッシュは観客にくっつきそうなくらい接近して、
 みんなで投げキッスのポーズ。

 見ていたりささんのお母さまは、
 「本当に楽しそうにやっていた。
  うれしかった。
  ミスしても顔を上げて堂々としていたと思います」

 つばさくんのお母さまは
 「私も変わりたい。
  子離れしていかないといけないと思いました。
  自分の時間も持てるといいです」と話していました

 なんだか子供たちだけでなく、お母さまたちの表情にも変化が見えました。
 
 シェイリーンさんは子供たちに最後に
 「自分は今、誰のおかげでスケートができているか忘れないでください。
  そして、これからも感謝のリストを書き続けてください。
  心を解き放ち、目を開いて、自分を全部出し切れば、あなたたちはすでにチャンピオンなのよ。
  頭でなく、心の感じるままに進んでください」

 最後、アンコールがあり、みんな好きなように踊っていました

 レッスンを終えて
 たつまくんは
 「観客はみんなお星さまだ、というのが、すごい新鮮で、印象に残った。
  今その言葉が一番残っています」

 ちゆきさんは
 「心に入り込んでいくような演技をすることが大事だと、今回すごくよくわかりました」

 そして、今回一番変わったなぁ…と思えるりささんは笑顔で
 「やっぱり私スケート好きだな、と思った。
  お母さんが楽しそう、と言ってくれた。
  そんな風に言ってくれるなんて、いつも言わないのにな、と思いました」
 と話していました。

○感想など
シェイリーンさんの授業、
最後に子供たちもお母様たちもなにかが変わった気がして、
何が変わったんだろう…と私なりに考えました。

途中の懇親会で、シェイリーンさんが親御さんたちに
「子供のことだけはなく、自分の夢中になれることに打ち込んでほしい」
というようなことをおっしゃっていましたが、そこがキーになる気がしました。

私なりの答えは、
子供たちも子供たちを応援する家族も、
まず自分のことを大事にする、
まず自分の心に正直に向き合うこと、
それが自分も周りも変えるのかなと。

シェイリーンさんは
「心を開けば、愛を与えることも受けとることもできる、
 心が愛に満たされれば、それを表現できる」
ともおっしゃっていたけど、
まず自分のことを自分で愛さないと満たされることはない。
まず自分自身に心を開くことなのかな、と。

自分は何をしたいんだろう、
何を感じているんだろう、
どんな気持ちを表現したいんだろう、など
自分の心を感じること。

そして、心からしたいことをし満たされれば、
他人にも見返りを求めることなく優しくなれる。
好きな人にも素直に好き好き、と行動に出せるようになるのかな、と。

たぶん、自分を大事にしないで誰かを応援していたら、
たとえば親が子供のために…と自分の人生を犠牲にしていたら、
応援される側も重たいし、
応援する側も、知らぬまに結果や見返りを求めてしまうようになってしまうのではないかなと思います。

他人にのために見返りなしでなにかできるのは
(どんなあなたの演技も好き、という応援だけでも)
する側もなんか心が温かくなる、元気になれるのですよね。

愛っていうと他人に捧げるものと思いがちで、
特に日本人は自己犠牲は尊いみたいな傾向があるけど、
まず自分の心も愛で満たすことが大事だ、と教えられたように思いました。

それから感謝ノート、とても良いなぁと思いました。
感謝ノートをつけるといい、とは前々から聞いていたけど、
なんか感謝することが義務っぽくなりそうで嫌だなぁ、とそのときは思っていたのですよね。

でも今回番組を拝見していて、
ありがとう、というのは、自分の心の喜びや嬉しさ、愛を素直に表現することなのかな、
となんとなく感じました。

たとえば、お天気が良くてお日様が温かくて嬉しいなぁ、お日さまありがとう、とか、
今の自分の嬉しい気持ちを感じて、あぁありがたいなぁ、と思って、自然とわいてくるような思いが感謝なのかな、と。

そんな風な感謝ノートなら私もつけてみようかな、と思いました(新年ですし)

…色々と教えていただきました。

というわけで今回はこの辺で。

NHK BS1 奇跡のレッスン「「好き」を力にジャンプ!」

NHK BS1 奇跡のレッスン「「好き」を力にジャンプ!」

各分野の一流の方が、子供たちに1週間レッスンする様子を追った番組です。
この番組は、昔、バイオリニストのダニエル・ゲーデさんの回だけ拝見いたしました…
そのときは、表現する、て教えられて分かるものなのかなあ、と思っていたのですけど、
ゲーデさんは、心を音楽に込める、というやり方を引き出していて、
子供が潜在的に持っているものを引き出す、ということなんだなと感じました。

さて、今回私が拝見したのはフィギュアスケートハビエル・フェルナンデスさん。
平昌オリンピックで銅メダルに輝いた後、
1年後の欧州選手権を最後に引退されていて、
今はアイスショーに出演されたり、コーチの勉強などをされているそうです。

今回のオファーについて
「新しい挑戦になる、と思いました」
「子供たちのために、何ができるか分からないけど、
 チャンスがあるなら、挑戦しない理由は無いでしょう?」
と話しておられました。

この言葉もそうなんですけど、番組全体でのハビエルさんが子供たちにかける言葉も
素晴らしいものばかりでした。

それから、フィギュアって、球技などと違って、練習をどうやって行うのか、
私の中では想像がついていなかったので、へえ~という感じでした。
合間に習う側の子供たちのお話もあり、
華やかに見えて、続けるのはとても大変なスポーツなんだなあ、
ということも知ることができました。

前半は技術的、後半は表現力を教えていました。

前半は、元競技者ならではの具体的なアドバイスに、
なるほど~、と思いました。
1日目はスケーティング、2日目はアクセルジャンプ、3日目はサルコウ、4日目はルッツジャンプの練習。

スケーティングでは、
円を描いて回るときに「内側に体を傾けすぎないように」「お腹に意識を置くように」
という指導をされていて、
そういうちょっとした心がけで、スケーティングに伸びが生まれて動きが大きくなる、
というのが良く分かりました。

「ちょっとした違いに見えるかもしれないけど、
 こうした積み重ねがトップとそうでない人との差になる。
 基礎の部分をおろそかにしないからこそ、トップになれる」のだそうです。

そうですね…
試合などを見ていても、ぎこちないスケーティングの方もいれば、
流れるような自然なスケーティングの方もいる。
どういう体の使い方の違いがあるんだろう…と思っていたけど、
やはりどのスポーツも体幹が大事なんだな…と思いました。
(余談ながら、私も時々のんびり走るけど、
 体幹というか、背骨周りの筋肉を使って重心をしっかりとるようにすると
 あんまり疲れずにうまく走れます)

また、2日目のアクセルジャンプは、
唯一前から跳ぶジャンプなので、だいたいの子が最初に習うジャンプ、なのだそうです。
左で踏み切って右で着地するのですが、
そのとき
「踏み切る足から降りる足へ、重心をちゃんと移動させないといけない」と。
左足に重心が残ったまま降りようとすると、
バランスを崩して転んでしまう。

そして、ハビエルさんは、それを体感させるために、
1 左でジャンプして、右で着地して滑る という練習をした後、
2 1回左でスピンして、軽くジャンプして右で着地して右でスピン、
という動作を繰り返して、
重心の切り替えを体にしみこませてから、
実際のアクセルジャンプに挑戦、という練習をしていました

このクラブのコーチも
「ジャンプの前に準備の練習をさせる、というのは参考になった」と感心していました。

3日目のサルコウ、4日目のルッツは見ていても難しそうですね…
サルコウについては、
回転のスピードを使って跳ぶ感じのジャンプなので、
流れがある方が成功しやすいのだそうです。
「スピードを上げて、より遠くへ跳ぶイメージ」(上に跳ぶ子が多いが、一流選手は前に跳ぶ)
なのだそうです

ここで、ジャンプに苦戦する子が紹介されていました

一人はのどかさん、という中二の子。
彼女はこのクラブでのエース級だが、
大会でパーフェクトを目指そうとすると、力んで失敗してしまう…と悩んでいました。
すごくまじめな方なんですね。
弟さんと一緒に習っていて、毎朝5時起きでランニングしているんだそうです。

彼女はサルコウに苦労していて、流れで跳ぶ、という話を聞いて
「私のジャンプは踏切りのときガリっと音がする。
 力が入りすぎているので、柔らかく跳べるようにしたい」と話していました

もう一人は、ルッツとアクセルに苦戦するてったくん、という中3の子。
彼はジャンプに挑戦しようとするのだけど踏み切れない…ということを繰り返していました
ハビエルさんは
「彼は跳ぶのを怖がっているように見える。
 できるよ、と伝えていくことが僕の役目かも」と話していました

彼は実は、中1くらいから1年半、フィギュアを断念していた時期があったそうです。
理由は経済的なもの…
中学に入ると成長が早く、
靴がすぐに履けなくなったり、
衣装が入らなくなったりで、しょっちゅう買い替えなければならない。
しかもスケート靴も衣装もそんなに安いものではない(数万~数十万)
お母さまによると、「3桁いく勢いだった」そうです…
それで、お母さまがコーチと相談し、辞めさせてしまった、と。。

しかし、一番の楽しみだったスケートを断念し、母親とも喧嘩するようになる。
辛そうな彼を見てお母さまも悩み、再開を許したそうです
でもその1年半のブランクの結果、彼は跳ぶのが怖くなってしまった、と。
その様子を見て
「続けさせてあげてたら、もっとすごくなっていたんだろうな…
 前はトリプルジャンプの練習もしていたし。
 悔しい思いをさせてしまったのかなあ…と思います。
 子供が好きなことを精一杯やってほしいですよね」
とお母さまは話していました

てったくんは跳べないことについてハビエルさんにも相談していて、
ハビエルさんは
「僕もジャンプを失敗するかも、怖い、と思うこともあるよ。
 転んでもいいんだよ。
 ジャンプして一番学べるのは、挑戦して失敗したときなんだ。まずは挑戦してみよう」
と声をかけていました

練習の合間に、懇親会もありました
オリンピックのお話などもありましたが、
会の最後にハビエルさんがおっしゃっていた言葉が印象的でした

「正直、フィギュアで夢を成し遂げるのはとても険しい道です。
 人生の多くの時間を費やしても、トップにたどり着けるのはごくわずか…」

「でも、そんな現状でも、スケートが好き、という気持ちをあきらめる必要はないよね。
 好きなもののために努力するのは、結果より大事なんだよ。
 幸せになろう、努力しよう。
 自分が好きな自分になろう」

懇親会には子供たちの保護者さんたちもいらっしゃったんですが
この言葉には、目頭を押さえている方が多かったです…
「田舎町だけど、こうして来てくれる機会があると思うと嬉しくてたまらない」
とおっしゃる方もいました
 
後半は表現方法の練習。
なのですが、その前に、5日目くらいのこと。
てったくんが、3回転サルコウに挑戦するようになっていました。

その様子を見てハビエルさんも
「君ならできる」「考えすぎないで」とどんどん声をかけていました
怖がっていた彼だけど、今は目線がしっかりして、挑戦モードに入っている。
一回跳んだのだけど、着地がうまくいかず…
それでもハビエルさんは
「今の跳び方好きだよ、入りはいい、後は降りるだけだ」と前向きな言葉。
そして、最後に着地まで決めていました
てったくんは「最後の最後でうまくできた。やった!と思った」と話していました

たしかに素人目で見たって、スケート靴はいて滑るだけでも十分怖いのに、
そこで高いジャンプして回って降りる、というのは
体に動きがしみつくまでは怖いんだろうなあと思います(自転車と同じで)
できる、と信じてチャレンジして、自分で体にしみこませていくほかはない。
そういうときに、「君ならできる!」って言ってもらえるのって
とても心強いな、と感じました。

さて、そのあとの表現の練習の話。
最初はハビエルさんは自分のプログラムを披露していました
ジャンプは一つもないのだけど、
持ち前の表現力で見る人を引き込んでいく。
「ジャンプが無くても、観客を引き込むことができれば豊かな演技ができる」と。

ハビエルさん、現役時代も、
競技用のプログラムはしっとり大人の演技…というときもあれば、
エキシビやショーではコメディタッチのものもあったし
本当に見ていて楽しい方でした。

そのあとの5日目は表情、目線の練習をしたあと、体を使った表現の練習もしていました。
表情では、怒りや喜びの表情などを、滑る前に練習していました。
怒っているときは、目をむいて顎を引き気味にするといいそうです。

目線では、リンクの一か所にカメラを置いて
「あのカメラを見ながら滑ってみて」と。
みんな照れ気味でしたが、
観客に向けて鋭い視線を向ける子もいて、たしかにこちらが引き込まれました。

体を使った表現では、同じ振り付けで、曲調を変えて踊る練習。
楽しい曲調のときはは軽やかに、悲しい曲調のときはしっとりとした動きになっていました。

このとき、対照的な二人の子が紹介されていました
一人はののかさん。のどかさんと同じくエース級の子です。
彼女は表現力が豊かな子で、目線の練習の時も、
みんな照れてカメラを避けているのに、彼女はしっかり強い目線でアピール。
体を使った表現でも、「彼女の表現は素晴らしい」とお手本に指名されていました

彼女は去年からジュニアの試合にも参加していて、
大きな大会で5位にも入る実力。
しかし、成長期で体が変化していて、ジャンプが跳べなくなているのだそう…
ご飯もいっぱい食べたい時期だけど、体重制限もしているんだそうです。

ちなみに先ほどのてったくんの話の中で、衣装代とスケート代が…という話があったけど、
彼女の自宅にもいろんな衣装があって、
「これはリーズナブル。5万円以内でできました」
「これは8万かな」
とかいう会話をしていて、
スポーツ全般お金かかるけど、フィギュアって本当出費が大変なんだなあ…と思いました。
(リサイクルとか貸衣装とかないんですかね…)
それに、スケートリンクがそんなにそこら中にあるわけでもないので、
1時間2時間かけて車で通っている子もいるようで、
ご両親の支えには頭が下がる…と思います
(私にはできないかも…)

ののかさんは進路をそろそろ決めねばならない、ということも悩んでいました
スケートの道に進むか、他の選択肢も選べる高校に行くか迷っていました
「オリンピックでメダルが取れるなら、すべてかけてそっちに行けるけど、
 レベルが高い子たちを見ていると迷ってしまう」と。

彼女は進路について、ハビエルさんに相談していましたが
「今の練習は1時間半くらいなの?
 時間が限られている環境なら、できる限り集中するしかないよね。
 どこまでできるかは君次第だよ。
 君は力がある、努力を続ければさらにうまくなる。
 もっとスケートを楽しんで」
と話していました

一方、もう一人の子は前半でも紹介されていたのどかさん。
彼女はののかさんとは逆に表現が苦手で
「見せるのが苦手で、恥ずかしさが顔に出てしまう」
ハビエルさんにも相談していましたが
「完璧な人はいないよ、
 みんな得意なこと、不得意なことがある。
 でも君を見ていると豊かな感情を秘めていることは分かる。
 あとはそれをどう出すかだよ。
 表にそれが出せるようになったとき、
 新しい自分に出会えるのかもしれないよ」

6日目になると、海賊になりきったり、パーティーで踊ろう!という練習をしていました
のどかさんも最初は照れていましたが、
ハビエルさんと一緒にいつのまにか笑顔で踊っていました。
周りの子も「めっちゃ笑ってるし」と一緒に笑う。
あとでのどかさんは
「作り笑いとかではなくて、自然に楽しくできた。
 目を合わせるとみんなおもしろくて、笑っていたんだろうと思う」

やっと自分が出せるようになってきたのどかさんを見て、ハビエルさんは
「失敗したくない、というのどかの気持ちもわかる。
 でも人前に立って立ち向かっている彼女を見て、応援したいと思ったんだ。
 彼女は想像していた以上に楽しく表現してくれて、うれしかった。
 ようやく壁を乗り越えた瞬間だったんじゃないかな」と。

7日目は、最終日で、今までの成果をご家族やお友達に披露する、という予定になっていました。

もともと子供たちは自分のプログラムがあるのですが、
ハビエルさんとコーチは相談して、
直前になって、少しずつ難易度を上げていました
例えば連続ジャンプを3回転ー2回転のところを、3回転ー3回転にする、など…

その指示を書いた紙を個別に渡されて、みんな驚いていましたが
ハビエルさんは
「スケートをやっていると、どうしてもうまくいかないこと、失敗することもあるよね。
 でもそういうときこそ学んでほしい。
 転んだり、つまづいたり、そんなのどうでもいいんだよ。
 大事なのは、完璧な結果よりもそれまでの努力だよ。失敗したっていい」
転んでもいいのでとにかくチャレンジしてほしい、と話していました

子供たちも
「失敗してもいいから、気にせず跳びたい」と口々に話していました

そのあと、子供たちは自分のプログラムを
親や友人が見守る中で披露する…(衣装も本番のものをつけていました)

てったくんは、「ラスト・サムライ
ジャンプ6つはすべてトライ、うち3つは成功、
今回初めてとべたサルコウは少し惜しかったものの、
苦手だったアクセルは着地していました。
ハビエルさんは演技を終えた彼に
「最後まで戦い抜いたね」
「一歩前に進んだよ」と話しかけていました

ののかさんは「ロミオとジュリエット
初挑戦の3回転ー3回転は回転不足だったものの、着地はしっかり決める。
ステップに込めた表現力は彼女ならではでした。
「素晴らしい出来だった」
「君はいいスケーターになれる能力が十分にある。
 ジャンプが跳べるかは道端の石ころみたいなものだよ。
 表現者として、スケートの道を歩いてほしい」
とハビエルさんは声をかけていました

感情を出すのが苦手なのどかさんは、天空に上る女神を演じていました
ジャンプは転倒してしまったものの、
彼女は笑顔で楽しそうに滑っていました。
ハビエルさんは
「本当に見違えたよ。笑ったのどかの顔は本当に好きだ」
「今日やれたことは、ジャンプを成功させること以上に素晴らしいことだよ」

他の子たちの演技もゆっくり見られたら良かったのですが
残念ながら編集の関係でみられませんでしたね…
でもみんな楽しそうにチャレンジしている様子でした。

最後にハビエルさんは
「貴重な経験をさせてくれてありがとう。
 教えたことを信じて、答えてくれてありがとう。
 もう君たちは立派なスケーターだよ。
 僕は夢をかなえた気分がする。
 心からの笑顔を見せてくれたことが何よりも嬉しい」

あいさつした後一人一人と握手やハグをして、「さみしくなっちゃいそう」

のどかさん「スケートが楽しいことを意識して滑れた」
てったくん「いつもトリプルは無理、って思っていたけど、跳ぼう、と思えるようになった」
ののかさん「スケートは好きなんで、辞める気はもうありません。結果を残していけたらいい」
という子供たちのコメントで終わっていました。

〇感想など
 どのスポーツでもそうなんですけど、
 それぞれの子に壁があって、それを頑張ってチャレンジして乗り越えた瞬間、ってのは
 見ていてこっちも励まされますね…
 ジャンプに苦戦していた子、表現に苦戦していた子、
 それぞれ自分の壁を超えた!て瞬間に、見える景色が変わるのかな、と思いました。

 それにしても、フィギュアも含め、特殊な場所とか道具が必要な競技って
 続けるのも大変だが、
 近くに場所がないと出会う機会もないんだなあ…と改めて思いました
 (たとえばうちの近くにはリンクがないから、フィギュアをする機会はほぼない。
  そういえば、昔私の実家の近くにスケート場はあったので、滑ったことはあるけど、
  フィギュアはやっていなかったです。いずれにせよ、今はつぶれていますね)
 
 そう考えると、スポーツとの出会いも縁だなあ、と…
 いや、スポーツだけではなくて、演劇(宝塚とか)も音楽(楽器)も、本も研究も
 全部子供時代に出会えるかどうかで、人生の中で目指すものがだいぶ変わってくる。
 それもすべて縁なのかなあ…と思います。

 であれば、たぶん今夢中になっていることは自分にとって縁あるもので、
 その道で一流になるのはたぶんすごく難しいことかもしれないが
 トップになれなくても、好きであれば続ける意味はあるのかな、と。
 
 たとえばトップになって儲けるとか有名になるとかいうことはできなくても、
 好きなことを通じて、
 自分が何かを乗り越えたり
 誰かに助けられたり、誰かと喜びを分かち合ったり、誰かを助けたり、
 あるいは生きててよかった…と思える瞬間を味わうことができたり…

 ハビエルさんが「好きなもののために努力するのは、結果より大事なんだよ」
 とおっしゃっていたのはそういうことなのかな、と感じました。
 
…見ていて色々言葉にできないものを感じました。
 フィギュアの試合もですが、スポーツ全般、いろんなことについて
 また違う視点で見られそうです。。

 そういえば地デジでもシェイリーン・ボーンさんの回を再放送していて
 (2016年にBSでオンエアされていた分)
 それもまた興味深いなと思ったので、時間があればまた書こうと思います。

 というわけで今回はこの辺で。
 

「なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造 」中野 円佳

「なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造 」中野 円佳

図書館で借りた本です。
新書なんでさらっと読めました。

タイトルから想像できるとおり、
日本の社会は専業主婦の存在が前提だ、これはおかしい!という問題提起の本です。

具体例は、筆者自身や筆者のお知り合いの話ですので、
専業主婦の例が海外駐在の妻…というのが、ちょっと一般から外れているかなとは思いつつ、
しかしながら日本の社会構造の分析もあって勉強になりました。

ざざっと読んだので、ざざっとメモしておきます
(参照に出された本は、直接読んでないので解釈の違いもあるかもしれません)
最初に、なぜ主婦がしんどいのか、という話が出ている
〇共働きがなぜしんどいか
 ・両親とも長時間労働なので、子供に触れられる時間が少ない
 ・保育園に預けても、費用面、保育園の質が園に左右されることが心配
  それから「預けることへの罪悪感」がのしかかる

 …この辺は経験がないから分からないが、
 長時間労働だときついな、とは思う。

〇専業主婦がなぜしんどいか
 ・家事育児が思いのほか忙しい
  (手間をかけないといけない風潮(後述)、
   幼稚園の時間が短い、子供相手だと予定が立たない…など)
 ・一人で家にいると鬱になる 
 ・働きに出たいが、いろんな障害がある
   ・夫の転勤や長時間労働で、家事育児を一人でやらざるを得ない
   ・ブランクの心配
   ・育休、時間給が取りにくい
   ・長時間労働できないのに、希望職種では長時間労働しかない
 
 …さらに、こういうことを言うと「ぜいたくを言うな」と言われる辛さもある、
 「自分で選んだんでしょ」と言われる、
 ということも書かれていました(たしかに)

〇祖父母と同居しても忙しさは解消されない
 ・自分や配偶者の親世代は専業主婦が当たり前だったので、
  彼らから家事育児を完璧にやることを求められる
 ・元気なうちはいいが、介護が必要になると二重負担になるリスクがある

〇家事代行を頼みにくい
 ・信頼できる人を探すのが難しい
 ・世間体がある

…まあ、たしかに主婦あるある、という話ですね…
特に、祖父母世代と同居しても
むしろ負担が増える、というのは実感としてあります。
食事や洗濯などの負担が増え、
育児に関することでの口出し(もちろん好意や心配からだとは分かっているのですが…)が増える。。
まあ、もちろん協力していただけるので、
それとバーターかなあ、とは思うのだけど。

次に、これらが起きる原因として、構造的な問題を挙げている

〇社会構造の問題
 ここではいろんな本を挙げつつ、日本の社会が「専業主婦前提」であるとしている

 ・佐口和郎「雇用システム論」
  日本は、主に男性が正規雇用、女性が非正規雇用、と役割分担されていた
  そして、正規雇用年功序列なので、
  非正規の待遇を改善しようとすると正規雇用の待遇が下がる
  そうすると、家庭を持つ人にとっては、夫の待遇が下がることになり、
  このため非正規の待遇改善を求める声があまり上がらなかった、という分析
 
 ・川口章「ジェンダー経済学」 
  日本は、片稼ぎ家庭の方が有利なシステムになっている、と分析
  日本では男性のみ採用、長時間労働の企業が多く、
  そのもとではワークライフバランスを考える企業の方が、短期的には利潤は出ない
  このため、長時間労働企業の方が残るし、
  給料が高いので、家庭からも長時間労働企業の方が支持されやすくなる、というもの

  …長時間労働企業の方が利潤が出る、というのは統計的証拠があるのか分からないが、
  もしそうならサービス残業が前提の話なのかな、と思いました。
  でもなぜサービス残業を強いられるのが当たり前になっているかというと、
  日本の企業の場合、サービス残業があるからこの会社嫌だな、と思っても
  他の会社に変わることができない。
  つまり終身雇用の企業が多いがゆえに、転職市場があんまりない、
  というのも一つの要因かなと感じた。

 ・山口一男「働き方の男女不平等」
  日本の企業では、正社員に対し終身雇用、年功序列、退職金のフルセットがあり  
  このセットが女性が正社員で働きにくくしている、と分析

  というのは、正社員に終身雇用と高い賃金を保障することで、
  正社員に長時間労働させることが可能になる
  企業の業績が悪くなったときも、アメリカみたいに正社員を解雇するのではなく、
  賃金アップを抑えたり、サービス残業させることで対応する
  非正規社員も採用するが、それらの人には残業させない代わりに賃金を安くし、
  重要な仕事をさせないことで対応する
  
  長時間労働だと正社員女性は働きにくく、
  働いている正社員女性も、結婚、出産などで退職しやすい  
  すると「女性は雇ってもどうせすぐやめる」ということが統計にも表れ、
  ますます女性が正社員では採用されなくなる…
  女性は非正規だけに採用されやすくなる…という悪循環
  
  山口氏はこの状態を「劣勢均衡」と呼んで批判していて
  「女性人材を活用できない社会は、生産性をあげられない」と批判しているそうです

 ・本田由紀「もじれる社会」
  日本の高度成長期~安定成長期の社会においては、
  教育、家庭、仕事のセットがうまく回っていた、と分析
  つまり、父親が仕事で稼ぎ、母親が家庭で教育を担い、教育を受けた子供が就職する
  政府は企業(仕事)に財政支援をすれば、そのお金が家庭、教育に回るというシステムだった

  ただし、社会としてはうまくいっていたが
  個人は尊重されず「社畜」「企業人間」を生み出した。
  また、過労死、育児ノイローゼ、いじめなどの問題も起こした

  バブル崩壊に伴い、仕事も正社員の待遇は保障されず、結婚できないから家庭も築けない、
  という人が増えてこのモデルは崩壊した、と。

 全体をまとめてみると、
 主に家計を担う男性は、長時間労働、転勤が当たり前。
 その代わり、終身雇用と年功序列が保障されている。
 女性は、そういう夫からの助けが当てにできず、ワンオペ家事育児になる
 あるいは、再就職しても、あまり重要でない、賃金も低い仕事が多い(前職の経験が生かせない)
 という構造になっている、と。

 こういう構造のために、
 男女での賃金差は、雇用形態内、雇用形態間、の両方で存在している
  正社員の中でも、女性は男性の賃金の7割
  そもそも正社員で働く女性の数が少なく、非正規の女性の賃金はもちろん低い
 という結果があるそうです

〇家事育児の呪縛
 それから、家事育児に対する「ここまですべき」観もあるようです。
 一言でいうと、日本の女性がしなくちゃいけない家事がやたら多い、と。
 掃除も、毎日しないといけない、とか
 食事も一汁三菜、弁当もインスタ映えさせないといけない、とか
 それから、井戸端会議でママ同士のネットワークを作らなきゃいけない、
 上の世代のプレッシャーがある、
 共働きの場合、学童保育に入れられない、
 PTAの負担が大きい、など…

 社会に出られない状態なので、
 逆に家事に自分の生きがいを見出す人、
 それから夫に見捨てられたら終わりなので、夫の家事を肩代わりして自分の居場所を作る人
 もいる、という分析もなされていました

 …まあ家事に生きがいを出せる人はそれはそれでいいかもしれないが、
 私のように家事が好きじゃない人もいるわけで、
 そういうときは「職業選択の自由がない!」って言いたくなりますね(笑)
 
〇解決策
 解決策としては、多様な働き方、家庭の在り方を認めましょう、という感じでした。
 働き方としては、
  パートの中でも総合職パート、とか、週3~5日出勤の専門職、
  あとネット上での業務委託などのギグエコノミー、など…

  正社員の中でも、意に沿わない転勤を廃止する、
  在宅勤務を許す、再就職でのキャリア評価、などの動きもある

 また、家庭の在り方としても
  男性が主夫になる、
  家事代行のサービス(マッチングサービスもあるそうです)
  知り合い同士での託児サービス

 など、新しい動きが出ている…

 そのような新しい動きが広がればいいし、
 それらのさまざまな働きを模索して、後の世代のためにその背中を見せていくことも大事ではないか…
 ということばでまとめられていました

〇感想など
・全体として、社会的には
 ・終身雇用→転職市場が生まれない
 ・年功序列→同一時間同一賃金、つまり非正規の処遇改善が進まない
 ・長時間労働サービス残業が当たり前→女性が離職しやすい、非正規の仕事がその分奪われる

 という構造が問題なのかな、と思いました
 しかしそれがなかなか改まらない、というのは
 この構造で甘い汁を吸っている人が多いから、なのでしょうね。

 今のシニア世代からしたら、
 いきなり終身雇用が無くなって放り出されても、次に就職できない
 年功序列が無くなって給料が下がって困る
 つまり選挙に行きやすいシニア世代が「うんいいよ」と言わないから改善されないのだろう。

 とはいえ、こういう制度を無くしていかないと
 いつまでたっても日本は変わらないんじゃないか…と思いました
 若い人がいつまでも苦しむことになる。

 ですので、今のシニア対策としては
 仕事がなくなった人、転職したい人の受け皿を確保、
 あるいは仕事が無くなる、転職しないといけない人のための準備期間を設ける、
 新しいスキルを学ぶ場を提供する、
 などのことを本腰入れて考える必要があるのではないか、と。

 でもすでに、中堅世代(40代くらい)は
 バブル崩壊後なので、ちょっと変わりつつあるのかな、と思います。
 年功序列も終身雇用も当てにならないことは身に染みて分かっているし、
 だから自分でキャリアを考え、辞めて転職する人もいれば、
 人手不足なので、いったん正社員の道を降りた主婦の人でも、
 専門職で再就職、という道もできつつある。
 正社員の女性が結婚、出産しても働きやすい仕組みもできている。
 そういうところから少しずつ変わっていけばいいのかな、と思います。

・また、主婦の忙しさの原因として、
 「家事育児への呪縛」みたいなものは大きい。
 これは精神的な空気みたいなものなので、より厄介な気がします。

 これに対する解決策としては、
 もう「他人を気にしない」「他人に口出ししない」
 つまりお互いを尊重する、これしかないのかな、と思います

 インスタ映えも井戸端会議も、
 他人がなんかいう「かも」と思って心配することで、もう気持ちの問題だと私は思う。
 なんか言われたら対応すればいいけど、
 別にやらなきゃやらないで、何とか回るもんだと思います
 (私の場合、井戸端会議ネットワークは当てにならない、  
  むしろ学校に直接聞く方がよっぽど正確だと思っているので、ママ友はいない)
 
 家事とか育児についても、その家での方針のものなので
 「あの家庭は…」とか細かいこと言わずに、
 もうちょっと寛容な社会になるといいなあ…と思います。

・しかしながら一番深刻だな、と思ったのは育児、保育の問題。
 保育所や幼稚園、学童が数的にも不足しているし、
 人手が減って余計精神的にすり減っていく保育士さんが増えて、
 質も低下してしまうかもしれない…

 個人的には、育児も介護も、大切な仕事で
 地域のための重要な仕事なので、
 もっと保育士さん、介護士さんの待遇が改善されてほしい、と思う。
 給料もあげてほしいし、ステイタス的にも尊敬されるような仕事として扱われてほしい、
 と強く思います。

 あと、個人的な願いとして、
 弁当作りが免除されてほしいなあ。。
 せめて公立の学校(高校も含め)は食堂か給食にしてほしい。
 あれこそ朝超忙しいときに、働きながらやる、てのはかなりの負担なのよ…

だんだん世の中は変わっていく、
自分も母親の一人として、声を上げて変えていきたい…後の世代のためにも。
ということを考えた本でした。

というわけで今回はこの辺で。

NHK「プロフェッショナル仕事の流儀「答えは、子供たちの中に」」

NHK「プロフェッショナル仕事の流儀「答えは、子供たちの中に」」

ずっと前に見ていたのですが、書く時間が無くて記事にしていませんでした…

たまに見てるこの番組。
今回は数学教師の井本晴久さんでした。

教科書を使わず、オリジナルのテキストを使う。
進学校の数学教師なのに
「生徒の成績が上がるかなんて気にしない」
とおっしゃっている。
しかし、授業はいい加減なわけではなく、
むしろどうすれば生徒が勉強を楽しい!と思うか、を考えている。
本当の思考力を育てるとはどういうことか、
を示していただいた気がしました

進学校での授業
 彼は鎌倉市の私立の中高一貫の男子校で、28年間数学教師をされているそうです
 50歳だとおっしゃるが、とても若々しい方で、表情は少年のよう。

 彼は毎朝学校に行くのがとても楽しみだそうです。
 普通先生って、学校につくと職員室に向かいますが
 彼は登校してきた生徒の方に歩いていく。
 サッカーしていたり縄跳びしたりしている生徒たちに、
 話しかけながら一緒に遊んだりしている

 「こんな風にして朝礼に遅れることがよくあるんですよ」
 と笑いながら話していました

 さて、取材していたのは中2の数学の授業。
 井本さんは教科書もノートも使わず、
 いきなり黒板に○二つと直線を描き、
 「この円と直線にすべて接する円を描いて」という問題を出す
 「机に書いてもいいよ、適当でいいよ」

 生徒たちは戸惑いながらも、いろいろと自分で書きながら頭をひねり出す

 井本さんはこんな問題を出す意図として
 「できるとか、できないとかで評価していない。
  そうじゃなくて、授業中に考えているかどうか。
  少なくとも黒板に正解を書き出すだけの授業だと、
  何も考えてないことになる」

 とはいえ問題を出して終わり、ではなく、合いの手も入れる
 「内側、外側両方書いてるのはいいね」
 「5個以上見つかった人?6個?」

 みんなだんだん乗り気になって、自分のアイデアを言ったり、
 4,5人集まって相談し始め出しました。

 井本さんは
 「目指しているのは、ぷるっとさせること」だという。
 「びっくりさせたい、喜ばせたい。
  子供たちが問題に夢中になって、
  僕がいるのに気づいてないほど夢中になっているとき
  その子のやったーがほとばしっている…
  正解じゃなくてもいい、そういうものを目指したい」

 そのうち井本さんは大騒ぎする教室の中で、
 「実は6個って言ってたけど、もっとあります」と大声で言う。
 そして、「8個あるの?9?」と煽るように言う。

 そして「ちょっと誰か黒板に書いてみて」
 どんな答えを書いていてもそれを尊重する

 「正解か、不正解かで評価しても意味がない。
  学校の評価というのは、正解の答えを出すかだけど、
  そうすると答えの再現はできるけど、
  それじゃ自分で壁にぶつかったときどうすることもできない。
  自分で出せる力、試行錯誤する力が必要になるでしょ」

 そのうち生徒の中には、自分ノートに自分でたくさん円を書いたり、
 机にも図形を書いたりし始める
 生徒たちもオリジナルの問題を作っているようでした
 そして一人が「接する円がゼロになる図を見つけました」と発表する

 井本さんは授業の最後に
 「円が線の上、って考えちゃうけど、いろんな場合があるよね。
  円と直線の関係って深いよね」といってまとめていました

 この授業が終わった後、取材スタッフが
 「この授業は何の意図があるんですか」と尋ねると
 井本さんは
 「考えてない。でもどんな題材でもいいから、どういう思考をするかですよね」

 スタッフは「先生は円と直線書いただけですよね」
 すると井本さんは笑いながら、
 「そうですね、
  でも僕が教える人になってしまったら、
  生徒は自由に考えなくなってしまう。
  だって言うことが間違っていたら嫌じゃないですか」

 スタッフが「先生が教えない人なら先生はどんな人ですか」と質問すると
 井本さんは少し考えて
 「…深い質問ですね」と。
 「僕は何をする人なんだろう?」
 「…でもいいじゃないですか、楽しいでしょ、それでいいんですよ」と。

 どんな答えを出しても認められる、と思うから
 生徒たちも乗り出せるのでしょうね。
 1問だけで授業をやるから、どの答えも余裕を持って聞けるのだろうけど、
 進学校でそれをする、というのは、ある意味すごい決断だと思いました。

○「ナイス誤答」
 しかし彼はすべて考えさせるわけではない。
 教えるための準備を人一倍されていました。

 彼はオリジナルのプリントを作って教えるが、
 その作成や、生徒の答案のチェックには何時間もかけるのだそうです。
 休日も出勤して、9時から8時間、ご飯も10分で済ませてずーっと答案を見ている
 
 何を見ているかというと、「ナイス間違い」を探すんだそうです
 正解っぽい思考方法なのに間違えている、
 一見何が間違いなんだろう?と思うような答案が、
 次のプリントの題材になるんだ、と。

 「誤答は宝ですね。
  なんで間違いか分からないことがある。
  それを出すと、生徒たちはなんでなんで?となる」

 実際に次の授業でプリントを配り
 「すごいでしょ?すごいんだけど、あとからよくよく考えるとだめだって分かる。
  穴があるんです」といって
 何が間違いかを生徒に探させている
 生徒はえー!と言いながら夢中で探していました。

 失敗がある方が学べる…というのは
 数学に限らずスポーツなどでも同じですね。
 ただ学校の授業の場合、時間が無いので考えさせると時間がかかってしまう。
 考えさせるのも割と技術が必要で、ヒントを与えたり上手に誘導したりしていかないと…
 教える側の技量も必要だと感じました
 
○「好き好き」をぺたぺた貼る
 しかし、井本さんが大事にしているのは生徒との普段との触れ合い、だそうです
 生徒が弁当を食べているときも話しかけて
 「美味しかったよ、って言ってるの?すごいな」
 次週のプリントをしている生徒にも
 「宿題じゃないのにやってるって、すごいな」と、なんでもいいので、とにかく誉めまくる。

 「用があって何かする、ってのはなんか遠い。
  用もないのにわけわかんないことするってのは、その子に興味があるってこと。
  その子が好き好き、ってのをぺたぺた貼りたいんですよね。
  それで、好き好き、ってやっていると本当に好きになってくる。
  やってみたらいいですよ、
  あの年ごろなので「キモイ」とか言われることもあるけど、
  それだけうれしいんだな、って僕は勝手に思っている、幸せな性格ですよね」(笑)

 …本当に子供が好きで、子供に興味を持っているんだなあ…
 彼にとっては天職なんだなあ、と思いました

○「うまくやれていない子」にも魅力はたくさんある
 帰り道、生徒と一緒に歩いている井本さんに
 生徒たちが結婚相手募集でテレビの取材受けているんでしょ、とからかうと
 「願望が無いわけじゃ無いけど…」(笑)
 「でも気づくと考えてないんだよね、
  俺はお前たちに愛情を100%かけてる」などと話す

 そのあと井本さんは家に帰るかと思いきや、
 都心のビルで開かれている学習塾に向かっていきました
 井本さんは去年の春から、学校での講義時間を減らし、
 別の場所でも週3回、教室を開いているそうです

 その意図として
 「…うまくやれてない子がずっと気になってて。
  そういう子たちって、
  僕らの方から行かないと出会えないんですよね」

 教えているのは中学生の子たちで、60人くらいいる
 取材中教えていたのは、立方体の展開図を示して、
 どうみても立方体にならないものを、
 どうやったらできるようになるか考えさせる問題でした。
 
 中には紙を破って無理やり作る子もいましたが
 井本さんはずるとは言わずに「ある意味職人的成功」とほめる。

 どんな答えも「面白いな、それすごいわ、もっとやって」
 とその子を励ましていました。

 「学校とか世間とかの評価軸を取っ払ったら、
  その子の魅力はたくさんある」

 「子供にとっての大人の意味って、
  何かやったら微笑んでもらうこと。
  顔を上げたときに微笑み返されるあの瞬間が大きい」

 その子をありのままに見ること、
 その子を信じて自分で出す答えを待つことが大事だ、と…

 その次の言葉がぐっときました。

 「こういう力が必要だ、っていうものだけ見てると、
  その子の足りないところしか見えなくなる。
  でも社会の先にあるのは彼らが暮らす将来で、彼ら自身が将来なんですよね。
  社会がこうだからこうなるべき、じゃない。
  社会なんか見なくていい。
  彼らが社会を作るんだから、こちらが先に提示するものじゃない」

 学校だと、子供はこうあるべき、とか
 そんなんじゃ将来困るよ、などとつい言ってしまうけど、
 そんな子が実は社会を作るかもしれない。
 将来のトップランナーになるかもしれないんですね…
 それを信じてあげねばならないのかな、と思いました

児童養護施設の子供たち
 井本さんはもう一つ、22年前から養護施設でも授業をしているそうです
 40人くらいの子がいるところで、月二回訪れているのだそう

 最近は昔の教え子たちが手伝ってくれるので、
 井本さんはもっぱら子供たちとじゃれあっている
 「大人を独占する経験が彼らには少ないから、
  大事にされたらうれしい、というのがあるよね」

 両親がいない子などもいるが、彼らは明るい。
 「大変じゃないですか」と取材スタッフに尋ねられると
 「大変じゃないですよ、ずっとやってきて習慣みたいなもの」
 すると昔の教え子が「こっちは大変だけどね」と冗談を言う(笑)
 「この子は3年くらいラブレターをくれたんですよ」と井本さんが言うと
 「もう好きじゃない」(笑)
 「こんなじじいとずっとやってますよ」という子にも
 「昔はこんなひどいこと言わなかったけどねえ。
  でもそれだけ成長したってことなんだよね」とどんな子でも受け入れていました

○井本さんの過去
 さて、そんな井本さんの今の原点の話がありました
 それは、彼の兄と母親だそうです
 彼の兄は生まれつき足に障害があり、生活がいろいろ困難だった 

 しかし、母親はそんな兄も受け入れていて
 「兄貴が一歩歩いたら、うわーって喜んでペンをあげるんだよね。
  あのペン俺も欲しいと思ってた(笑)
  それくらい、足が悪いのは何とも思ってなかった。
  世間は足が悪いのを課題ととらえるけど、
  世間てそんなもんだなと思ってたし、
  世間の言うことが必ずしもそうじゃない、てそのころから思っていた」

 私も、割と世間の評価は気にせず、自分軸で考える方です。
 私の母親が割とそういうのを気にしていてしんどかった、というのもあるんで…
 子供にも自分の価値観で判断することを教えていきたい、と思いました
 世間とか近所の評判ではなく、自分が将来を決めていく方が後悔もぶれもないですし。

 そのあと彼は大学を出て、母校で数学教師になる
 教師になると決めていて、
 教科書を使わずオリジナルのやり方で教える、
 その子をありのまま受け入れる、というスタイルも決めていたそうです
 
 そして担任を持つようになると、
 ある生徒の親が「うちの子が自殺を考えるほど悩んでいる」と相談してきた

 その子に直接話を聞くと、その子は優等生であることに疲れ果てていたそうです
 「たぶんもうその子は自分がなんだかわからなくなってたんでしょうね、
  他人に気を使って使って、他人が望むようにふるまっていた。」
 それだけ世間の評価や価値観が、子供を追い詰めている、と…

 先生になってから10年目、彼は忘れられない体験をする
 学校に問題行動を起こす子がいて、その子の担任になったそうです
 「俺はこいつかわいい、と思ってた、やんちゃでいい子だったしね。
  それで担任になります、って立候補した」
 なんとかその子を卒業させてやりたい、と担任になり
 その子の素行を直そうとした
 
 しかし井本さんは次第に教師としての責任感が強くなり、
 「勉強をやれ」「素行を正せ」という言葉を言うようになってしまう
 生徒はだんだん冷めた目をするようになり、
 生徒は1年後に学校を去ってしまった

 井本さんは「ボロ泣きしましたね、申し訳なくて。俺は何をやってるんだろう、って」
 「たぶん僕が担任になったとき、絶対彼は辛かったはず。
  教師である責任感が出てくるとダメなんですよ」

 自分が嫌いだった学校的な評価、価値観に、
 いつのまにか自分もとらわれていた、と…

 そのうち、井本さんは大好きだった学校にも行けなくなってしまった
 「朝起きて、熱を測ると熱があるんですよ。
  それで学校に電話して休みます、って電話を切ると、熱が下がる。
  ああ不登校ってこれなんだな、と」

○子供の「ありのまま」を愛する、ということ
 しかし、そんな彼を救ってくれたのは養護施設の子供たちだったそうです。
 彼らは「かわいそう」などの世間の目には関係なく明るく生きている、と。
 
 「「落ちこぼれ」とレッテルをはられていた子供も、
  チャイムが鳴り終わってもずーっと宿題を考えている」
 こういう子供たちの輝きに優劣はない、と心から思うようになってきた

 「自分の持っていた価値観とか、
  こうであるべきというものを
  子供たちを通してどんどん捨てさせてもらいました」

 最近では7年前から認知症の母親のもとに通っている
 母親には昔の話をよく聞くそうです
 「お兄さんが障害で気にならなかった?」「ならなかったよ」
 「子育て楽しかった?」「楽しかったよ、理屈じゃないよ、かわいいもんはかわいい」

 井本さんはそんな母親の言葉を書き留め、
 折に触れ見返して励ましてもらっているそうです

 「ありのままでいい」という言葉は時に無責任に聞こえるが、
 井本さんの言葉はそうじゃない、
 彼は今でも戦っている、というナレーションがありました。

 ありのままでいい、というのは
 時には開き直りにもなりかねないので、
 少し使い方には気を付けねばならない言葉だな、と私は思います。
 自分の良さを消す必要は無いけど、
 成長しなくてもいい、改善しなくてもいいという意味ではない。
 その子を認めつつ、自分からこうしたい、こうなりたいという気持ちを引き出すように
 大人が導いていかねばならないと思います。

○生徒が教師を飛び越える授業
 最後に、9月に夜の学習塾で
 「取材スタッフが奇跡の瞬間を見た」という授業が紹介されていました

 それは「何筆書き」という問題で、
 四角のマス目に何本か境界線が引いてあって、
 その境界線を何筆書きで書けるかを数えさせ、
 そこに法則性があるかを見つけさせる問題

 最初に出てきた答えは「エリアの数ー1」というもの
 しかし、別の生徒が例外があることを見つける

 そこで、別の答えはないか、みんな探し始める
 数人で話し合ったりする
 その中で井本さんはみんなに声をかけていく
 
 井本さんは実は答えを見つけていて、
 そちらに誘導するようなヒントも言っている

 そのうちグループで話し合っていた生徒が
 「エリアの数ー1-交点の数」という答えを探し出す

 実はこの答えは井本さんが見つけた答えだったんですが、
 すると別の生徒が例外を探し出してくる

 井本さんは弱ったなあ…という顔をして、みんな大騒ぎになっていて
 すると井本さんは
 「実は、もう正直に言っちゃうね。
  僕はこの答え(最初の「エリアの数ー1」)は出てくるだろうな、と思って
  その例外を探していて、
  この答え(別の答え)も出てくると思ってその例外も見つけていて、
  僕が正解だと思っていたのはこの答え(エリアの数ー1-交点の数)だったのね。
  でも彼が例外を見つけちゃった。
  だから、本当に答えは分かりません、誰か探して」

 わーわー言いながらみんな正解を探し出す
 「もう俺の限界を飛び越えてる」
 「俺の考えてることを超えてる」

 そして、例外を見つけた子に
 「例外見つける天才だな、お前」
 「絶対例外あると思って探してるでしょ」とほめる。
 
 スタッフには
 「いいですねえ、講義しているのに僕のこと全く無視で…
  これがいい、これ最高。みんな考えるの夢中になってる。
  …ここで俺が帰っても誰も気づかないだろうなあ」

 そして「先生の役割ってほんと、何なんでしょうね」とつぶやいていました
 
 「ありのままを認めていれば、
  その子にとって必要なものは、その子が勝手に見つけるんですよね。
  伸びていくのは彼ら自身で、
  どこにいくのかは本人にも分からないし、誰にもわからない。
  それを信じて見守っていくのが僕らの役割ですよね」

 「子供って、信じていい。
  信じて考えさせるようにしていたら、こんなに生き生きする」

 授業の最後には結局答えは出ていないようでしたが
 「これ誰か余力あったら、1回まとめて。何がよくて何がダメとか」と話しかけていました。

 そして井本さんは、黒板を見て「これってアートだよね…知の集積だよ」とつぶやく。

 生徒は学校が嫌い、という子もいるが「ここは楽しい」と話していました。

 …答えが分からない問題、ってある意味すごいなと思いました。
 最初から答えが無い、と分かっていると逆にやる気をなくしてしまうけど
 仮説があって、解けるかもしれないと思えるから取り組めるのか。
 先生自身も、正解があるはずだと思えないと出せないんじゃないのかなあ…と。
 でも現実の世界では、答えがあるのかないのか分からないけど、
 あると信じて取り組むしかない問題だらけですからね…
 それでも信じて解く。そういう姿勢を、先生自身が見せていることに意味があるのかなと思いました。

○プロフェッショナルとは
 改めて、スタッフが先生の役目とは何か?を聞くと
 「一言じゃ言えないですね。
  ただ、教える人、教えられる人の関係じゃない。
  僕は今そうですよね、何一つ教えてない。教えようとしても誰も聞いてこないし」

 ナレーションでは「共に学ぶ人」と言っていました

 たぶん、井本さん自身も、
 毎日生徒たちからいろいろなことを学んでいて、
 それにワクワクするのでしょう。
 「毎日学校に行くのが楽しみ。
  行きの車で信号待ちになったらイライラしちゃう」 
 と話していました

 プロフェッショナルとは?という最後の質問では、
 「今の君も、これまでの人生の君も、全部オーケー、大丈夫。
  と言ってあげられること。
  愛ですね」
 と言って終わっていました

…先生とは、教える人ではなく、一緒に考える人。
生徒を温かく見守り、生徒の出す答えを尊重して一緒に検討できる人。
井本さんを見ていると、先生とはそういう存在なのかな、と思います。

先生とはそうあるべきなのかもしれないが、
先生としてのプライドがあるとなかなか難しいのかな、と思う。
特に大学とか高度な学問になってくると…
たとえば歴史を見ていると、
物理学のエディントンやアインシュタインなどの偉大な学者でさえも、
晩年は新しい学問を否定してしまい「老害」と言われていたりする。
懐を深く、若い考えをおもしろーい、むしろ俺を超えてくれ、、と思える人は
先生として実は素晴らしい人なんだな、と思います。

私自身も今のところ子供に教えていることもあるけど、
実のところ自分が教えられることの方が多いですね…
若い人、子供たちこそ自分が学ぶ、という姿勢で接していきたいと思いました。

というわけで今回はこの辺で。

怒りや悲しみを解放する、ということ

怒りや悲しみを解放する、ということ

年末から書こう書こうと思っていた話を書いてみたいと思います。

去年年末くらいに気づいたことがありました。
それは「怒りや悲しみなど、負の感情を解放する、とはどういうことか」ということ。

あくまで私の解釈ですし、また考え方が変わるかもしれないが、
メモとして書いておきます。

私は若かりし頃、毎日悲しくて泣いてばかりだった時がありました。
たぶん軽いうつ状態だったんでしょうけど、
何とかしたくていろんなセラピーを受けていました。
そのなかで、感情を感じきって解放する、というものがありました。

方法をざっくり書くと、
「辛かった出来事を思い出す」
「そのとき感じたかった感情を感じ切る」というもの。
泣くとか怒るとか、疲れはてるまでやりきる…
やりつくしたらもう出てこない、というわけです。

しかし私はこの方法は合わなかった…
そのときはなんかスッキリした気にはなるが、根本は直らないというか。
というより、そのときのセラピストが支配的な人で、
自分の考え方を押し付けてくる(相手はご好意でして下さるのですけれど…)感覚を受けたので
正直しんどいだけでした。

ほか、この悲しみは、過去に理由があるのかも…と、
インナーチャイルド療法の本で読んだ自己ワークみたいなのもやりました。
私の場合、当時は自己肯定感が低かったんですが、
その原因が育った環境にあったのかなあと思ったのです。

やり方としては、
親からされた辛いことを思い出して、書いてみる。
そしてそのとき自分が感じていた感情を思い出し、
親にしてほしかったことを言ってみる。
そのとき、小さかった自分をイメージの中で抱きしめる…など。

しかし、私はそもそもイメージングが苦手(感覚系の人間なんでビジュアル化は苦手)なので、
自分を抱き締める…ということをしてもあんまりうまくいきませんでした。

それに、自分の中では「もういいよ」と悲しみを解放してあげても、
悲しみとか怒りが戻ってくる。
もうこの感情はいいって言ってるのに!って言いたくなるけど、
親に対してやっぱり腹が立ったり許せなくなったり、
別の人から、似たようなことをされる状況をまた引き寄せてしまったり…

結局この方法は合わないなで終わりでした。

そのあとも子育てや義父母さんとの同居で感情には随分悩まされましたが、
結局、アンガーマネジメント的なものに落ち着いたかなぁ。
発生するのは抑え込まずに、
出ているときに対処する、
今泣いてるな~とか怒ってるな~とか
自分を観察する、など…
これだけでもずいぶん二次災害を減らすことはできますしね。

それから、子供の頃の親や周りの大人との関係や自己否定感についても、
自分が子育てをするようになり、
大人の気持ちが客観的な視点で見えるようになってきたので、自分の中では解消されました。

ですので、それはそれで別に問題はなかったのですけど、
去年の秋ごろに負の感情について考える機会がやってきました。

そもそものきっかけは、やたら「アセンション」という言葉がそのころ目についていて、
それに関する話を色々読んでいたこと。

アセンション」とはスピリチュアル用語で次元上昇、地球とか個人の魂が進化するみたいな考え方。
私自身は「アセンション」という言葉が好きではなかったのだが、
まあその話をすると脱線してしまうので後に回すとして、

いろんな方のホームページなどを見ているうちに、
「今のところ感情について、私の現実生活に問題はないが
 どうやら負の感情は我々の魂にとっては重たいものなので、
 手放した方が良さそうだ。」
と思うようになりました。
その方が自分が楽にもなりそうだなあ、と…

精神世界でも仏教でもよく言われることですが、
感情に囚われていないのが我々の本来の有り様で、
悲しみや怒りは、何かに囚われていることを我々に教えてくれる。
そして自分が囚われていることに気づけなければ、
似たような経験を何回も繰り返すことになる。

囚われから自由になれれば自分も楽だし、
楽になるということは本来の自分に近づいた、ということなのですね。

感情とは、自分が何にとらわれているか、を教えてくれるもの。
自分の感情には全て自分に理由がある。
一般的には、腹が立つのは他人に○○されたからだ、と思いがちだが、
怒りの原因は自分の中にあり、
他人の行為はそれを表に出すきっかけにすぎない。
同じことをされても、別に全然怒らない人もいますし…

だから、自分の内面を掘り下げていけば感情の原因が分かる。
悲しいとか怒り、などを感じるときは
過去の辛い経験に原因があることが多い。
(親との関係に行きつく、と書いていた人もいたが、
 私の経験でいうと親だけに限るものではないと思う)
辛い記憶があるので、また同じことが起きるかも…と想像してしまって、
その想像がものの見方をゆがめてしまって、感情に結びつく、ということが多い。
例えば犬が近寄ってきて怖い、悲しいという人は
過去に犬で怖い思いをした経験があるから、そう思うのかもしれない、など…

そして、その原因を思い出して
過去の辛い自分を癒して
もうこの感情はいりません、と手放せば
負の感情は解放される、というような話をいろんな方に伺いました。

それで私自身も自分を掘り下げてみることにしました。

たとえば、私自身は、威圧的な人がいるとすぐに反発してしまう、というところがありました
それで、なぜそういう人に怒りを感じるのか?を掘り下げてみました。

 →威圧的にされるのが嫌になる
 →なぜ嫌か?
 →相手に指図されているように感じるから
 →なぜそれが嫌なのか
 →支配されている気持ちになる、戦わねばならないと思う
 →なぜそう感じるか
 →自分の自由が奪われてしまう、自分で抵抗しないと誰も守ってくれない、自分を守らなければと感じる

  …となり、なんで戦わねば、と思ってしまうのだろう、と考えていたのですが、
 そのとき昔のことを思い出しました。

  たとえば学校のクラスで無視されていたとき、誰も守ってくれなかった、
  先生にもあなたおかしいと言われた…
  友達ができないことに対して、母親が受け入れてくれなかった…
  自分が守られていない感覚があった、ということに思い至りました。

…ここまでで、色々思い込みがあるなぁと気づいた。

 こういうのを色々行っていく過程で、
 私自身が、元々自由でありたい、あんまり他人に干渉されたくない、
 という性質の持ち主なんだなということも自覚していったのですが

 それゆえに、威圧的な人には
 私は自分の領域が侵される、と思ってしまう、だから対抗したくなるのかな、と思った。
 でも別に、相手が威圧的に言おうが何をしようが、
 別に自分の心がそれに従う必要はないわけで(従うふりをすることだってできるし)
 相手に従わねば、と思うのも思い込みだし、相手が自分に攻撃している、と感じるのも思い込みなのですね。相手も言い方がきついだけで、悪気はないかもしれないし。
 自分は自分、と思えばいいのかな、と思いました。
 
 あと、自分を守らねば、という感覚も思い込みで
 これは過去にあんまり人間関係がうまくいかなかったのが原因なのだな、
 と分かりました。
  
 しかしながら、私はここからがすんなりいきませんでした。
 自分は誰も守ってくれない、だから自分で自分を守らねば、と辛くて悲しんでいた昔の私に
 「もうそんなことはないからいいよ、これからは大丈夫だよ」
 と言い聞かせて
 「分かった。もうこの感情はいらないです」と思うのですが、
 やっぱり似たような人が出てきたら怒りが出てきてしまう。

 そこで、いやいや、自分の思い込みがあるから怒りが出てくるんだよ、と
 自分に言い聞かせるのですが
 それで怒らなくなるわけではないし、自分の怒りは隠せない。
 
 そこで、ある方に相談したのですが、
 「言い聞かせるのは怒りを抑え込んでいるだけではないか」
 「そもそも、自分を受け入れられていないように見える」
 「怒ったり悲しんだりすること自体が悪いわけじゃない」
 そして、そもそも、なぜ子供の頃孤立していたのが悲しいのか?と聞かれました。

 …このときは、いまいち意味が分からなかったけど、
 孤独がなぜ悲しいのか、という質問にはちょっと驚きました。
 私自身は、孤独は忌むべきもの、と考えていて、それは当然と思っていたけど、
 別に誰にも好かれなくても問題ない、という考え方もあるわけです。
 自分がしっかりしていれば、他人がどう評価しようが関係ないわけですから。

 そこでもう一回考えたのですが、
 →孤独が嫌だから
 →孤独がなぜ嫌なのか
 →自分が他人にとってどうでもいい存在に思えるから
 →それがなぜ悲しいのか
 →他人に役立たない自分は価値がないと思うから

 …つまり、誰の役に立たなくても自分は存在していていい、と思えていない、
 ということが分かってきた。
 なにか役立つことをしていないと自分はダメだ、という思いがどこかにある。
 これが「自分を受け入れていない」ということだ、と。
 
 ここから先が進まなくて、
  そりゃ誰にも認めてもらえない自分なんて自分は嫌だし、
  怒りを解放する練習をしているのに、ちっともうまくいかない自分なんて嫌だ、と思っていて…

 で、そこで止まっていたわけです。(半分放置ですね…)

 しかしながら年末くらいに河野哲也さんの哲学の本を読んでいて、気づいたことがありました。

 河野さんの本の最初の方では、ソクラテス無知の知について、
 「魂の浄化」という言葉が使われていて、そこにビビッときました。

 そこで先を読んでみると、
 ソクラテスの対話は、
 相手が無知に返り、自分のそれまでの知識や思い込みを捨て、それらから解放される役割があった。
 それは魂の浄化で、より広い視点を獲得し、とらわれから自由になることだ、と…
 
 さらに
 「ソクラテスにとって、「より良い人生」「成長」などなかった。
  彼にとっては単に「よき人生」があっただけだ、
  彼にとって、人生とは変容の連続に過ぎない、人生はそのままで完璧である」
 とあり、その言葉も心に響きました。

 つまり魂が段階的に成長していくわけではなくて、
 自分の内面が変化する、それを繰り返すだけが人生なのだ、と。
 
 私はこのとき、怒りとか自分の嫌な面からの解放も、
 成長とか進化とかいうものではなくて、
 ただの変容で、無知に戻ることなのだ、ということに気づきました。

 成長と思ってしまうと、怒りが取れない自分が未熟だと思い、未熟な自分を認められなくて嫌になる。
 (私が「自分が受け入れられていない」と言われたのはそういうことなのですね)
 でも何かに対して怒りを感じている自分というのは、
 単にある一つの見方にとらわれている自分、というだけで、未熟も何もなく、それはそれでよき自分なのだと。

 ただ、思い込みにとらわれていると、自分がしんどいし、世界を広く見られない。
 それは損なので、より広い視点を獲得する方がいい。
 そういう自分の内面の変化を許すこと
 自分がより自由に考えられるように自分を解き放つことが、「解放する」という意味なのだな、と。

 つまりまとめると、
 「怒りや悲しみなどの根本には、自分の思い込みがある」ということ、
 だから
 「その思い込みに気づいて、
  もうそういう風に思いこまなくてもいいよ、
  別の見方をしてもいいよ、と自分を許すこと、自分を自由にしてあげること、
  そういう自分の変化を受け入れる、楽しむこと」
 が感情から解放される、ということなのではないか、と。

 怒りや悲しみは、自分が自由になるきっかけを提供してくれているわけで、
 そう思うと感情もありがたいと思える。
 別に怒っても悲しんでも、それはそれで愛おしい自分で、
 あ、まだ自分変われる部分があるんだ、と楽しめる気が私はします。
 怒りなどの感情は、
 「自分は今怒っているけど、どんな思い込みから相手を判断しているんだろう」
 「思い込みを外したら相手がどんな風に見えるんだろう」
 と考えるきっかけを作ってくれているのかな、と。

 そうして、思い込みを外して、相手の話を広い視点で見られたら
 相手の話も、ほう、そういう考え方なんですか、と素直に思えるのかもしれない。
 そうすると、いつの間にか怒りや悲しみを感じていない自分になっているのかな、と思います。
 感情を離そう、離そうと思う必要はなくて、
 似たようなことに出会ってしまうときは、まだ自分には固い思い込みがあるんだな、と思えばいいのかなと。
 
 最近は怒りとか悲しみについて、そういう風にとらえています。

 もちろんどうしようもない許せない怒りや悲しみに固まってしまう人もいて、
 別の見方なんてできるか!というときもあるだろう。
 そういうときは、まだそこから離れる準備が自分にはできていないのだろうと私は思う。

 そういうときは泣いてもいい、悲しんでもいいと思う。
 だって自分がまだその感情を必要としているのだから。
 どのみち、抑え込んでも、また別の出来事としてその感情は戻ってきますし…

 でも、人間ってずーっと怒り続けたりずーっと泣き続けたりすることはできない。 
 ずーっと怒り続けているのは自分にとっても重たく、しんどい。
 本来の自分じゃない。
 だからいつかは、こんなの疲れた、となるときがくる。

 そういうときにふっと自分を俯瞰して見て、あ、自分って一方的にしかこの出来事を見ていない、
 もうこの見方にとらわれているのは嫌だ、と気づいたなら、
 そのときに手放せばいいのではないか、と思います。
 それが怒りや悲しみから解放される、ということなのだろう、と思います。
 
 大事なのは、感情とは、自分の偏った視点を教えてくれるんだ、ということを忘れないでおくこと。 
 無理やり引き離す必要はないけど、
 その都度自分を掘り下げていくことで、早く思い込みから脱出して自由になれるんだ、ということ。
 
 …それが私の年末に起きた気づきです。

 それから、もう一つ、余談ながらアセンションについても書いておこうと思います。
 アセンションは次元上昇、のことで、
 地球レベルでも個人レベルでも、波動が細かくなってどんどん軽くなる、
 という状態のことだそうです

 1999年(ノストラダムス系の予言)とか2012年(「光の12日間」)のときには、
 地球がアセンションするから乗り遅れるな、
 みたいな話がありました。
 今回も2020年くらいにアセンションするとか、したとかいう情報が飛び交っています。
 私はそういうのが分かる力がないので、真偽のほどはわからないですが…
 
 ただこういう話って、選民思想的というか煽っているというか、
 選ばれた人しかアセンションできないからみんな頑張りなさいよ、
 みたいな風に私は聞こえていて、
 だから結構冷めていました。
 アセンションするからどうだっての?みたいな。
 別にアセンションしようがしまいが、自分の人生を清く正しく生きるのみ、と。

 しかしながら今回いろんな情報を聞いて、私の中で納得できた話を書いておくと、
 (私が納得できたというだけなので、他の方がどうとるかはお任せしますが)
 アセンションは特別なことではなくて、
 誰もがいずれはすることなのだそうです。

 元々我々は高い波動の存在、ワンネスの一つの存在(河合隼雄さんのいう集合的無意識のような)だが、
 だけど地球などの惑星での経験をしたくて、個々に分かれて重い波動になった。
 特に地球上での経験は、とても面白いものなのだそうです。
 三次元という空間で、肉体を持って、感情を持つ、ということが大きいようで、
 そこでおいしいものを食べたり動き回ったり、
 楽しんだり悲しんだり、という経験はなかなかできないことなのだ、と。

 しかし、そういう波動の存在である我々も
 いずれは高い波動に還っていく。
 というか、そちらの方が本来の姿なので、アセンションする方が楽なのだ、と。
 そして、個々の魂がアセンションするタイミングは
 自分の魂がベストな時期を決めているのだそうです
 (全体として、この時期がやりやすい、などはあるみたいで、それが2020年などだそうですが)
 
 とはいえ、その時期は自分では分からない。
 (そういう能力があって、知っている人も少数いるかもしれないが)
 でも分からなくても、いずれの生かでするアセンションのための準備として、
 魂の浄化というか、思い込み、重たさを外していくことは、
 魂にとってもいいことだし、自分も生き方が楽になるのだそうです。
 
 ちなみに私は個人的に聞いた情報では、
 私自身はこの生でアセンションするかどうか、自分の魂はまだ決めていないらしい…。
 しないとも決めてないみたいなので、これからの生き方次第ということですね。
 まあ自分としてはどちらでもいいのだが、
 どちらにせよ自分が楽に自由になれる方がいいなあ、と思って
 日々鍛錬訓練はしております。

 ちなみに、ソクラテスの話を聞いたとき、
 私はこのアセンションする、ということも
 単なる変容の段階なのではないか、と思いました。

 成長するとかしないとか考えてしまうと、
 え、今回(2020年)に自分アセンションできないの?とか焦ってしまう人もいるかもしれないが、
 変化のタイミングに過ぎない、いつかは来る、と思えれば、
 そのタイミングを待つのみ、となれるんじゃないか…
 と私は思います。

 …ちょっといつもと違う雰囲気の話になってしまいましたけど、
 今回はこの辺で。

「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 」(続き)マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平

「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 」(続き)マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平

続きです。ハートさん、メイソンさんは社会運動が必要、
という点で共通点があるかなと感じました。

マイケル・ハートさん(政治哲学者)>
 彼は、アントニオ・ネグリさんと共著で「<帝国>」という本を書いておられる。
 グローバル化で、新たな「帝国」が生まれつつある、とし、
 その帝国に対抗する民主主義世界をどう作っていくべきか、ということを書いているそうです。

 今回は、彼が民主主義の形として評価する、
 新しいタイプの社会運動や、資源を「コモン」として共同管理する仕組み、
 などの話を中心に議論が進んでいました

 〇現在の資本主義、民主主義の問題
  最初に、二人は現在の資本主義の格差問題について語っている。
  一般には、今の格差は1980年代の新自由主義が行き過ぎたせいで、
  そのためにケインズのような、国家が市場に介入するような政策が取られてきた。
  (日本でも金融緩和政策や金利を下げたり、などが行われている)
  
  しかしハートさんによれば、左派的な政策(企業への増税などによる所得再配分
  はうまくいかないし大衆に支持もされない、と。
  理由としては
  ・福祉国家的な政策は企業の活力を損なう
  ・グローバル化で安価な労働力が海外にあるので、労組の力が弱い(労働条件が良くなくてもいい)
  ・福祉への国家の介入は、国家が個人の生活に介入することにもなるし、
   民間ではなく国に任せることは非効率になることが多い
   →大衆がこれを支持しない
  
  かといって右派的に競争を促進したら、
  格差がより拡大するだけなので、どちらもどちらだよね…という話でした。

  もう一つ二人が議論していた資本主義の問題は
  「資本主義が進むと、個人の能力が無駄な仕事に費やされる」ということ。

  これはもともとマルクスが指摘していたことで
  マルクスは「資本主義生産様式とは、生産力を上昇「させていかねばならない」システム」
  つまり成長がマスト命題になってしまって、とにかく生産しろ、となる。
  すると、成長生産のために、個人が無駄な仕事を延々と行う事態も起きてしまう…

  ハートさんの主張では
  「経済システムが果たすべき責任とは、
   生産力を増やし、人々にまともな生活を提供するだけではなく、
   人々の能力を十分に活用すること」で、今の資本主義はそれはなってない、と。

  …これは確かにそうだなと思います。
  仕事って、上司が言うから形式だけやっておく、とか
  無駄だと分かっているけど予算消化のためにやる、みたいな仕事もけっこうある…

  こうしたことを薄々気づいて不満を抱く人たちが、社会運動を起こしている、と彼は指摘する。
  
  一方、経済面ではそのような不満を持つ人が多いが、
  政治の世界ではトランプ氏のような右派ポピュリズム、もしくは独裁的なリーダーが支持される現象も起きている。
  これについてハートさんは、
  ・政治の機能不全…右派も左派も足の引っ張り合いで、建設的な議論ができていない
  ・現在の政治に失望した人たちの「ノスタルジー
  だと分析している。
  政治がうまくいかないからこそ、昔の強いアメリカ、などに感情的に引きずられてしまっている、と。

 〇新しい社会運動
  ハートさんは、政治の機能不全が起きている中、人々は新しいリーダーや政党を求めているが、
  それは今までのような、カリスマのある一人のリーダーが引っ張るようなものではなくて、
  民衆と互いに交流しあって作られていくような組織やリーダーでないとうまくいかないのではないか、 
  と述べている

  彼が好例として挙げているのがアメリカのサンダース現象で
  元々これは「オキュパイ運動(富裕層の利益独占に反対する人々が、富裕層の象徴であるウォール街を占拠した社会運動)」から始まったそうなのですが
  サンダース氏は、こうした社会運動をうまく取り入れて、組織を作っていったそうです

  たとえばサンダースのある演説の時、
  黒人の方が勝手に壇上に登り、黒人差別反対の演説を始めてしまったそうなのですが、
  サンダース氏は彼らを排除することなく話を聞いた
  当時彼はまだ人種差別問題には詳しくなかったものの、
  彼らの主張を学び、自分の政策に新たに取り入れた

  これはサンダースがすごいからそうなったのではなく、
  むしろ彼は凡庸だが、大衆から学ぶことでリーダーになれたのだ、と。

  ハート氏は、このような、リーダーと社会運動が学びあう形で作られていく政党が
  社会を変えていくはずだ、と述べる。

  斎藤さんはこれに対して、日本においてはそのような社会運動は起きにくいだろう、と分析する。  
  サンダース現象も、サンダースがすごいから成功したんだという見方がなされる。
  この理由として
  ・日本では、民主主義、というと選挙政治、政党政治というイメージ
  ・社会運動はむしろマイナスのイメージ
  ・社会運動で政策を変えた、という例がほとんどない(例外として「年越し派遣村」運動は成功したという評価)
  ・日本では、労組が産業ごとではなく企業ごとなので、
   社会を変えるにはみんなで連帯して社会運動するよりも、自分の企業と国に働きかける方が効果的だった
  しかし、これからは、社会運動から切り離された政党主義、選挙主義的な政治では、
  社会は変えられないのではないか、とも述べている

  …うーん、でもこの辺は理想的過ぎかなあと思いました…
  現にサンダース現象はあったが、結局トランプ氏が当選しているわけで…

  たぶん社会運動が既存の権力に勝つ、てのはよっぽどのパワーが必要で
  大衆のほとんどがそこに向かう、というくらいの勢いが必要なのだろう
  (1960年代の運動にはそれがあったのだろう)が、
  社会は二分化してしまって、
  運動で変えられる!と信じている人もいる一方で、
  それよりも権力者にこびた方がいい、と無力感を感じている人もいるのかもしれない。
  それが今のアメリカ社会の分断なのかな、と感じます
 
 〇社会の民主化(「コモン」の概念)
  ハートさんは、電力や水、土地など、みんなが共有する財産(これを「コモン」と呼ぶそうです)を
  民主的に共同管理するしくみも提唱している
  国や私有者ではなく、使う人全員が同じ権利を持ち、管理方法を決めていくやり方。

  この「コモン」に似た概念をマルクスも持っていたそうです
  これは斎藤さんの研究にもあるそうなんですが
  マルクスは晩年、「社会的協働」「地球(環境)」「生産手段(テクノロジー)」を
  みんなで共有すべき大事な資産、という視点を持っていた、と。

  しかし、資本主義はこれらを共有物、とは見なさず、
  利潤を奪い取れる資源としてみなし、使い尽くせるだけ使おうとする。
  そのような資本主義には持続可能性は無い、とマルクスは批判し、
  これら「コモン」を持続可能に管理する仕組み、を提唱していたのだそうです

  テクノロジーは環境を破壊するという意見もあるが、 
  ハートさんは、むしろ地球などのコモンを維持するための手段として、テクノロジーは使われるべきだ、と。
  これもマルクスの思想と同じなのだそう
  
 〇非物質的労働
  それから、ハートさんは著書の中で「非物質労働が世の中を変える」と書いているそうです
  これもマルクスの主張と似ていて、
  マルクスは労働形態の変化が社会を変えた、という分析をしているらしい 
  工場労働が主流になると、生活スタイルや家族の在り方など、社会全体も工業化した、と。

  これに対し、ハートさんの主張する「非物質労働」とは
  ・感情労働(サービス、笑顔)が商品化した
  ・工場がロボットやコンピューターなどで管理化された

  これにより、生産は人々の個人の能力や実力(サービスする力)に依存するようになったのに、
  資本家がこれらを管理しようとすればするほど、画一化されて儲けが出なくなる。
  だからそういう個人の能力を盾にして資本家に対抗すればいい、
  
  …としているそうですが
  斎藤さんはこれに対し、
  いやむしろ、サービスすらもコンピューターでアルゴリズムになって、
  生産者に搾取、独占されているのが現状ではないか、と指摘する。
  
  ハートさんはそれに同意して、
  「だからこそ、我々はアルゴリズムを拒否するのではなく、
   アルゴリズムの管理権を求める戦いをすべき」と述べる。
  さらに
  「これは一人ではなく、みんな一緒にやることが大事だ」
  なぜなら、アルゴリズム化される知識もみんなで共有管理すれば、
  より豊かな社会が実現できるから、と話していました
  ただこの共有も、みんなからの押し付けではなく、自発的にできるといい、とも述べていました

 〇ベーシックインカム
  ベーシックインカムについての議論もありました 
  収入に関係なく、生活に心配ないお金を国民全員に国が支給する仕組み、ですが
  基本的にハートさんは賛成、斎藤さんは反対。

  ハートさんは、あらゆる人が好きなものを買えて、
  お金の為に劣悪な仕事をしなくても済むようになればいい、
  貨幣も「コモン」共有財産と考えていけば、それで社会を変えていける、と主張する。

  一方斎藤さんは、マルクス的な考え方で「貨幣は人を支配する」
  お金を渡したら、人はお金に執着してしまってため込んでしまう、だから現物支給の方がいい、と。
  それから、国がベーシックインカムを配るからもういいでしょ、と、
  福祉などの国家サービスが減らされて、
  福祉とか教育、医療など本当に必要なものが逆に競争原理にさらされるのではないか、という考え方でした。

  どちらがいいとか悪いの結論は出ないのですが、
  ハートさんは、ヘリコプターマネーも容認している、
  みんなが買いたいものを買いたいときに買える、という状況を作ることで
  人々の考え方も変わっていって、
  貨幣に依存している今の社会そのものが変わっていくんじゃないか、ということも話していて
  斎藤さんもそういう考え方もあるかもしれないですね、という話になっていました
  
  最後に、社会運動の在り方について再び話が戻っていて、
  社会運動が政治を育て、政治は社会運動から政策を学ぶ、という在り方が望ましい、
  そのためにそういう運動ができる市民を育てていくこと、
  そのための場を作っていかねばならない、という主張で締めくくられていました

 …個人的には、基本的に理想主義的な話かなあ…と思いました。
  社会運動もコモンの概念もいいなあと思うのだけど、
  現状として富裕層が力を持ちすぎていて、運動や下からの民主化では限界があるのかな、と。
  ネット産業での情報や富の搾取については、やっぱり国など、巨大企業に対抗できる権力が音頭を取って
  規制していくべきだろう、と思います。
  ベーシックインカムも、案としては素晴らしいと思うのだが、財源が問題よね…
  
<ポール・メイソンさん(経済ジャーナリスト)>
 「ポストキャピタリズム」という本で、資本主義の終わりが来ることを予言し、
 その後の世界について書いておられる方。
 今回は、ポストキャピタリズムへの展望と、それを阻むものは何か、その対抗策は、
 というような話がなされていました

 〇ポストキャピタリズムとは
  最初に、彼は第一部のハートさんと同じく、現代の資本主義の問題点をあげている。
  2008年のリーマンショック新自由主義の問題点があらわになり、
  その結果左派的な政策(国家の市場介入など)が取られているが、うまくいっていない、と。
  
  彼はこのリーマンショックの後の話を、「ゴンドラチェフの波」という理論で分析しているそうです
  これは景気循環を示す波で、経済学で見かけるものです。
  この波に従えば、今までの資本主義の場合、新しい産業が生まれたら景気は回復するはずだが、
  情報テクノロジーができた後はそうはなっていない、と。

  そして彼によれば「情報テクノロジーによる経済は、資本主義と共存できない」と述べる。
  それなのに、今までの資本主義のように国家の介入政策を行うために、
  死に体の資本主義が延命させられていて、そのためにこの不況が長引いているのだ、と。
 
  そして、「情報テクノロジー経済が資本主義を停止させる」理由として4つをあげています。
  1 限界費用(新しいものを作るときにかかる追加費用)がゼロの社会になっている
   情報産業では、無料で簡単にデータがコピーできる。
   また写真印刷技術、3Dプリンターの普及などで、消費者が自分でコピーすることも可能になった。
   これが進めば限界費用ゼロになり、お金を払わなくてもモノがある「潤沢な社会」になる
  
  2 機械化により労働と趣味の境目がなくなる、知識の共有化で生産の独占がなくなる
   機械化、自動化が進むと、人間の仕事が減り、
   余った時間を無償労働ウィキペディアを書くとか)に費やす人が増え、
   労働と趣味の境目がなくなる
   また、ネットなどで無償有償労働の知識がみんなに共有され、そこから新しいものが生まれるなど、
   社会的協働による生産が増えてくると、
   生産者が利益や権利を独占する、ということが無くなってくる

  3 情報ネットワークの正の外部性効果
   (「正の外部性効果」とは、たくさんの人がネットを使うことで、よりたくさんの情報がどんどん集まって、
    それと共に、情報による生産がどんどん増えて…という効果)
    を誰が所有するのか、という議論が、GAFAのような企業を駆逐する
   ネットでの無償有償労働の知識が共有されて、その参加者がどんどん増えていくことで、
   よりいっそう社会的協働による生産が増えていくと、
   こういう活動で生まれたアイデアやサービスは誰のものか、という議論になる
   その議論によって、今まではGAFAみたいなプラットフォームを提供する企業が独占、搾取してたね、
   ということが明らかになり、それを正そうという動きができる

  4 情報の民主化が促進されると、情報の私的独占が否定される
   ネット上の有償無償労働のような、社会的な共同活動が莫大な生産を生むようになり
   それが従来の資本主義の生産を上回るようになれば、
   情報の私的独占はけしからん、という話になってくる

  つまり、企業の利潤というものがなくなったり、労働の定義が変わったり、生産や情報の独占が否定される、
  という事態がおきるはずだ、と。
  もしこれがうまくいけば、
  ・無償、追加費用の要らない生産で、必要なものがただで手に入るようになる
  ・すると、義務的な労働から人々が解放され、無償だが有意義な仕事に時間を費やすことができる
  という理想的な社会が実現できる、と。

  メイソンさんは、これにより不良債権も処理できるはず、と述べる。
  というのは、今は公的債務(国の借金など)は資本主義の延命につぎ込まれていて、
  そのお金は金融機関を潤すだけで、
  多くの人は延命された資本主義のもとで、無駄な低賃金労働を強いられているだけである、と。
  もし資本主義を変える勇気があれば、この公的債務をつぎ込む必要が無くなり、
  みんなが豊かな社会を実現できる、と。

 〇ポストキャピタリズムへの抵抗
  しかしながら、このようなバラ色の未来にはなっていない。
  その理由として、ポストキャピタリズムに抵抗する動きがある、とし、その4つをあげている
  1 GAFAなどの大企業による市場の独占(←限界費用ゼロ社会への抵抗)
   市場自体を大企業が独占することで、限界費用がたとえゼロで生産できたとしても、
   価格を下げずに独占取引をして、自分たちだけで儲けている
  
  2 ブルジット・ジョブ(めちゃんこくだらない仕事)の増加(←機械化による労働の解放への抵抗)
   機械化で生産効率が上がって、人の仕事が奪われ、
   人間には低賃金のくだらない仕事が残り、そこに低所得層が殺到する事態になっている
 
  3 プラットフォーム資本主義社会(←情報ネットワークの正の外部性効果への抵抗)
   大企業が、情報ネットワークのプラットフォーム自体を独占することで、
   外部効果による利益も全部大企業で独占してしまう

  4 情報の独占(←情報の民主化への抵抗)
   社会的協働活動により得られるアイデア、サービスも、大企業が独占し公開しない

  これらの原因として、マルクスも指摘していた
  「資本主義が生産を駆動する」という仕組みがある
  儲けなきゃいけないから、巨大企業がお金を搾取する方向に行ってしまう…
 
  これへの対抗策として、メイソンさんは、
  「租税回避できるシステムを無くす」「独占に対し規制をかける」
  つまり巨大企業を規制せよ、というシンプルな提案をしている。
  
  ただ、斎藤さんは
  現実的には、リベラルや左派でさえそのような提案をしていない、
  それだけではなく、今は資本者が強く、労働者の力は弱いため、変えることは無理なのではないか、
  と反論する。

  それに対して、メイソンさんは、左派もリベラルも、
  現状の資本主義システムが根本的に壊れていることが分かっていないから変えようとしないのだ、と。
  現状を理解して、それを立て直すニューディール政策的なものが必要だ、と述べていました

 〇労働の解放への抵抗
  斎藤さんは、先ほどの「ポストキャピタリズムへの抵抗」について、
  「3ブルジット・ジョブ」については
  労働者側からも抵抗があるのではないか、と指摘する

  機械化で仕事が無くなったとき、人々は労働から解放されたと思うのではなく、
  労働を奪われた、と思うのではないか、
  というのは、労働には「社交、自己実現、社会的承認」の役割もあるから、と。

  メイソンさんは、むしろ人々の労働観を変えるべきだ、と主張する
  実際は自己実現どころか、無駄な仕事が増えているので、
  むしろ仕事以外の生活の重要性を人々に訴え、そちらを充実させることだ、と。
  1日6時間、週休3日になったとき、何をするか、ということですね。

  …ここは私も感じているところでした。
  以前読んだロバート・スキデルスキーさん(ケインズ研究者)の本でも指摘されていましたが
  (「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」ロバート・スキデルスキー、エドワード・スキデルスキー - びぼうぶろぐ。

  いくらテクノロジーが進んでもケインズの言うような「週15時間労働」生活が進んでいないのは
  みんな「余暇」は休息としか思えていなくて、芸術とか創作や勉強に使おうという発想はないからかな、と…
  なぜそうなるかというと、私は無償仕事に対する評価が低いからじゃないか、と思います。
  ボランティアとか趣味とか、ネット上のブログとかインスタとかウィキとかが、何らかの手段で評価されれば
  そっちに力を注ぐ人も増えるんじゃないかなあと思うのですが…

 〇情報の民主化は本当に進んでいるか
  それから斎藤さんは「4情報の民主化」について
  今のネットの状況を見ていると、むしろ反民主主義傾向にあるのではないか、
  本当に情報の民主化は進むのか、と尋ねている
  
  メイソンさんは、2部でのガブリエルさんと同じく相対主義ポスト真実の存在が
  民主主義への抵抗になっている、と述べる。
  ガブリエルさんはSNSへの投稿内容をチェックするようなシステムが必要、と述べていましたが
  メイソンさんは「ネットの匿名性を止めるべき」とこれまた少々過激な意見…
  「民主主義では匿名であることは許されない」のだそうです。

  それから、データに関する権利、
  アルゴリズムについて、どんな情報がいつ誰から集められて、どのように利用されているか、
  ということを知る権利が必要で、
  情報の非対称性を無くすべきだと述べていました

  斎藤さんは「今やプラットフォームの独占が進みすぎ、独占に抵抗するのは無理がある…」
  メイソンさんも
  「無意識や非合理的思考の裏をかくメカニズムの研究も進んでいて、意思決定も操作させられている」
  としていますが、
  だからこそ、データを人々に取り戻し、民主的に管理したり、取り消す権利が必要だ、としていました

  …近年、EUではデータの個人による管理権を保護するような法律ができていますね…
  ただ最近はデータが多すぎて、
  個人で管理したり把握するのがめんどくさい、だからもう任せちゃえ、という人も多いのかなと思います。
  なんかそういうものを管理するツールみたいなものが開発されるといいのですけど。
  それから、過去の情報を消したり変えたりする権利、
  過去の情報を追われない権利(若気の至り的な行為の更生が許される権利)なども欲しいなと思います。

 〇AI、シンギュラリティについて
  ガブリエルさんの時にもありましたが、ここでもAIについての議論がありました
  テクノロジーがポストキャピタリズムを実現させる、という楽観的な意見もあるが、
  メイソンさんは「それは「資本にとっての」ユートピア
  大企業たちにとって有利になるだけ、と話しています。

  むしろ、人間の主体性をAIより上に置くべきだ、と論じる。
  
  メイソンさんは「私はマルクスヒューマニズムを支持する」と述べていますが
  マルクスは「人間とは、技術の進歩を通して自由になる傾向がある」
  と書いている、
  だから、技術とは、人間が自由になるために使われるべきで、
  そうして得られた自由をどう使うか考えるのが人間の役割だ、と。
  
  ただマルクスの言葉は「技術が人間の未来を作る」という風にも読めて「技術決定論」となり
  これがソ連では、「国を挙げてとにかく技術を開発せよ」となってしまった。
 
  メイソンさんによると、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモ・デウス」という本も
  同じような技術決定論的な意見に見えるのだそうです  
  ハラリ氏は、AIで人間の在り方が変わり、最終的にはアルゴリズムが人間にとって代わる、
  みたいな見方をしているが、
  「この考え方が流行るのは危険だ」とメイソンさんは言う。
  ハラリ氏の意見は、「技術を前にして人がすでに無力になっている」というような宿命論に見えるそうです

  そうではなく、自分たちの未来は自分で変える、という主体性が必要だ、と。
  ハラリ氏よりも、ルチアーノ・フロリディ氏の
  「我々は情報生物になりつつあるが、それでも自由意志を持つ。
   ただ、アウェイで戦っているサッカーのようなもの」という言葉の方が示唆的、と述べる

  メイソンさんは、我々が守るべきは
  「人権」「人間として善き生活を持つ権利」「人間の自由」で、
  アルゴリズムはそれを守るための道具に過ぎない、という。

  しかし現実には、中国などのような「アルゴリズムを用いた管理社会」や
  白人至上主義者による差別、など、人権に反するものが存在している。

  彼はこれへの対抗として、市民からの自発的なポストキャピタリズム運動が必要だ、という。
  といっても、現状の資本主義を壊すのではなく、今の資本主義と並行するものでいい、と。
  自由への道を模索するような個人の行為があって、それらがネットワーク化して、
  資本主義を変えていくような、そういう運動をしていくこと。
 
  そのために、アルゴリズムの支配を拒否し、
  情報の非対称性、アルゴリズムの管理権をとりもどすことが大事だ、と述べている

 〇環境問題について
  斎藤さんは、環境問題についても議論している
  彼の意見では、ポストキャピタリズムも環境問題について考えねばならない、
  というよりポストキャピタリズムこそが環境問題解決の契機になるのではないか、と。

  というのは、環境問題解決のためには
  今までの利潤追求の大量生産、大量消費の生活を見直すことが大事で、
  それは利潤追求を駆動力とする資本主義を見直すことと同義ではないか、というご意見。

  そこでメイソンさんが言及しているのが、民主党のオカシオコルテス議員が言及する
  「グリーンニューディール政策
  これは、平たく言うと
   エコ(省資源、低環境負荷)の産業やインフラを育てつつ、
   個人の権利(職業や収入、社会保障など)も守っていく左派的な政策、で、
  メイソンさんは、資源の再分配、インフラ構築と環境問題解決との融合だ、
  としてこの政策を支持している

  ただ問題は財源らしいです。MMT理論が財源らしいですが、
  メイソンさん自身は「あれは金融のマジック」と否定的…

  斎藤さん自身は、こういう政策は社会主義運動でやるべき、というご意見でした
  資本主義の枠組みでやろうとすると、大企業など既得権を持つ人から反対されるか、
  あるいは一国の搾取が進むだけだ、と。
  (たとえば、アメリカのバイオマスソーラーパネル建設などのために発展途上国の環境が犠牲になるなど)
  
  一方、メイソンさんは国家の介入も容認するご意見でした。
  環境問題の前に、AIや少数の人間に支配が集中しているような仕組みを変える必要があり、
  それを変えるには、現段階として国のサポートが必要だ、と。
  現状の資本主義や市場は残しつつ、
  自発的なエコシステムの発生があれば、国はそれをサポートし、ルール設定する
  市場を独占するような大企業には規制をかける
  社会的協働のような仕事、非営利だけど大切な産業などは国が守る、など…

  現存の国家の中でもそのような国家介入型資本主義を考える国もあり
  例えばイギリスの労働党では、協同組合タイプの非営利事業を受け入れている
  イタリアとかスペインには、協同組合型の企業の組合とか銀行があるんですが、 
  (「雇用なしで生きる」工藤律子 - びぼうぶろぐ。

  そういうものを目指しているようです
 
  また、メイソンさんの案では非市場経済省というのをつくる、というのはどうか、と。
  非市場型の経済活動(研究やイノベーションなど)を成長させるような省なのだそうだ

  斎藤さんは、これは「サイバーケインズ主義」じゃないか、というが
  要はバランスの問題で、
  個人だけでは無理なところは国家がやり、
  でも国家が独裁的にならないよう、社会運動側が監視していく、
  というやり方がいいかもしれない、という話になっていました

  …私自身もハートさんの社会運動よりも、メイソンさんの「国の緩やかな関与」が一番現実的じゃないか、
  という気がします。
  資本主義はしぶとい。どんなふうに形を変えても生き残る気がする。
  でも、工藤律子さんの本にあるような、資本主義っぽいけど営利を目的としていない、みたいな
  協同組合型のような企業が増えていく、
  そんな社会だったら少し想像できる気がする。
  協同組合の形は、ブロックチェーンシステムとも親和性がありますし、
  今後民間からそういう動きが出てきたら面白いかなと感じました。
 
  最後に、週15時間労働社会が来る、と予言していたケインズの話もありました
  ケインズ自身は芸術などにも造詣があり(たしか奥さんはバレリーナですね)
  そういう、文化的な活動も評価し支援する方でした。
  斎藤さんも、アートもそうだし、医療や介護、家庭でのケアなど、
  資本主義の下ではあんまり利潤が増えない、とされる活動の価値を高める契機になるかもしれない、
  そういう社会になってほしい、という希望を述べていました

  メイソンさんは、ケインズは労働から解放される社会に言及はしたが、予言まで踏み込むことはできなかった、
  AIに任せることなく、今芽生えつつあるポストキャピタリズム
  自分たちの人間性を守るために、自分たちで育てていくべきだ、という話をしていました

 〇まとめ
  最後に斎藤さんがまとめの文章を書いていました
  ハートさんとの対談の後に、ハートさんは
  「自由、平等、連帯、民主主義、という言葉が持つ可能性を問い続けなければならない」
  とおっしゃっていたそうです。
  そして、今回対談した方々もみんなこれら4つに価値を置くという意味では共通している。
  現在起きている、資本主義の矛盾や民主主義の危機に対処していくには、
  これら4つをどう実現するかを徹底的に考えていかねばならない、
  と斎藤さんは述べる。

  これらを解決することは簡単ではなく、それゆえに
  我々はAIなどの最新技術に頼ったり、権威主義的な政治家に頼ったりしたくなっている。
  しかし、今の危機が起きたのは
  一部のエリートや資本がテクノロジーを使って富を独占し、大衆をある意味管理してきたこと、
  それから独裁的な政治家が差別や分断を助長してきたためだ、
  という事実を忘れてはならない、と。

  だから、残された解決方法は、個人個人からの改革、運動しかない。
  「ニヒリズムを捨てて、民主的な決定を行う集団的能力を育む必要がある」
  と述べています。

  世界の知識人はその倫理的責任を引き受け始めている、
  その姿勢が日本に伝わり、絶望が希望に変わっていくように…という言葉で終わっていました。


 斎藤さんはちょっとロマンティシズムが入っているかなあ…と思うのだけど、
 未来をみんなで考えよう、という心意気はいいなと感じました。
 個人的にはメイソンさんがおっしゃるように、
 今の資本主義を続けつつ、でも民間から少しずつ資本社会が崩れていって
 国がそれを後からサポートして、
 巨大企業を徐々に徐々に締め出して…
 という在り方が一番現実的かなあと思いました。

 というか、だんだんそうなっていくのではないでしょうか。
 GSI投資みたいな、社会貢献する企業への評価も高まっていますし、
 今のままでは、巨大企業も頭打ちなのではないか、と。
 実際、新聞のある記事で、市場の巨大IT企業の独占が続いたせいで
 イノベーションが起きなくなってきている、という言葉がありました。
 
 大企業の方々には、そんなに自分だけもうけてどうするの?と聞いてみたいですねえ…
 だってフォードじゃないですが、
 労働者にお金を与えて、自分のところの製品をたくさんの人に使ってもらう方が
 よっぽど自分もみんなも豊かになるんじゃないか、と…
 大企業とか国には、短期的な視点だけではなく、
 長期的な視点になって、みんなと自分が豊かになるには何がベストか、
 を考えてほしいと思う。

 そして、今貧しい人たちも、もう自分たちは這い上がれないとあきらめるんじゃなくて、
 できるところからやることかな、と思います
 例えば巨大企業の富や情報の独占にノー、というのもいいだろうし
 国に意見を言うのもいい(日本の場合、官僚に行った方が動きそうな気がする)
 新しい平等な生産の仕組みを作るような民間の動きがあれば、
 そういう企業を応援するとか、
 やり方はなんでもあるのかなと思います。

 最近若者が環境問題に対して運動する動きも出ています。
 そういう動きをつぶさないよう、温かく支援するのも一つだし、
 子供同士の対話を促すのも小さな一歩だろう、と思います。

 私自身もできるところから始めようと思いました。
 未来には希望を持っていきたいものです。

 色々と考えさせられました。
 というわけで今回はこの辺で。

「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 」マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平

「資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐 」マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン、斎藤幸平

去年夏くらいから気になっていたんですが、年末やっと読めた本です。
マルクス研究者の斎藤幸平さんが、3人の著名人にインタビューというか討論する形式の本になっています。
第一部はハートさん、第二部はガブリエルさん、第3部はメイソンさんです。

斎藤さんは以前「ニッポンのジレンマ」という若者が討論する番組に出ておられた、
1987年生まれの研究者です。
彼は「資本論」で有名なマルクスの研究者なんですが、
この資本主義の時代に敢えてマルクス研究、という視点が面白い!と個人的には思っていました。
あとガブリエルさんは「欲望の民主主義」(「欲望の資本主義2017」のスピンオフ的な番組)以来気になっていて
彼の考え方は好きだったので、
どんな話になるのかなと思って読んでみました。

斎藤さんがあとがきでまとめたところによると
4人とも
「自由、平等、連帯、民主主義」を目指している点では一致している、とのことです。
たしかにそのとおりで、
全体として、今の資本主義の矛盾、民主主義の問題を乗り越えよう、
というメッセージが感じられた本でした。
ただ現実性はどうかというのはあって、
「学者が理想を語っているだけ」と言われればそうかも…というところもあるけど。

書評を読むと、斎藤さんが
インタビュアーというより、自分の意見もどんどん言って積極的に議論していることに対し
賛否両論があるようなのですが、
私自身は斎藤さんの意見で話が膨らんだり、展開していったり、…
という化学反応が読んでいて面白いなと感じたな。

というわけで感想を交えつつ内容を書いてみたいと思います。
本と順番が違いますが、
ガブリエルさんの話が印象に残ったのと、
ハートさんとメイソンさんの話がかぶっている気がするので
まずはガブリエルさんのお話から。

マルクス・ガブリエルさん(哲学者)>
 「世界はなぜ存在しないのか」などの本で、
 「新実在論」という新しい哲学を提唱されている方。
 「新実在論」は、唯一絶対の世界はないんだよ、いろんな世界があるんだよ、という主張で
 なんでもありの「相対主義」と混同されがちなのですが、
 今回はそこの違いを明確にしていて、相対主義はダメだ、という考えを強く示しておられました

 個人的には、彼の思想は、年末読んだ河野哲也さんの哲学と共通点がたくさんあるな~と感じた。
 
 〇哲学の役割について
  最初に彼は、なぜ今こそ哲学なのか?について述べている

  彼は2つほど哲学の役割を述べていて、
  ・物事の根本を問い直す
   現代のいろんな問題を考えていくとき、そもそも問題に対する概念が間違っていることが多い。
   そこを問い直していくことで、社会を変えていくことができる、と。
  ・いろんな分野を統括できる 
   現代の諸問題は、多分野の人たちで協力して考えていくべきだが、
   哲学はすべての学問をメタで捉えるので、それが可能である、と。

  今いろんな社会問題が出てきていて、
  問題の根本のところで哲学が必要とされている、ということらしい。
  彼はよくメディアに出たり、自然科学系の方とも積極的に対談していますが、
  それぞれの分野の方々の根本を問い直したい、という意図があるんでしょうね…

 〇相対主義の問題 
  次に「ポスト真実」「相対主義」の何が間違っているのか、の議論でした
  
  ちなみに辞書によると
  ポスト真実とは
  「世論を形成する際に、客観的な事実よりも、
   むしろ感情や個人的信条へのアピールの方がより影響力があるような状況」
  つまり、報道よりもフェイクニュースを信じてしまう、
  客観的事実よりも自分の信じたことが事実だ、ということ

  相対主義とは、
  「哲学で、人間の認識や評価はすべて相対的であるとし、真理の絶対的な妥当性を認めない立場。」
  要するに、見方によってはどれも真実だよね、としてしまう「なんでもあり」の考え方です。

  みんなの見方、立場を認め合う、という寛容的な立場にも見えるのですけど、
  ガブリエルさんは 
  道徳的に間違っていることは認めてはいけない、という主張をしています。

  彼は「ポスト真実」的な考え方の問題点として「自明の事実を否定すること」
  「相対主義」の問題点として「異質な他者の非人間化」をあげていました。

  まず、「自明の事実の否認」とは、真実すらも間違い?と疑ってしまうこと。
  たとえばホロコーストがあったのか、従軍慰安婦があったのか、と疑う歴史修正主義者がいるが
  ガブリエルさんは、
  「ホロコースト従軍慰安婦も「自明の事実」です」と。

  彼は、こういう、ポスト真実相対主義は、
  「事実に直面するのを避けるための言い訳に過ぎない」と切り捨てる。
  普遍的な道徳的価値観は、どの民族もどの時代も共通する。
  たとえば人権や民主主義は西洋の価値観だ、とも言われるが
  実際は古代中国やインドにも存在していた。そこに違いはない、と。
 
  そして、プーチン氏や金正恩のような指導者は、
  このような相対主義を利用して
  「私たちの国ではこういう価値観で、これが正しいのです、
   だからあなたたちの国の価値観で評価しないでください」というような主張をする
  自分たちの行いを正当化する口実にしている、と述べる

  斎藤さんは、フェイクニュースについても言及していたんですが
  これについてガブリエルさんは、
  「SNSは情報の喫煙、知的な害をもたらしている」として
  「タバコや有害なガソリンと同じく、今度はソーシャルメディアを規制する番です」と。
  SNSの投稿内容に規制をかけたり、
  ウィキペディアなどにもピアレビューをつけるべき、
  そういう決まりが作られるまでは情報を流すのを禁止すべき、という割と過激な?主張もされていました

  …現実的には無理そうですけどね…「表現の自由」と言われて反対にされそう。
  というか、そもそも規制する側に道徳があるのか、という問題もある。
  やはり、情報を見る側が、取捨選択する能力を磨くというよりほかないのか。

  次に、「異質な他者の非人間化」について、
  ガブリエルさんは「相対主義者は普遍性を拒絶し、異質な考えを持つ他者と自分とを分ける境界線を引いてしまう」と述べる。
  その結果、異質な他者は人間じゃない、とみなすようになってしまう、と。

  ちょっと哲学的な思想の話になりますが、
  彼によると、ポストモダン思想、と呼ばれるフーコーデリダなどや
  ポストモダンの先駆けとなったニーチェハイデガーの思想は
  最終的には「非人間化」なのだそうです
  (私の解釈でいうと、
   フーコーは社会の構造とか権力などが個人の内面を作る、という考え方をした人
   デリダ脱構築、二項対立的な考え方など、それまでの西洋哲学的な考え方を批判し、崩そうとした人
   ニーチェは「超人思想」弱さを乗り越え超人になっていく、みたいな考え方
   ハイデガーは「自分の命の有限さ」を理解し、責任と決断を持って生きることを提唱した人

   …いずれもいいことを言っているように思えるのだけど、
   個人の生き方の根拠に「人権」とか「倫理」を置いていない、
   (…フーコーは権力とか社会のせいにしているし、デリダは西洋哲学を崩しただけ、ニーチェは超人になれば倫理は無くてもいい、ハイデガーも決断の根拠に倫理を置いていない、…というような)
   という面をガブリエルさんは批判しているのだろう)
   
  そして、今アメリカなどでAIなど情報テクノロジーを使って、超人的な存在を作ろうとする試みも「非人間化」だと。

  しかし、ガブリエルさんは
  普遍的な倫理観、道徳観は絶対守るべきものだし
  倫理観、道徳観は生命があるからこそ持ち得るものだ、と。
  人間から離れた倫理観は存在しない、非人間化はそういう倫理観を捨てることになる、と述べる。

  具体的には、非人間化が進むと、排除とか暴力が正当化される、と彼は言う。
  たとえば、イスラエルパレスチナ人を排除していくのは
  相対主義のもとではイスラエルの主張が「それも真実だ」となり、容認されてしまう
  その真実のもとでは、パレスチナ人は非人間化され、彼らの苦しみは否定されてしまう…

  ガブリエルさんは、これに対して「この状態を放置してはいけない」と立ち向かうべきなのに、
  我々の多くは見て見ぬふりをしてしまう、と述べる。
  
  飢餓や地球温暖化など、社会問題は個人個人のことが原因だとなんとなくわかっていながら、  
  それを見ようとしないし、それを嘘だとする政治などの秩序を望む願望を暗に持っている、と。
  
  それはなぜかというと、この状況はまともじゃない、と認めることは、
  自分が非人間、とみなしている人の権利を認めることになり、
  そうなると自分の利益が減らされる、となり、そこに恐れを抱くからではないか、と。
  実際、みんなの権利を認め、それに対処しようとするとかなりの手間がかかってしまう。

  それを嫌がる人が多いので、
  トランプ氏やプーチン氏など、
  相対主義を利用する指導者が受け入れられてしまうのだ、と話していました

  …この辺はなるほど~と思いました。
  例えば、移民を排除する人たちは、
  移民が来ると自分たちの社会保障や仕事が減る、と思って排除しろとなるのでしょうね。
  でも実際は、移民に来ていただいて働いて、
  その国の社会に貢献してもらったり税金を払ってもらう方がよっぽど豊かになるのに、
  そういう思考方法ができなくなってしまう。
  たぶん、今の自分たちの苦しい状況を、誰かのせいにする方が楽だからなのだろう。
 
  斎藤さんは、とはいえ相対主義の考え方には功績もあるのではないか、と尋ねる。
  「近代普遍主義とは、実は白人男性の異性愛者(キリスト教的価値観?)から見た価値観ではないのか」
  ということを暴いた、と。
  ガブリエルさんはこれに対して、確かにそういう面もあるが
  基本的に独裁を容認するだけのニーチェハイデガーの思想、と述べている

  私自身はニーチェハイデガーについてはよくわからないが、
  彼によると、ニーチェヒトラーが気に入っていた哲学者で
  強い支配者のために「奴隷は存在しなければならない」とはっきり著書に書いているそうです
  また、ハイデガー反ユダヤ主義者でナチスにも入党していて 
  「ユダヤ人が人種主義と現代テクノロジーを作ったのだから、ホロコーストは自業自得」
  とも書いているそうです

  (それでもハイデガーはもともと人間中心主義者で
   「与えられた状況を受け入れ、自分で人生に責任を持って決断する」という考え方ですし、
   ガブリエルさんも共感していた時期もあったみたいです。
   ただハイデガーは戦争やナチス支持に全く後悔を見せなかった。
   反ユダヤ思想を明らかにした「黒ノート」というのも書き残していて、
   倫理的に欠陥がある人ではあったようだ)
  
 〇新実在論
  次にガブリエルさんの新実在論について、斎藤さんと議論していました
  
  新実在論は、構築主義を批判するところから始まっています。
  構築主義とは、辞書的には
   「事実や現実は人間関係の中でそのつど生成、変形されると考える立場」

  ここでは
  ・自然科学の領域のものは必然、変わらない、社会科学の領域のものは、偶然で歴史があり変わりうる
  ・社会的事実は、人間が作り出した幻覚
  ・社会的事実は、特定の社会的文化的歴史的状況により変化する
  …などという説明がされていました
 
  私の解釈で言うと、構築主義とは
  自然科学的な、人間の意識とは独立した唯一絶対の真実を含む世界(宇宙)などがどこかにあって、
  我々はそれを自分の意識などのフィルターで通して見て、解釈している。
  その解釈により出来上がったものを社会的事実としている、という考え方。

  ガブリエルさんは、別の本で現代の我々は「科学至上主義」である、というようなことを書いているのだが、
  それは、たぶん我々が、自然科学的な絶対的な世界(宇宙)、というものを真実の究極の姿、みたいな感じで見て
  そこに真実があると考えて、それを見つけようとする、
  つまり、科学的手法で得られる事実が、世界の「真実」全部だと思ってそれを探している。
  ということだろうと思う。
  
  しかし、彼はそれらすべてが違う、という。
  世の中はいろんな人の立場からの見方からなる「意味の場」がたくさんあって、
  それが網の目のように重なって存在している。
  それらを全部包括するような、絶対唯一の世界などない。
  「自然科学的事実」は「科学」の意味の場での事実でしかないし、
  このほかにも「政治」の意味の場、「芸術」の意味の場なども並行して存在していて、  
  科学的手法で得られる事実だけでは、世の中を知ることはできない、と。

  また、彼によれば、主観を抜きにした意味の場はない、
  人間の意識から離れて独立して存在する事実などはない、とする。
  そして、これらすべての事実については、
  それが存在する「意味の場」の規則に従えば、真か偽かを我々は判断できる、とも述べている

  彼はこういう世界観について
  「世界は存在しない」(全ての意味の場を包括するような、唯一絶対の世界などない)
  「ユニコーンは存在する」と表現する
  斎藤さんは「ユニコーンはCGでしょ?」というのですが
  「映画の場に入り込んでいるときは確かに存在しますよ」なのだそうです

  …科学で明らかにされること、が現実の世の中全てだ、
  逆に言うと、科学で証明できないことは現実じゃない、
  みたいな見方が現代の我々にはしみついていると思う。
  そうじゃないよ、世界はもっと豊かだよ、科学的な世界がすべてではない、と言われている気がしました。
  (目に見えない世界のことはどうなんだろう…
   ガブリエルさん自身は別の本で「占いはでたらめ」みたいなことを言っているが、
   例えば占いという意味の場での法則にしたがうものであれば、それは真実ということになるのだろうか)

  ただこの言い方だと、なんでもありの相対主義と変わらないのではないか?と思われがちだが

  「「すべてが存在すること」イコール「すべてが真実であること」ではない」
  と彼ははっきり述べている。
  
  彼によると、すべてが存在するよね、と認める意味は
  人々が自分の利害や関心に従って持っている「パースペクティブ
  (彼は自己中心指数、と呼んでいるらしいが)があることを明らかにすること、なのだそうです
  そういういろんなパースペクティブごとにいろんな「意味の場」があるわけです。
 
  そうすると、それらの意味の場同士で利害関係がぶつかりあうので、
  どれが真実なのか見極めていかねばならない、ということがわかる。

  じゃあその真偽の根拠は何に置くかというと、彼はいろんな言葉で述べているのですが、私の解釈では
  「自分の良心に従うこと」
  彼の言葉では「Imagine」他人の視線になって賛成できないことはすべきではない
  「理性的に考えること」と書いています。

  また、彼は法の支配、民主的な議論も大事だ、と述べている
  とはいえ、政治的なことは、すべてのことが自明になっているとは限らない。
  だから議論して、一つ一つ選択する。
  間違っていたら後で修正する、というプロセス、
  つまり民主主義、政党政治のプロセスをたどることだ、と彼は述べる

  このような熟議型民主主義を主張する人として、ハーバーマスの名前が挙げられていましたが
  ガブリエルさんによると、
  ハーバーマスは「議論するプロセスそのもの」が真理だと言っているが
  しかし熟議とは真理に近づくためのものにすぎない、と述べる。
  人類の中には、根本的にみんなが同意している倫理観、普遍的な倫理観がたしかに存在していて
  それを絶対的なものとして守らねばならない、と述べる。

  そして、このような議論や理性的な判断をみんなができるように、
  教育において哲学のトレーニングをすべきだ、と主張していました。
  
 〇AIについて
  AIに物事を判断させることの是非、についても議論がありました
  そもそもこれは斎藤さんが
  「人が現在、理性的に判断できないのはなぜなのか」という問いを出して、
  ガブリエルさんは
  「情報が与えられていないことと、
   理性的に考えるトレーニングができていないから」と答えている。
  ガブリエルさんは、人は情報があって適切にトレーニングされていれば、理性的に考えられるはずだ
  今の状況では、必要な情報が人々に与えられていないので、理性的な判断ができていないのだ、と。
 
  しかし斎藤さんは人間はそんなに強くない、と考える。
  「マルクスが指摘するように、我々は資本主義により駆動されてしまい、
   たとえば環境に悪いことでも、生産活動を優先させる判断をすることがある」
  というようなことを述べて
  「人間は、事実を否認して楽になりたいという誘惑に負けてしまうのではないか」と問いかけ
  「考えるよりも、むしろ人はAIに判断させてしまう流れになってしまうんじゃないか…」と述べている

  ガブリエルさんは、
  人間がAIに判断をゆだねることはありうるが、「AIは人間よりうまく判断できない」と述べる。
  彼によれば、思考や知性の前提として意識が必要で、
  意識は生物の進化の過程により生まれたものだから、と。
  つまり、生命なしには意識も判断も、その根拠となる倫理観も存在しない、という。
 
  さらに彼は、AIに判断させるのは「非常に危険なこと」だと述べる。
  AIにすべてを判断させてしまうと
  「アルゴリズム服従させられ」「精神なきサイバー独裁に乗っ取られてしまう」と。
  それも、誰かに支配されるのではなくて、
  自分自身でアルゴリズムを内面化して、自ら奴隷になっている、と。
  
  彼によると人間を外に追いやりAI化するのは、
  ホロコーストの時の「非人間化」と同じなのだそうです。
  「私たちを待っているのは、強制収容所です」という表現をしている。
  
  しかし、世の中は逆方向に行っている。
  哲学や倫理による省察は、文明の進歩に対して慎重さ、規制を多く生むので、
  自然科学からすると邪魔者、とみなされがちなのだそうです
  現段階ならまだAIにブレーキを掛けられる、
  しかし、このまま野放しにすれば監視社会になってしまう、と彼は警告する。

  …「精神なきサイバー独裁」という言葉は端的に彼の考え方を示している、と思いました。
  …以前ガブリエルさんがロボット研究者の石黒浩さんと対談されていたのですが、
 (NHKBS1「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル日本を行く~」 - びぼうぶろぐ。

  そのとき石黒さんが
  「人間をサルから人間に進化させたのがテクノロジーだから、
   人間はテクノロジーを進化させていく方向に行く。
   AIと人間はそのうち融合していく」と未来を予想していたのですが、
  ガブリエルさんはそれに反対でした。
  「人間は本質的に動物、倫理観は進化により生まれるものだ。
   AIはその倫理観をゆがめていく可能性がある」と。
  だからAIの進歩で人間の倫理観が変わってしまうことが心配だ、というご意見でした

  その話を見た時、AI開発に反対、に聞こえて、割と保守的な方だなあと驚いたんですが、
  AIが反対というより、人間の倫理観が置き去りにされることを危惧しているのですね。
  
  私の意見としては、AIの開発自体は別にいいかなと思う。
  人間の発想を豊かにしてくれるものとしては、面白いツールだと思うので。
  ただ、AIにゆだねるのではなく、AIに多様な意見を出してもらう、 
  そうして最終判断は人間がする、というのが理想的な形なのかなと思いました
 
 ○これからの哲学
  ガブリエルさんによると、新実在論は普遍的倫理観を守るもの。

  彼は、この普遍的倫理観は、私たちの誰もがすでに知っている、という。
  それを知るためには、「ソクラテスの無知へと進みなさい」と。
  自分の知っていることを忘れ、自分でない存在となり、他人の視点となり、
  そこから出発して賛成できるかどうか?で判断することだ、と。
  これはカントの思想にも通じるのだそうです

  (ただ、これは倫理に限るもので、  
   政治など知識や経験が必要なものは、無知から出発することはできない、
   だからこそ政党政治が大事だ、とも彼は述べているが)

  そして最後の方では、今こそ哲学が必要だ、
  こういう議論は、いろんな人によりいろんな場所で行われるべきである、と主張されていました。
 
  彼の心の叫びのような文章がありましたので、長いですが引用致します。
  「次のような状況を想像してください、
   ー人類は今、胸元に拳銃を突き付けられているような状態だ。
    「撃たないでくれ!」と叫び、最悪の事態を避けるために行動する選択肢もある。
    それなのに、「どうぞ撃ってください」と言っている。
    未来ではなく、終末を選ぼうとしているのは私たち自身なんだー

   実際、私たちがいる状況は、生死の選択、という分岐点にいるわけです。
   気候変動やテロなどの脅威に直面しているのですから。

   とりわけ今哲学教育をやらなければ、私たちは敗北します。
   私たちは、民主主義を破壊することになり、世界を覆う気候変動などの問題を解決できず、
   サイバー独裁が民主主義にとって代わるでしょう」

  これは今回彼の主張を強く示しているもので、私の心にも響きました。

  …彼の哲学は相対主義と何が違うんだ?とずっと思っていたのですが、
  「みんなが持っているはずの道徳、倫理観」にあるということが今回の本で明確に分かりました。
  もうすでに、我々の良心はその基準を知っている。
  スピリチュアルでも「自分の中にすでに答えはある」という言葉があります。
  自分の主観は、思っているよりも真実を分かっている。そう勇気づけられた気がしました。

  それから彼は対話、議論、民主的な話し合いが必要とも述べています。
  別の番組で「ヒトラーとも対話できる」と豪語していましたしね。
  私も、異質だなと思う人とほど、交流したり対話したり、というのはとても大事だと思っていて、
  そういう場がたくさんできればいい、と思います。

  ただ、今の世界を見ていると、
  対話したらわかりあえる、というのは少し楽観的なのかな、と思います…
  今の場合、ポスト真実で本当に信じることしか見ない人たち、
  対話すら拒否する人もいて、
  そういう人たちを対話に引き込むにはどうすればいいのか、と思ってしまう。
  対話しないと分かり合えないけど、まず対話の席についてもらえない、というのが悲しい。

  個人的には、世界はすでに二極化していて、
  ガブリエルさんみたいに、人間は根源のところに道徳があるはず、と信じている人もいれば、
  対話をしたがらない人も現実的にはいるのかな、と思います。 
  もう真実を見たくない、自分の信じるものしか見たくないとなっちゃって、そこから後戻りできない人もいるのかな、と…

  であれば、少しでも人間を信じられる側の人間を多くしていくこと、
  対話したくない人が変われるような環境を整えていくこと、が大事なのかなと感じる。
  そういう意味では、将来を背負う子供たちに、
  哲学教育、とまでかしこまったものではなくても、
  話し合いとか協力しあって解決策を考える、という経験、その良さを
  少しでも伝えていくことが、大人の義務なのかなと感じました。

  それから余談ですが、今回の議論とは少しずれるが、気になったことを2点ほどメモ。
  ・「感情」と「理性」についてのガブリエルさんの考え方
   これはラディカル左派のシャンタル・ムフと、ムフが批判したハーバーマスの話の中で出てきたもの
    (ムフはハーバーマスの熟議型民主主義を批判、
     怒りや悲しみなどの民衆の感情を重視した
     ハーバーマスのような理性的に熟議では、排外的な右派の台頭を許してしまう、と主張)
     (ムフさん、それって自分が排外的になってないか?と私は思うんだけど…)

   ガブリエルさんは「ムフは暴力を容認しているのと同じ、トランプと一緒」 
   そもそも、感情と理性を分けているのが間違いだ、と述べる
   感情の流れの中に理性がある、知性はすべて感情とつながっている、と話す。

   一方、ハーバーマスは感情や欲望を排した合理主義という意味で間違っている、と。
   ガブリエルさん自身は、感情も欲望も含んだ人間中心の合理主義を考えている、とも話していました

  …感情と理性はつながっている、という意見には強く共感しました。 
  というか、我々は感情で判断しつつ、理性で言い訳をつけているし、
  理性での言い訳がないと、感情に説得力が生まれず、相手を納得させられない。

  年末読んだ河野哲也さんの本に、「感情は相手との共感に必要」というようなことが書かれていたが、
  対話には感情も理性も必要だ、と私も思います。
  理性的な対話だけで、心を通い合わせられていなければ同意には至れない。
  一方で、感情同士のぶつかり合いだけで終われば、同意に至ることはできないのかな、と…

  ・ドイツにやってくる難民対策
   これは相対主義を許してしまう「恐れ」に絡めてのお話です。
   難民に対するドイツ国民の恐れは許されるのか?と。

   ガブリエルさん自身は、基本的に理性的な対処を提案している
   ドイツ国民が、難民の中に紛れ込む犯罪者を恐れるのは当然で、 
   それを防ぐには難民の入国審査の厳格化が必要だ、と。
   しかしだからといって難民を拒否するのではなく、
   助けてくれ、と言ってドイツに来た難民は保護され、政治的な権利も与えられるべき、とも述べる

   また、大きな視点で考えて、ドイツの政策によって
   彼らが難民にならざるを得ないような政治的状況が発生しているんだとしたら、
   そこも変えていくよう、市民も努力せねばならない、とも述べている。
   別に彼らはドイツが好きで来ているわけではないのだから、と。
    
   彼は基本的に、カント的なグローバルな民主主義を考えているそうです
   ドイツに限らず、いろんな人がいろんな場所で権利を持って暮らせる世界。
   それは国家主義と対立することもあるが、
   個人の自由、平等が優先されるべきだと述べていました

  …外国人が増えるという意味では日本にとっても他人事の話ではないが、
  この話を読んでいて思ったのは、
  我々が自動的に、異質の他者に対し、排除や非人間化を考えてしまうのは、
  「恐れ」の正体を見ないで、恐れそのものに振り回されているからではないか、ということ。
  それに対して、理性的に対処することで、
  今の社会問題を解決する糸口になるのかな、と思いました。
  
  たとえばドイツの移民問題の場合、なぜ彼らを排除したいと思うのか、を市民に聞いてみる。
  すると、移民が問題を起こすかもしれない、という恐れがあることが分かる。
  それで、それに対処していく…
  ということを一個一個していけばいのかな、と。
  それでも「なんとなく知らない人が来るのが不安」という根拠のない不安があるとすれば、
  一度交流会を開くとか、少しでも「恐れ」を取り除く方向のことをしていけばいいのかな、と。

  まあでもその前に、「自分たちは相手を非人間化しているんだ」
  「その根拠として恐れがあるんだ」ということを自覚することが大事ですね…
  今の世の中の問題を見ていると、それすらできていなくて、
  感情的に反応しているから余計こんがらがっている、
  ということが多い。
  そこを浮き上がらせていくことに、政治とか哲学の役割があるのかなと感じました。
 
  …なんだかリキが入ってしまいました。
  残りのお二方のお話は、分けて書きたいと思います。
  
  ではまた。